6日目
「どうもトスが合っとらんなあ」
スパイクを空振りした長身の少年が眉を潜める。
「すまん秀哉。どうにも調子が悪いん」
「まだ指治っとらんのか?もう結構なるたい。そもそも、今日はずっと上の空やけど。彼女と何かあったと?」
「そ、そういうわけじゃなかと。……まあ、指は大丈夫。多分」
「ふうん」
うちのバレー部のエースにして部長、高橋秀哉は釈然としない様子だ。
右手中指の爪にできた血豆は、なかなか消える様子がなかった。もうできてから3ヶ月になる。
痛みは最初はなかったのだけど、最近はたまにじくじく痛むこともある。突き指もしてたからそのせいだと思ってるけど、何か気味が悪い。
ただ、今日の不調は明らかに中指のせいではなかった。もちろん、昨晩の兄ちゃんの告白がずっと気になっていたからだ。
この街を捨てて逃げる?それも中部まで?どれだけのことを、兄ちゃんはしたのだろう。
ただ、藤木先輩たちが僕に絡んできていた理由はやっと分かった。そんなに大変なことになってるなんて、思いもしなかった。
救いは、兄ちゃんが変わらず明るかったことだ。兄ちゃんは3年間、何も変わっていなかった。それは本当にホッとした。
でも……母さんや姉ちゃんに顔を見せるくらいはしてもいいのに。何で僕だけに別れを告げたのか、昨日からずっと引っ掛かったままだ。
「とりあえず、2年で晩飯食いに行こか。カッキー、サダ、ハッシー、夜の都合は?」
「俺はええよ。サダは?」
茶髪の少年、柿崎瑛二が坊主頭の眼鏡に言う。
「俺は予備校あるから。ハッシーもそうだったっけ」
「そやな。すまん」
身長192センチの大型センター、橋本悟がぼんやりとした口調で答える。試合では頼れるブロッカーなんだけど、オフは大体こんな感じだ。
「そか。じゃ、3人やな」
「どこ行くと?」
「そやなあ……あそこ行こか」
「ああ、あそこな」
秀哉が「あそこ」という時、行き先は決まっている。高校の最寄り駅から割と近い、「福龍」だ。
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「らっしゃい」
主人がぶっきらぼうに言う。店内はいかにも昔ながらの街中華で雑然としている。棚には20年ぐらい前の漫画の単行本が、ボロボロになって積まれていた。
見た目はいまいちなこの店だけど、僕らT高生は代々この店にお世話になっている。
昔に比べると値段は張るようになったらしいけど、量は並でもそこそこあるのが大きい。そして何より、旨い。
「俺はいつものちゃんぽん」
「俺も」
「あ、俺はセットで」
カッキーが注文すると、僕らは驚いて彼を見た。
「セット?1000円超えるやん!!どしたん!?」
「へへー、臨時収入がな」
そう言うと、カッキーは右手をクイクイと捻る真似をした。
「パチンコか。いくら勝ったん」
「それは言わんと。でもまあ、これでしばらくは余裕よ」
にししとカッキーが笑う。そうしている間に、丼がドンと置かれた。
「お待ち」
ちゃんぽんの具はキャベツにモヤシ、人参に豚やかまぼこが入ったボリューム感のあるものだ。
普通のちゃんぽんには魚介類がたっぷり入っているけど、ここではイカが気持ち程度しかない。でも、その分しっかりと味付けされている。これだけでご飯が食べられるほどだ。
「いただきます」
持ち上げた麺は細く縮れている。口にするともそっとしていて、噛むとプチンと切れた。
普通の麺ではなく蒸した麺を使っているから、らしい。だから注文から早く出せるというわけだ。
「んー、相変わらず旨いなあ」
秀哉は満足そうだ。コッテリと塩気の効いた豚骨スープが、この麺にぴったりと合う。
セットを頼んだカッキーは、炒飯を掻き込んでいた。あれも美味しいのだけど、高いから1回しか食べたことがない。
「ん、勇人箸が進んでないな。……今日はどしたん、言ってみ?」
「あ、うん。特に何でもないと」
「……それならええんやけど」
怪訝そうに秀哉が首をひねった。兄ちゃんのことは、皆に言えないことだ。
ポン、とカッキーが僕の背中を叩いた。
「無理せんでええよ。すぐに自分で抱え込むのは勇人のよくないとこやで?
心配されたくないのは分かるけど、それが逆に心配になるんや。辛かったら俺らに言い?」
「ああ、うん。ありがとうな」
気遣ってくれるのは、本当に嬉しい。でも、こればかりは相談してもどうしようもない。
……一つ言えるのは、僕は友達にも、恋人にも恵まれてる。そこは本当に幸運なんだろう。
兄ちゃんには、そういう人がいるのだろうか。3年間、ずっと一人だったわけではないみたいだけど。
啜ったスープが、僕には少し重たく感じられた。