数えるなと言われました。ただ、灯が一つ多いだけです 【十五文化圏周縁抄 ダークエルフ・ホラー】
黒根洞の灯は、四十九ある。
そう帳には書かれている。
入口の曲がり灯が一つ。
水汲み道に三つ。
子ども道に七つ。
菌床室前に五つ。
泥炭倉前に四つ。
長老穴へ向かう上道に六つ。
産屋道に三つ。
病み穴の前に二つ。
古井戸跡に一つ。
下広間に十二。
そして、集落のいちばん奥、黒い祠の前に五つ。
合わせて四十九。
わたしは、そう習った。
わたしの仕事は、その四十九の暗所灯を、朝に消し、夕に点けることだった。
油皿を拭く。
煤を落とす。
反射石を磨く。
灯芯を替える。
風穴が詰まっていないかを見る。
子ども道の灯だけは、少し低くする。
産屋道の灯は、強すぎてはいけない。
菌床室の前の灯は、熱を持たせすぎてはいけない。
泥炭倉の灯は、火を落とす時に二度確かめる。
灯番は、ただ火を点ける者ではない。
暗い道で誰かが転ばないようにする者であり、菌床を焼かない者であり、泥炭に火を移さない者であり、子どもが影を人と間違えぬようにする者である。
だから、わたしは灯を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
数えなければ、足りない灯に気づけない。
数えなければ、消し忘れた灯に気づけない。
数えなければ、油の減り方も分からない。
数えることは、灯番の仕事だった。
少なくとも、母がいた頃はそうだった。
*
母は、先代の灯番だった。
名をレナという。
黒根洞の者は、母のことを「よい灯番だった」と言う。
だが、それ以上は言わない。
どの灯を好んだのか。
どの道でよく歌ったのか。
わたしが幼い頃、どんなふうに母の腰袋から灯芯を盗んで叱られたのか。
そういう話を、誰もしない。
ただ、よい灯番だった、とだけ言う。
母がいなくなったのは、わたしが十二の時だった。
夜の灯を点けに行き、戻らなかった。
誰かが穴へ落ちたのだろうと言った。
誰かが古井戸跡で足を滑らせたのだろうと言った。
誰かが下流の暗水へ流されたのだろうと言った。
でも、身体は見つからなかった。
灯芯袋だけが、菌床室の前に落ちていた。
その日から、わたしが灯番になった。
長老は言った。
「灯は四十九だ」
わたしは頷いた。
「帳のとおりに点けよ」
わたしは頷いた。
「それから」
長老は、わたしをじっと見た。
ダークエルフの目は、わずかな灯でも強く光を返す。
長老の目は、遠い火皿の残り光を拾い、濡れた石のように光っていた。
「数えすぎるな」
わたしは、意味が分からなかった。
「数えなければ、点け忘れます」
「数えすぎるな」
「はい」
その時のわたしは、まだ子どもだった。
長老の言うことは、深いことなのだと思った。
数えるだけでは灯は守れぬ。
油の匂いを見ろ。
煤の厚みを見ろ。
足音を聞け。
きっと、そういう意味なのだと思った。
だから、わたしは灯を数えた。
ただし、口には出さなかった。
心の中だけで数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
四十九。
いつも、四十九で終わる。
そう思っていた。
*
おかしいと気づいたのは、冬前の泥炭入れ替えの日だった。
泥炭倉の前は、いつもより人が多かった。
乾き泥炭。
半乾き泥炭。
煙多し泥炭。
鍛冶穴用。
産屋不可。
菌床近く不可。
札を替える者、積み替える者、泥を払う者、腰をさすって文句を言う者。
通路は狭く、荷が多く、灯は少し強めにしておく必要があった。
わたしは夕方、いつものように入口の曲がり灯から点けた。
一つ。
水汲み道の三つ。
二つ。
三つ。
四つ。
子ども道の七つ。
十一。
菌床室前の五つ。
十六。
泥炭倉前の四つ。
二十。
長老穴へ向かう上道の六つ。
二十六。
産屋道の三つ。
二十九。
病み穴の前の二つ。
三十一。
古井戸跡の一つ。
三十二。
下広間の十二。
四十四。
黒い祠の前の五つ。
四十九。
数え終えた。
そう思って、祠前の火皿から手を離した。
その時だった。
下広間の奥柱の影で、もう一つ火が揺れた。
来る時にはなかった。
