四ッ谷13
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玄関に向かおうとして、改めて部屋を見回す。
あたし、あそこに座ったんだっけ。
莉愛は、自分の足がだいぶ疲れていることに気がついた。少しぐらい休んでもいいんじゃないかと思う。莉愛はソファに足を向けると腰を下ろした。初めて来たときに寝ていた場所だ。
座ったまま虚空を見上げた。
まだ眠たげな優貴がマグカップを差し出したことを思い出す。
いけない……と思うが躰は動いていた。
立ち上がってキッチンに入り、コーヒーを淹れる。コーヒー豆や水は優貴がいつ帰ってきてもいいように補充している。いつも前より減ってないかと思うが、過不足はない。
マグカップふたつにコーヒーを注ぎ、ソファに戻った。
ブラックコーヒーに口をつけると予想通りの苦さだった。顔をしかめる。
ニュートラルな顔をした優貴の顔が浮かんだ。なんだ、ブラックが嫌なら言ってくれてよかったのに、と優貴が言う。優貴はそのあとすぐに砂糖とミルクを持って来てくれたのだ。そうするのが当然と言った顔だった。まるで感謝を求めていない黒瞳の透きとおった眸がフラッシュバックする。
そうだ。この時からあたしには判ってたんだ。
押し付けてこない人だって。見返りを求めない人だって。
おれは素直なのさ。
優貴が悪びれずに言う。
莉愛の大きな眸が涙で一杯になる。
そう、素直なんだ、優貴さんは。だから、気持いいんだ。
きみ、ツイてるよ。
優貴が片方の口角を上げてにっと笑う。
「あたし、ツイてたよ。本当にツイてた」
莉愛が上を向いた。そうしないと零れてしまう。こんなにほっと包まれたこと、ほかになかったよ。
莉愛は左の頬に手を当てた。冷えピタを剥がしてくれた優貴が見える。
覗き込む優貴の黒瞳が間近に迫る。
「もうダメだ」
耐えきれなくなった泪がぽろぽろと零れ落ちる。莉愛がうつむく。歪んだ視界の中に泪が落ちていく。
だめ、泣いちゃだめだよぉ。
だが、次から次へとよみがえってくる優貴の言葉、優貴の笑顔が止まらない。
莉愛は息を詰まらせ、嗚咽する。肩が震え、抑えようとしても抑えきれない感情が噴き出してくる。
「泣いたらだめだって」
口に出して言うと莉愛は唇をかみ立ち上がった。意志に反して整わない呼吸が口の中に溢れるが、それを押し殺す。
莉愛は怖かったのだ。
優貴との思い出を思い起こすのが怖かった。思い出せば泣いてしまう、泪にしてしまえばその分田村の思い出が薄れてしまう。それは田村の痕跡をまた一つ消すことのようで、怖かったのだ。
もうっ ここに座って、コーヒーなんか淹れるからだ。
元気めかして莉愛は自分に言うと、掌で頬をふき、カーテンを開けた。
新宿の街を観て気を紛らわそうとしたのだが、もう外は暗くなっていた。眸の中に泪に濡れた自分の顔が飛び込んできてしまう。
「ひどい顔」
莉愛は自分の顔を観てそういうと作り笑いを浮かべてみる。だが、ぎこちなく顔がゆがんだだけだった。首を振った莉愛は片方の口角だけ上げることにする。これなら何とか様になりそうだ。
ふっとまた息をついて、強く口角を上げた。
にっとした笑顔がガラス窓に映る。
「あっ」
莉愛はガラス窓の中に優貴の笑顔を見つけていた。
そうだ、優貴さんはこんな悪戯をしているような笑顔をいつもしていた。そして、最後のあの時も。
すっと、田村が莉愛の中に流れ込んできた。
「いっ、痛い」
急に胸が痛みだす。左肩が焼けつくような痛みを脳に送り出す。心臓の拍動とともにずきずきとした痛みを体中に感じる。
莉愛は胸の前で両手を合わせると、その場に座り込んだ。
三宅の言葉を思い出す。
『フュシスは原始の力じゃ。フュシスが断ち切られていると考えられない者同士では、それがつながり続けるのではないかな?』
「ああ、そうか、そうなんだ。優貴さん、ううん、優貴。生きてるんだね。あたし、ずっと心を閉ざして、あの高さじゃダメだと思って、でも、それを認めたくなくて……。逃げてたんだ。ごめんだ。ずっと伝えてきてたんだね」
痛みを全身に感じながら、莉愛は立ち上がった。そのフュシスが伝えてくる痛み、それは心を閉じていては伝わらない痛み、思いやることでしか伝わってこない痛みを愛おしく莉愛は正面から受け取る。
「待ってるよ。いつまでも待ってる。帰ってきたら、言ってやるんだ。こんどはちゃんと起きて待ってたんだからね。面白さ二倍を愉しんで待ってたんだからっ」
莉愛が顔を上げた。
「ああっ」
ぽろぽろと頬を涙が伝わる。
「だ、だから、キスしてね。口の周りべろべろにしてよ。お願い」
再び、莉愛は手を胸の前で握りしめると俯いた。
全身で痛みを、優貴を感じ、それを抱きしめる。
それはただの痛みではない。フュシスは気持が通うもの同士をつなぐ。その痛みは優貴が今感じている痛みのはずだ。そして、優貴が今生きていることを示す大切な痛みだった。
あとがき3
シオファニィの後日談の二作目を連載始めます。
