20日目
九州大学病院は、JR吉塚駅から歩いて10分ほどの所にある。O尾からだと一度博多に出てから戻る格好になるので面倒だ。
それにしても、3年になってたった2日目で皆勤が途切れるとは思いもしなかった。これまでの17年間病気らしい病気はしてこなかったのだけど。
九大病院はさすがに今までみたどの病院より大きかった。というか、コンビニまであるのか。
受付に行き、皮膚科に回され、皆口先生から貰った紹介状を出して待たされること3時間。いい加減待っているのにうんざりした頃、ようやく僕の名が呼ばれた。
「戸倉勇人君、だね」
部屋にはどこかぼうっとした印象の中年男性がいた。笹川教授、というらしい。
「はい、そうです」
「親御さんは?」
「いえ、心配を掛けるといけないので……」
彼の顔が曇った。
「君のこれからに関することだから、親御さんには一緒に聞いてほしかったのだが」
「すみません、次は連れてきます」
「そうした方がいいな。まあ、その時には確定診断を伝えねばならないから、いてもらわないと困るんだが」
ボソボソと言いながら、モニターに写真を映し出す。
「皆口さんから、話は聞いたね?」
「……ええ。メラノーマの疑いあり、と」
「怖くはないか?」
「……怖いです。でも、先に進まないと」
「そうか。なら率直に言おう。9割方メラノーマだと思う。ダーモスコープで見る限り、かなり良くない出方だ。
問題はステージだ。こればかりは切らないと分からない」
「ステージ、ですか」
「そうだ。こいつを見てくれ」
笹川教授はサッサッと人体の絵と指を横から見たものを描いた。
「癌の厚さが1ミリ未満ならステージ1。それ以上だったり潰瘍があればステージ2。すごくざっくり言えばそんな感じだ。
まあステージ2にも幅があって、一発で済むのと抗がん剤治療が要るのとがあるが、まあこの段階なら大丈夫だ」
「治りやすい癌なんですか?」
小さく笹川教授が首を振る。
「初期ならそうだが、問題はこいつが簡単にステージ3や4に行きやすいってことだ。
皮下のリンパ腺を通して近くのリンパ節に転移するとステージ3。そして全身転移するとステージ4になる。
メラノーマが恐ろしいのは、とにかく進行が早い。癌細胞が胞子みたいな形になっていて、油断するとすぐにどこかに行ってしまう。
骨肉腫もそれに近いものがあるが、メラノーマは本当に進行の早さが恐ろしいんだ」
寒気が急に全身に広がってきた。……もう、手遅れかもしれないのか?
動揺した僕に気付いたのか、笹川教授が静かに微笑む。
「大丈夫。他に身体に異常がないなら、あってステージ3だ。ステージ2のキツいのか、ステージ3であるのが分かったらすぐに化学療法を始める。最速で、生検結果が分かる来週からになるな」
「『生検』?」
「今日やる手術のことだ。メラノーマは外科手術自体はしやすいから、そこは救いなんだけどな。
切って癌の疑いがある所を調べ、それでメラノーマかそうでないか、そしてメラノーマならステージがどれかを確認する。こればかりは切らないと始まらない」
「……痛い、んですか」
笹川教授が困ったように頭をかく。
「……それな。痛い。凄まじく。親御さんがいた方がいいと言ったのは、それもある。
ヤクザの拷問で爪を剥ぐってのがあるが、あれをマジでやらないといけない。
そして手先という敏感な所にメスを入れるから、麻酔も結構打つ。これが大変だ。覚悟はできているか?」
教授の目は真剣だ。どうやら脅しではない、らしい。
でも、先に進まないと意味がない。僕は恐怖を無理矢理抑え込んで頷いた。
「……はい」
「分かった。じゃあ準備をするから待合室で待っていてくれ」
待つこと10分ほどで、僕は処置室に入れられた。手術室みたいなところじゃないんだな。
看護師さんに仰向けに寝かされる。そして、教授が入ってきた。
「お待たせ。じゃあ、さっそく始めようか」
「……はい」
「よし。じゃあまず消毒しよう」
右手の甲がすっとする。するとすぐに教授が静かに言った。
「かなり痛いのが何回か来るから、何とか耐えてくれ。……キシロカインを」
寝ているから甲の部分は見えない。すると、チクリと針が刺した感触がした。この程度なら……
……え?