少なくとも、灯番であるわたしは、そこへ火を点けていない。
わたしは足を止めた。
四十九の次。
五十。
そんなはずはない。
黒根洞の灯は四十九である。
わたしは、数え直した。
口には出さず、心の中で。
入口の曲がり灯。
一つ。
水汲み道、三つ。
四つ。
子ども道、七つ。
十一。
菌床室前、五つ。
十六。
泥炭倉前、四つ。
二十。
上道、六つ。
二十六。
産屋道、三つ。
二十九。
病み穴、二つ。
三十一。
古井戸跡、一つ。
三十二。
下広間、十二。
四十四。
祠前、五つ。
四十九。
そこまでは、帳のとおりだった。
だが、下広間へ戻ると、奥柱の影で火が揺れている。
五十。
間違いない。
灯が、一つ多い。
わたしは灯帳を見た。
革の表紙に、油を薄く引いた樹皮札を革紐で綴じた古い帳である。
母が使っていたものを、わたしが継いだ。
灯の位置と、油の減りと、灯芯替えの日が書いてある。
帳には、四十九とある。
何度見ても、四十九である。
それなのに、点いている灯は五十。
わたしは下広間の奥柱へ近づいた。
黒根洞の道は、枝のように分かれる。
けれど、灯の場所は決まっている。
置き足した灯があれば、すぐ分かるはずだった。
わたしは火皿を探した。
新しい油皿。
余分な灯芯。
誰かが勝手に置いた灯台。
何もない。
柱の影にあるのは、いつもの石床だけだった。
それでも火は揺れている。
灯だけがあり、灯を入れる器がない。
背後で、誰かが言った。
「数えたのか」
わたしは振り向いた。
泥炭倉の番をしている老人、ガルドだった。
彼は腰が曲がっていて、いつも濡れ札を嫌って怒鳴っている。
でも、その時の声は怒鳴りではなかった。
低く、乾いていた。
「灯が」
わたしは言いかけた。
ガルドは、首を横に振った。
「数えるな」
「でも」
「四十九だ」
「いえ」
「四十九だ」
ガルドの目が、柱影の火を映していた。
四十九ではない。
彼にも見えている。
そう思った。
だが、彼は四十九だと言った。
「おまえの母も、数えた」
それだけ言って、ガルドは泥炭倉の方へ戻っていった。
その夜、わたしは眠れなかった。
頭の中で、灯を数え続けた。
一つ。
二つ。
三つ。
四十九。
五十。
五十番目が、なぜ下広間の奥柱にあったのか分からない。
火皿も灯芯もないのに、なぜ燃えていたのか分からない。
それが、いちばん怖かった。
*
翌朝、灯を消しに行くと、数は四十九に戻っていた。
入口の曲がり灯。
水汲み道。
子ども道。
菌床室。
泥炭倉。
上道。
産屋道。
病み穴。
古井戸跡。
下広間。
黒い祠。
数えれば、四十九。
昨夜の五十はなかった。
油の減りも、四十九分だった。
灯芯も、余分には減っていない。
わたしは自分が疲れていたのだと思った。
泥炭入れ替えの日は忙しい。
煤も多い。
人の声も多い。
灯の揺れ方もいつもと違う。
見間違い。
数え間違い。
そう思うことにした。
だが、その日の粥の時間に、また数がずれた。
黒根洞では、夕粥の椀を下広間へ並べる。
大人用の深椀。
子ども用の浅椀。
病み穴へ運ぶ粥壺。
産屋へ回す温粥。
菌床室の者は遅れて食べるので、脇に置く。
わたしは灯番だが、夕粥の時だけは下広間の灯を少し下げるため、椀の横を通る。
その日、椀が一つ多かった。
誰か客が来ているのかと思った。
黒根洞は閉じた集落だが、泥炭や黒茸の商人が来ることはある。
けれど、入口番に聞いても、外の者は来ていないと言う。
病み穴から戻った者もいない。
産屋の人数も変わらない。
それなのに、粥椀が一つ多い。
「その椀は」
わたしは、粥をよそう女に聞いた。
女は手を止めた。
広間の声が、一瞬だけ低くなった。
「どの椀」
「そこです」
わたしは指を差した。
下広間の奥、柱の影。
誰も座っていない場所に、湯気の立つ椀が一つある。
椀の横には、木匙も置かれている。
女は、その椀を見なかった。
「椀は足りている」
「足りているのではなく、多いです」
「数えるな」
また、その言葉だった。
数えるな。
「でも、粥が冷めます」
「冷めてよい」
「誰の椀ですか」
「誰のものでもない」
「では、下げます」