神祖アイザック・ディを失ったマスアスが動き始めます。シオファニィでは描き切れなかった『絶対精神』とはなにか? それを達成するため太古の昔からマシアスが何をしてきて、そして、何をしようとするのかを描いていきます。
そして、田村優貴と前田莉愛はそれにどう対処するのか? お愉しみください。
隔日で5PMアップの予定です。
https://ncode.syosetu.com/n1469ii/
2023年7月18日 中井良
あとがき2
シオファニィの後日談の一作目が完結しました。田村優貴と前田莉愛のその後が気になる方はお愉しみください。
https://ncode.syosetu.com/n8016ic/
2023年4月2日 中井良
あとがき
今はあまり流行らなくなってしまったが、70年代から80年代にかけてスーパーヴァイオレンスアクションと呼ばれる傑作小説群があった。
どの小説でも、圧倒的なヒーローがいて美女を助け、悪徳企業や秘密結社、国家権力の野望を挫き、人々を、人類を、なかには宇宙さえも救ってしまう。
小学生だった私は、そんなヒーローたちの活躍を固唾を飲んでページを繰り、敵の拷問を、銃撃を、砲撃を受けて痛みに耐えるシーンを唇を噛みしめながら読んだものだった。女性の裸もだいぶ出るので、母親の目を盗んでだったけど。
いつかこんなヒーローが登場する小説を書いてみたい。
それは、子供の私の中に植え付けられたぼんやりした夢だった。
だが、その手のスーパーヴァイオレンスアクション小説(長いジャンル名だ(笑))ばかりを読んでいると、疑問や不満も生じてくる。
ヴィランたち(当時は敵役と言ったが)の野望を挫くのは確かに面白いが、よくよく考えると、ヒーローたちも「野望を挫く野望」を持っているわけで、本質的には同じではないか? いったいどこが違うのだろう? という疑問だ。
ヒーローは総じて自分勝手でわがまま放題、自分の好きなように生きて、トラブルを解決し、美女と浮名を流す。本質的に、ヴィランと変わらないのだ。
不満の方は、スーパーヴァイオレンスアクション小説(タイプするのがつらい(笑))に限らないが、人類ダメ小説というか、文明批判小説全般に言えることだが、
人は
未熟で
早計で、
無思慮で、
その場の欲望に振り回されるダメなものなのだ。
だから、
努力しなければ、
徳性を上げなけば、
超人類に進化しなければ、
悟りを開かなければ、
神ならなければ、
という各種フルコースのオチが待っているのだが、どうもピンと来ない。答えとして甘い気がする。
本当に人類は出来損ないの知的生命体なのだろうか?
いや、まぁ、出来損ないってのは当たっているっぽいが(笑)、こんなふうになってるのって何か原因があるのではないか? 曲がりなりにも、約500万年も生き残っているわけだし。
と、簡単に「種としてダメ! ゼッタイ」という答えに、食い足りないものを感じていた。
そんな疑問や不満を解消しないと小説は書けんわな。
と思っていろいろ勉強し、経験を積むうちに、三十年も経ってしまった。妻からは「あなたは、じっくり考えじっくり実行のカーリング」と言われるが、これはじっくり過ぎる(笑)
そろそろ、現在進行形でもいいので、形にせねばと思っていた矢先、師匠の哲学者・中村雄二郎氏が亡くなってしまった。ある本を上梓したときに、非常に喜んでいただき、次回作を待っていてくださったのに間に合わなかった。慙愧に堪えないとはこういうことを言う。
まだまだ、脇が甘い部分があるのは承知だが、無い知恵を絞って、これ以上「じっくり考え」ても仕方がなさそうだ。
恥を承知で裸踊りをしようと思う。
先のヴィランと主人公の違いは何なのか?
「種としてダメ! ゼッタイ」という答えへの不満を解消する新たなオチは
私なりに用意した。
今後、書いているうちに更新されるかもしれないが、今のところは「シオファニィ」に書いた内容で肯しと思っている。
まぁ、そうはいっても小説はエンタメなので、思索ばかりを練り込んでもつまらない。
ドカッ! ボコッ! バンバン! ズキューン! うぉ! ぎゃあぁ! とアクションや、
優貴と莉愛の愛情やそこはかとないエロは盛り込んだつもりだ。気楽に愉しんでもらえるともっと嬉しい。
8月から「小説家になろう」に投稿している間、とくに活動報告などの露出努力はしていないのに、一日100を越えるアクセスをもらうことが何回もあった(客観的に多いか少ないかは判断つかないが)。
ありがたいことに、世間様にすこし愉しんでもらえているようなので、田村優貴と前田莉愛の物語は、書き続けていきたいと思っている。
ただ、今回判ったのは自分がストーリィを組み立てるのに難渋するということだ(へそ曲がりなので既存のストーリィとは違う方向に行きたがるのが原因)。願わくば話し相手になってもらえるような人がいてくれれば助かるのだが。この「シオファニィ」がその突破口を開いてくれれば嬉しい。
最後に背中を押してくれた畏兄のH氏と、「小説家になろう」に投稿するように焚きつけてくれた大学の先輩で編集者のM氏に感謝する。
2022年12月13日 中井良