「がああああああっっ!!!?」
何だこれ??とてつもなく熱く、痛い何かが手の中に入ってきている!!!
それは収まることなく、ずっと続いている。こんなの耐えられない!!
「あー、痛いよな。ただ、あと4本行くから。そうしないと耐えられないから、我慢してくれよ」
そんな馬鹿な!こんなのを、あと4回も……
チクリ
「うがああああっっ!!!!」
獣のような叫びしか出ない。何だこれ!?何でこんなに辛い思いをしなければいけないんだ!!?
目からは思わず涙が出る。甘かった。これは完全に僕が甘かった。
知ってたら今日手術なんて受けなかったのに。せめて、母さんは呼んでくるべきだった。
後悔していると3本目が来る。また溶けた鉄を流し込まれるような、熱くて重い痛みが手に広がった。
そして、4本目。熱さは鈍ったけど、それでも激痛の範疇だ。その間、ずっと泣き続けていたと思う。
5本目になって、ようやく少し痛みが和らいだ。何か押されているようだけど、何も感じない。
「……これ、痛いかな?」
「あ……多分、痛くないです」
「うん、じゃあこれは?」
「何も感じません」
いつの間にか、手の所は覆いで隠されている。だから何も見えない。
「よし。結構今痛いことやったんだけど、これで感じないなら大丈夫だろう。本番を始めよう」
右手中指に、何か当たる感触がする。時折「電気メス」とか聞こえるけど、何も感じない。
ただ、それが逆に気持ち悪い。すごく痛いことをされているみたいなのだけど、何をされているかさっぱり分からない。
20分ぐらいして、「糸を」と教授が言った。どうやら縫うらしい。
そして何かが塗られる感触がした。包帯をぐるぐる巻かれているのだけは、看護師さんの動きで何となく分かった。
「……これでおしまいだ。一応、骨の手前ぐらいまで切除している。
安全策を取るなら指先を取ってしまうべきなんだけど、QOLの観点からそれは温存したよ。取った爪、見てみるかい?」
僕はブンブンと首を振った。というか、血が相当流れているのはぱっと見て分かる。そんなもの、見たくもない。
笹川教授は「ははは」と笑った。
「まあそうだろうね。ただ、爪を剥いだから、物凄く後々傷む。強力な痛み止めを出すから、数時間に1回は飲んでくれ。多分、1週間は厳しいと思う」
今は麻酔が効いていて何も感じないけど、そこまで痛いのだろうか。恐怖が湧いてくるのが分かった。
「そ、そうなんですか」
「ああ。一応傷を電気メスで焼いたから、血はそこまで出ないだろうけど。
今日は風呂に入らず、明日から。それと、傷口には化膿止めの軟膏を必ず塗ること。抗生物質も出すから、これも忘れないように」
「次に来るのは」
「1週間後だ。そこでメラノーマかどうかの確定診断を出す。その上で、もう一回少し痛い思いをしてもらうかもしれない」
「……また手術ですか?」
笹川教授が「それは心配ない」と微笑んだ。
「注射を伴う検査だ。これはそんなにかからず結果が出る。
メラノーマなら転移の有無を調べるために、1日泊りがけで精密検査をすることになる。だから、入院の準備を忘れないように。
場合によっては、すぐに抗がん剤の投与第1クールに入る。1週間ぐらいの入院期間になるな。
何もないのが一番だが、一応覚悟だけはしてくれ。もちろん、親御さんの同伴も忘れずにな」