わたしが椀へ手を伸ばすと、下広間の全員がこちらを見た。
その瞬間、わたしは手を止めた。
声はない。
叱責もない。
ただ、全員がこちらを見ていた。
長老も。
泥炭倉のガルドも。
子を抱いた女も。
菌床室の若者も。
わたしと同じ年頃の娘たちも。
みな、わたしではなく、わたしの手を見ていた。
椀へ伸びかけた手を。
わたしは、手を引いた。
下広間の声が戻った。
誰かが咳をした。
誰かが粥をすすった。
誰かが子どもを叱った。
柱の影の椀だけが、湯気を立てていた。
その夜、椀は最後までそこにあった。
朝には、空になっていた。
*
それから、わたしは数えることをやめようとした。
だが、灯番にとって、それは息を止めるようなものだった。
油皿を持てば、数える。
灯芯を切れば、数える。
反射石を磨けば、数える。
道を歩けば、何歩目に灯があるか体が知っている。
数えないようにすると、かえって数が浮かぶ。
四十九。
四十九。
四十九。
その数が、頭の中で何度も鳴る。
そして、夜になると増える。
ある夜は五十。
ある夜は五十一。
ある夜は、どう数えても四十九なのに、足音だけが一つ多かった。
水汲み道を歩いている時だった。
わたしの足音。
水壺を持つ女の足音。
後ろを走る子どもの足音。
それだけのはずだった。
しかし、灯の影が曲がるたび、もう一つ足音が遅れて鳴った。
ぺたり。
ぺたり。
裸足の音。
黒根洞では、裸足で通路を歩かない。
石は冷たく、菌の湿りがある。
足を切れば、すぐ悪くなる。
だから、誰も裸足では歩かない。
でも、その足音は裸足だった。
わたしは振り向かなかった。
振り向けば、何かを数えてしまう気がした。
また別の日。
菌床室の前の札が、一枚多かった。
黒茸。
白根茸。
灰斑茸。
薬師確認。
乾かす。
戻す。
燃やす。
分からない。
いつもは八枚。
その日は九枚あった。
九枚目は裏返っていた。
手に取ると、札には何も書かれていなかった。
だが、裏に爪で掻いたような跡があった。
レ。
ナ。
母の名に似ていた。
わたしは札を落とした。
菌床室の奥から、誰かが言った。
「戻せ」
低い声だった。
誰の声か分からない。
わたしは札を戻した。
裏返しのまま。
すると、菌床室の奥から、黒茸の匂いに混じって、古い灯油の匂いがした。
母の腰袋の匂いだった。
*
わたしは古い灯帳を調べ始めた。
夜、皆が寝静まった後、灯芯箱の下から古い帳を出す。
母の前の灯番。
さらに前の灯番。
黒根洞が今より小さかった頃の灯帳。
革表紙は乾き、油引きの樹皮札は角が擦り切れている。
油の跡がある。
煤の跡もある。
古い字は読みづらい。
だが、灯の数は読めた。
四十二。
四十四。
四十七。
四十九。
灯は、昔から四十九だったわけではない。
集落が広がるたびに増えた。
水汲み道が伸び、子ども道が分かれ、病み穴ができ、菌床室が二つになり、黒い祠の前に灯が増えた。
当然だ。
道が増えれば、灯も増える。
それなのに、ある時から帳は四十九で止まっている。
母の時代も四十九。
今も四十九。
でも、母の最後の年の帳だけ、妙だった。
頁の端が削られている。
灯芯替えの記録が一行消されている。
油の減りが、四十九灯分より少し多い。
そして、母の字で小さく書かれていた。
五十番目、下広間奥柱影。
次の行は削られていた。
さらに下に、もう一つ。
五十一番目、菌床室前。
そこも削られていた。
わたしの手が震えた。
母も見ていた。
母も数えた。
そして、帳に書いた。
その後、消された。
頁の端に、母の字がかすかに残っている。
数えなければ、消えない。
数えれば、増える。
わたしは、その文を何度も読んだ。
意味は分からない。
でも、怖かった。
数えなければ、消えない。
数えれば、増える。
なら、消えているものは何なのか。
増えているものは何なのか。
わたしは灯帳を閉じようとした。
その時、背後で声がした。
「見たのか」
長老だった。
いつからいたのか分からない。
灯芯箱の影に、黒い衣が溶けていた。
わたしは帳を抱えた。
「母も数えていました」
「おまえの母は、よい灯番だった」
「なぜ、消したのですか」
「消したのではない」
