18日目
門司港行きの鈍行に乗っている間、僕の心はどうにも落ち着かなかった。
洋さんがなぜ、病院をわざわざ指定したのか。この爪の「血豆」の正体は一体何なのか。
じりじりと疼く右手の中指が、イライラを増幅させる。
母さんは「念のため診てもらうだけやけん」と口では言っていたけど、どこか無理して笑っていた。
命にかかわるようなものじゃないとは思っているけど、それでも不吉な予感がぬぐえない。
O尾から小倉までの30分の道のりが、1時間にも2時間にも感じられた。
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小倉駅から少し離れた雑居ビルのワンフロアが、僕の目的地だったようだ。「皆口皮膚科クリニック」とある。
他にも色々病院が入っているらしい。洋さんがここを指定した理由はよく分からないけど、外観はとりあえずきれいだ。
「戸倉勇人さんですね。ではこちらに症状を書いてお待ちください」
春休み最終日の病院はそこそこ人が多い。午後ということもあるのかな。
待つこと30分、ようやく僕の名前が呼ばれた。
「失礼します」
消毒液と薬のかすかな臭いがする。大きなモニターとパソコンの前に、中年の優し気な女性が座っていた。
近所の町医者とは全然雰囲気も設備も違うのは、一目見て分かった。
「どうぞ。右手中指の爪、血豆が治らないということね」
「はい。これです」
見た瞬間、先生の表情が曇った。
「……これ、いつから?」
「多分、3カ月ぐらい前からです。何か、少しずつ大きくなってて……痛みも少し。激しくはないですど」
「ちょっと待っててね」
先生が奥から一眼レフを持ってきた。……診察に一眼レフ?
「写真を撮らせてもらうわね。ちょっと冷たいけど」
チューブから何かゼリーのようなものを絞り出すと、先生がそれを中指に塗り付けた。
そして指に画面を押し当て、何回かシャッターを切る。
「……これでよし、と。ちょっと君にも説明するからね」
すぐに画像がモニターに映し出された。縦に走る黒い線のような血豆は、こうやって拡大するととてもグロテスクに見える。
「気持ち悪いでしょ、これ」
「えっ……あっ、はい」
「変なことを言ってごめんね。でも、この『気持ち悪い』というのが大事なの。
これは血豆じゃないわ。黒子」
「ほ、黒子なんですか、これ」
「ええ。そして、爪にできる黒子は……あまり良くないのが多いのよ。
形が不定形で気持ち悪いというのも含めて。しかも痛みまである。
足の裏にできる黒子が良くないというのは良く知られてるけど、爪はそうでもないの。
そして、君みたいな若い子にできるのは、相当珍しい。学会でもあまり聞いたことがないわね」
先生は努めて穏やかに話しているけど、それがかえって僕の身体に起きていることの深刻さを感じさせた。
「良くないって……どういうことなんですか」
「ただの黒子じゃないことが多い、ということ。もちろん、確定的なことは言えないわ。
私としては、早く大きな病院で診てもらうことをお勧めするわね」
「大きな病院って、T畑総合病院、とかですか」
「そこじゃだめ。九大病院が一番いい。遠いだろうけど、そこなら一番いい治療をしてくれる」
……九大病院??福岡じゃないか。そんなにヤバい病気なのか……??
体温が一気に下がり、そこに倒れ込みたくなるほどの圧力を僕は感じた。歯がガタガタと鳴る。
「お、俺は……どうなってしまうと?そもそも、これって……」
「『腫瘍』としか今は言えない。確定診断は、色々検査しないといけないから。
それに、仮に悪性でもステージ2までなら1度痛いのを我慢すればすぐに治るわ。
手術兼検査の処置をお願いしてみる。ちょっと待っててね、連絡してみるから」
処置室を出るよう促された。……悪性?つまり、それは……
僕は、癌にかかっている??
「う、ううっ……うわあっ……うわああああああ!!!」
嘘やろ??そんな、アホみたいなことあるわけないやろ!??
目の前にある全てのものが、ガラガラと音を立てて崩れていく。全部、全部崩れていく。
慟哭に気付いたのか、先生が処置室から飛び出してきた。
「戸倉君!!?」
「せ、先生!?俺、癌なんやろ??なあ、本当のことを言ってくれっちゃ!!なあ!??」
「……ごめんなさい、怖がらせるようなことを言って……処置室に入りなさい。ちゃんと説明するから」
看護師さんに支えられ、僕は何とか処置室に入った。待合室の視線が僕に集まっていたのは分かってたけど、そんなのもうどうでも良かった。ただ、真実を知りたかった。
「……もう一度、説明するわね。あなたの右手中指にあるのは、皮膚癌の一種、『メラノーマ』である可能性がある。
ただ、あくまで現時点では『可能性』。実際に取ってみて、分析してみないと私からは何とも言えない」
「な、なら……何であんなこと言ったと!!」
「撮った写真は『ダーモスコープ』という特殊な写真なの。あれでかなりの疑い例は分かる。
そして、後は切らないと分からない。そして、メラノーマでもすぐ治るものなのか、それともタチの悪いのかも分からない」
「タチが悪い?」
「ええ。メラノーマは、相当特殊な癌なの。早期発見ならまず100%、それもとても早期に治る。手術はするけど、それでおしまい。
問題は、そうでなかった時。抗がん剤が効きにくいのもあって、非常に難しい癌の一つとされてる。
最近はノーベル賞でも有名になったオプジーボの登場でかなり予後は良くなっているけどね。
ステージ4に行くまでに食い止められるか、時間との勝負」
先生が少し身を乗り出した。
「だから、私が知る一番の先生を紹介します。君は若いから、本当に時間との戦いになるわ。
さっき手術の話もしたわ。生検の結果が出るまでは少しかかるから、すぐに方針は固まらないけど」
「手術って……入院するんですか」
「それは心配いらないわ。日帰りだし、局所麻酔で済む。お金も1万円ぐらいかしら。
繰り返すけど、あなたの中指のはメラノーマと決まったわけじゃない。確率は半々、ってとこ」
半々……高いのか低いのか、正直判断が付かない。
「17の子に、こんな不安がらせるようなことを言ってしまって……私もまだまだね。
でも、これは私が診断した、嘘偽りのない事実。そして、これは忘れないで。
『できるだけ普段通りに生きて』。不安だろうし、怖いだろうけど……あなたの病気は、まだ何かちゃんと分かっていないのだから」
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病院を出ると、酷い虚脱感に襲われた。まともに歩く気にもなれない。
こんな精神状態で、家に帰るのか。母さんに何を言えばいいんだろう。部活は、学校は。そして……
「……勇人??」
目の前には鞄を持った美里がいた。気が付くと、僕は彼女に駆け寄り……胸の中で泣いていた。