「削られています」
「守ったのだ」
「何を」
「集落を」
長老の声は静かだった。
怒ってはいない。
悲しんでもいない。
ただ、硬かった。
泥炭を長く乾かしすぎた時のような硬さだった。
「黒根洞は、何度も飢えた。病も来た。水も濁った。菌床も腐った。全員を数えれば、全員が足りなくなる時がある」
「意味が分かりません」
「数には力がある」
「だから、帳を書くのでしょう」
「だから、帳から外すこともある」
わたしは、長老を見た。
彼は、わたしではなく、灯帳を見ていた。
「飢えの年、粥椀を全員分並べれば、全員が足りないことを知る。誰かを選ばねばならぬ。病の年、寝床を全員分敷けば、病み穴が足りないことを知る。菌床が死んだ年、作業札を全員分掛ければ、泥炭も薬茸も足りないことを知る」
「だから」
声が震えた。
「誰かを数えないのですか」
「一人を外せば、残りが生きる」
「外された人は」
「黒根洞の内にいる」
「どこに」
「数えるな」
わたしは帳を握りしめた。
「母は、外されたのですか」
長老は答えなかった。
「母は、どこにいるのですか」
「おまえの母は、よい灯番だった」
「それは答えではありません」
「よい灯番だった」
同じ言葉。
何度も聞かされた言葉。
それは、母を褒める言葉ではなかった。
母を片づける言葉だった。
「数から外した者は、死者ではない」
長老は言った。
「生者でもない。名を呼ばぬ。椀を数えぬ。寝床を数えぬ。作業札を数えぬ。そうすれば、集落は保つ」
「それで、外された人はどうなるのですか」
「黒根洞を支える」
わたしは、菌床室の匂いを思い出した。
泥炭倉の奥の、濡れた札。
下広間の柱の影。
空になった粥椀。
裸足の足音。
母の灯油の匂い。
「菌床室ですか」
長老は何も言わなかった。
何も言わないことが、答えだった。
わたしの胃の奥が冷えた。
「母を」
「言葉を選べ」
「母を、数から外したのですか」
「レナは、集落を守った」
「母は、望んだのですか」
「望む望まぬではない」
「では、殺したのですね」
その瞬間、長老の目が鋭く光った。
でも、彼は怒鳴らなかった。
「殺せば、死者になる」
彼は言った。
「死者は数える。弔う。名を読む。穴を掘る。灯を置く。泣く。食う者の数は減らぬ。だが、外せば違う。死者ではない。生者でもない。だから、数えなくてよい」
わたしは、息ができなかった。
黒根洞の灯が、遠くで揺れている。
四十九。
五十。
五十一。
数が頭の中で崩れていく。
「なぜ、灯だけ増えるのですか」
わたしは聞いた。
長老は、そこで初めて、ほんの少し顔を歪めた。
「灯は、影を拾う」
「影」
「名を消しても、椀を数えなくても、寝床を畳んでも、作業札を外しても、影だけは残る。灯番は、それを見る」
「だから、数えるなと」
「そうだ」
「母は数えた」
「そうだ」
「わたしも数えた」
長老は黙った。
沈黙が、灯芯の燃える音より大きくなった。
やがて、彼は言った。
「おまえは、よい灯番だ」
わたしは、灯帳を落とした。
よい灯番。
それは、母に向けられていた言葉と同じだった。
褒め言葉ではない。
選別の言葉だ。
*
それから、黒根洞の者たちは、わたしの名を呼ばなくなった。
最初は、気のせいだと思った。
子ども道の灯を直した時、子どもが「灯番」と呼んだ。
水汲み道で油皿を持っていると、水壺の女が「そこを通るよ」と言った。
下広間では、粥をよそう女が「椀はそこだ」と言った。
誰も、ネリスとは呼ばない。
前から、仕事名で呼ばれることはあった。
灯番。
灯の娘。
レナの子。
だから、気にしすぎだと思った。
でも、灯帳を見て分かった。
灯番帳の表に書かれたわたしの名が、薄くなっていた。
ネリス。
その字の端が、削られている。
刃物で削ったのではない。
何度も指でこすったように、薄く、広く、消えかけている。
わたしは自分の名をなぞった。
黒い煤が指についた。
ネ。
リ。
ス。
まだ読める。
まだ消えていない。
その夜、粥椀が一つ減った。
下広間に並んだ椀を見て、わたしはすぐ分かった。
いつもより一つ少ない。
でも、誰も困っていない。
わたしの椀がなかった。
わたしは粥をよそう女を見た。
女は目をそらした。
「わたしの椀は」
そう言いかけて、声が止まった。
下広間が静かになった。
長老がこちらを見ている。
ガルドも見ている。
子どもたちも、母親の袖の陰から見ている。
わたしは、何も言えなかった。
椀がない。
なら、わたしは数に入っていない。
しかし、腹は空いている。
手は震えている。
喉は粥を欲しがっている。
数から外されても、腹は消えない。
それが、ひどく恐ろしかった。
その夜、わたしは灯を点けた。
一つ。
二つ。
三つ。
四十九。
五十。
五十一。
五十二。
増えていた。
灯が、また一つ増えていた。
どこが増えたのかは分からない。
だが、数えれば五十二ある。
わたしは、五十二番目の灯の前に立っていた。
場所は、子ども道の奥だった。
昔、母がわたしを迎えに来た場所である。
灯は、いつもの油皿で燃えていた。
でも、その影は、わたしの足元から伸びていなかった。
誰かの影が、わたしの隣に立っている。
わたしは振り向いた。
誰もいない。
でも、灯油の匂いがした。
母の腰袋の匂い。
「母さん」
口に出してしまった。
すぐに、通路の奥で何かが動いた。
石を引きずるような音。
遠くの扉が閉まる音。
誰かが息を呑む音。
母の名を呼んではいけなかったのだ。
呼べば、死者になるから。
死者になれば、数えなければならないから。
黒根洞は、母を死者にしたくなかった。
だから、生者でも死者でもないものにした。
数えなくてよいものにした。
わたしは、五十二番目の灯の前で膝をついた。
母の影は、そこにいるようで、いない。
わたしは、灯帳を開いた。
震える手で、削られかけた自分の名の下に、新しく字を書いた。
ネリス。
灯番。
五十二番目を数えた。
さらに、その下に書いた。
レナ。
灯番。
五十番目を数えた。
字は汚かった。
煤と油で滲んだ。
でも、書いた。
帳に書けば、消されるかもしれない。
削られるかもしれない。
燃やされるかもしれない。
それでも、書かないよりはよい。
数えないよりはよい。
*
翌朝、長老が来た。
わたしは灯芯箱の前に座っていた。
一晩中、眠れなかった。
灯帳は膝の上にある。
長老は、帳を見た。
そこに書かれた母の名と、わたしの名を見た。
「消せ」
彼は言った。
「嫌です」
「集落が乱れる」
「もう乱れています」
「ネリス」
久しぶりに、名を呼ばれた。
その声に、わたしの胸が一瞬だけ震えた。
名を呼ばれるとは、こんなにも痛いことだったのか。
「消せば、戻れる」
長老は言った。
「椀も戻す。寝床も戻す。灯帳にも残す」
「母は」
「レナは戻らぬ」
「では、わたしも戻りません」
「おまえは生きている」
「母も生きていました」
「数えれば、皆が苦しむ」
「数えなければ、外された人だけが苦しみます」
「一人で済む」
「一人だから、よいのですか」
長老は答えなかった。
その沈黙に、黒根洞の全部が詰まっているようだった。
水が足りない年。
粥が薄い冬。
菌床が腐った夜。
病み穴に寝床が足りない日。
誰かを外せば、残りが助かる。
その考えが、この集落を生かしてきたのかもしれない。
母を消したのも、誰かの悪意だけではなかったのかもしれない。
長老も、ガルドも、粥をよそう女も、子を抱く母も、皆、怖かったのかもしれない。
でも、怖いからといって、消してよい名などない。
わたしは灯帳を抱えた。
「わたしは灯番です」
「そうだ」
「灯が足りない時は足します。多い時は消します。煤があれば拭きます。影が濃ければ、位置を変えます」
「だから、消せ」
「違います」
わたしは首を振った。
「灯が影を拾うなら、影をなかったことにはしません」
長老の顔が、少しだけ老いたように見えた。
「おまえも、レナと同じだ」
「母は、よい灯番だったのでしょう」
「そうだ」
「なら、わたしもそうします」
わたしは立ち上がった。
灯帳を持ち、下広間へ向かった。
長老は止めなかった。
止められなかったのかもしれない。
下広間には、朝の粥椀が並んでいた。
椀は、四十八だった。
わたしの分だけでなく、もう一つ減っている。
誰が消され始めているのか。
見回すと、子ども道の端に座っていた小さな男の子がいなかった。
名前は、たしかミオ。
釘拾いが得意な子だった。
母親が、空いた場所を見ないようにして粥をすすっていた。
わたしは広間の中央に立った。
灯帳を開いた。
そして、声に出して読んだ。
「レナ。灯番。五十番目を数えた」
広間が凍った。
椀を持つ手が止まった。
子どもが泣き出しそうな顔をした。
長老が入口に立っている。
わたしは続けた。
「ネリス。灯番。五十二番目を数えた」
「やめろ」
ガルドが言った。
わたしはやめなかった。
「ミオ」
母親が椀を落とした。
粥が床へ広がった。
わたしは、その子の名を知らないふりはしなかった。
「ミオ。子ども道。釘拾い。今朝の椀なし」
「やめて」
母親が泣いた。
それは、怒りなのか、悲しみなのか、安堵なのか分からなかった。
「この名を、灯帳へ書きます」
「灯帳は死者帳ではない」
長老が言った。
「死者ではないのでしょう」
わたしは答えた。
「なら、生きている者として書きます」
誰も動かなかった。
誰も、わたしから帳を奪わなかった。
その代わり、灯が揺れた。
下広間の十二の灯が、一斉に揺れた。
柱の影が伸びた。
影の中に、誰かが立っているように見えた。
一人ではない。
二人でもない。
もっと多い。
黒根洞の灯は、影を拾う。
名を消され、椀を失い、寝床を畳まれ、作業札を外された者たちの影を。
それらは、ずっと灯のそばにいたのだ。
誰も数えなかっただけで。
*
その日から、黒根洞の灯は四十九ではなくなった。
帳の上では、まだ四十九である。
長老たちは、急には変えなかった。
変えられなかった。
長く続いた掟は、灯芯のように簡単には抜けない。
抜けば、油皿ごと倒れることもある。
それでも、下広間の隅に、小さな板が置かれた。
死者帳ではない。
生者帳でもない。
外し名帳。
そう呼ぶ者もいた。
呼ばない者もいた。
そこに、名が書かれるようになった。
レナ。
ミオ。
それ以前の、思い出せる名。
誰かの姉。
誰かの弟。
誰かの母。
誰かの夫。
名が分からぬ者は、分からぬ者として書いた。
椀も、すぐには増えなかった。
粥は足りない。
泥炭も足りない。
菌床は気まぐれである。
名前を書けば食べ物が増えるわけではない。
でも、椀が足りない時、足りないと書くようになった。
誰かを数えないことで、足りているふりをするのをやめた。
それだけのことだった。
それだけのことに、黒根洞は何年もかけた。
長老は、冬を越せずに死んだ。
死者として数えられた。
皮肉なことに、その葬りの灯は正しく点けられた。
ガルドは、泥炭倉の札を濡らさなくなった。
粥をよそう女は、椀が足りない日、足りないと言うようになった。
ミオの母は、子ども道の灯を毎朝見に来るようになった。
わたしは、今も灯番である。
夕方になると、灯を点ける。
一つ。
二つ。
三つ。
四十九。
そして、その先も数える。
五十。
五十一。
五十二。
数は夜によって変わる。
影が濃い日もある。
何も見えない日もある。
母の灯油の匂いがする日もある。
子どもの裸足の音がする日もある。
怖くないと言えば嘘になる。
今でも怖い。
灯の向こうに、数えられなかったものが立っている。
それを知ってしまったから。
でも、数えない方がもっと怖い。
数えなければ、また誰かが消える。
椀が減る。
寝床が畳まれる。
札が裏返る。
そして、皆が言う。
足りている。
四十九でよい。
数えるな。
だから、わたしは数える。
巫女ではありません。
祈り手でもありません。
影を見る力があるわけでもありません。
ただ、灯番です。
灯が一つ多ければ、なぜ多いのかを見る。
椀が一つ少なければ、誰の椀がないのかを見る。
札が裏返っていれば、表に返す。
名が消えかけていれば、書き直す。
黒根洞の灯は、帳では四十九。
でも、夜になると増えることがある。
その時、わたしは灯帳を開く。
そして、声には出さず、胸の奥で数える。
一つ。
二つ。
三つ。
四十九。
五十。
五十一。
五十二。
数えるなと言われました。
ただ、灯が一つ多いだけです。
けれど、その一つの影にも、名があるのです。




