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第十六個体観測録

数えるなと言われました。ただ、灯が一つ多いだけです 【十五文化圏周縁抄 ダークエルフ・ホラー】

作者: 黒瀬 量衡
掲載日:2026/07/18

 黒根洞の灯は、四十九ある。


 そう帳には書かれている。


 入口の曲がり灯が一つ。


 水汲み道に三つ。


 子ども道に七つ。


 菌床室前に五つ。


 泥炭倉前に四つ。


 長老穴へ向かう上道に六つ。


 産屋道に三つ。


 病み穴の前に二つ。


 古井戸跡に一つ。


 下広間に十二。


 そして、集落のいちばん奥、黒い祠の前に五つ。


 合わせて四十九。


 わたしは、そう習った。


 わたしの仕事は、その四十九の暗所灯を、朝に消し、夕に点けることだった。


 油皿を拭く。


 煤を落とす。


 反射石を磨く。


 灯芯を替える。


 風穴が詰まっていないかを見る。


 子ども道の灯だけは、少し低くする。


 産屋道の灯は、強すぎてはいけない。


 菌床室の前の灯は、熱を持たせすぎてはいけない。


 泥炭倉の灯は、火を落とす時に二度確かめる。


 灯番は、ただ火を点ける者ではない。


 暗い道で誰かが転ばないようにする者であり、菌床を焼かない者であり、泥炭に火を移さない者であり、子どもが影を人と間違えぬようにする者である。


 だから、わたしは灯を数える。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 数えなければ、足りない灯に気づけない。


 数えなければ、消し忘れた灯に気づけない。


 数えなければ、油の減り方も分からない。


 数えることは、灯番の仕事だった。


 少なくとも、母がいた頃はそうだった。


     *


 母は、先代の灯番だった。


 名をレナという。


 黒根洞の者は、母のことを「よい灯番だった」と言う。


 だが、それ以上は言わない。


 どの灯を好んだのか。


 どの道でよく歌ったのか。


 わたしが幼い頃、どんなふうに母の腰袋から灯芯を盗んで叱られたのか。


 そういう話を、誰もしない。


 ただ、よい灯番だった、とだけ言う。


 母がいなくなったのは、わたしが十二の時だった。


 夜の灯を点けに行き、戻らなかった。


 誰かが穴へ落ちたのだろうと言った。


 誰かが古井戸跡で足を滑らせたのだろうと言った。


 誰かが下流の暗水へ流されたのだろうと言った。


 でも、身体は見つからなかった。


 灯芯袋だけが、菌床室の前に落ちていた。


 その日から、わたしが灯番になった。


 長老は言った。


「灯は四十九だ」


 わたしは頷いた。


「帳のとおりに点けよ」


 わたしは頷いた。


「それから」


 長老は、わたしをじっと見た。


 ダークエルフの目は、わずかな灯でも強く光を返す。


 長老の目は、遠い火皿の残り光を拾い、濡れた石のように光っていた。


「数えすぎるな」


 わたしは、意味が分からなかった。


「数えなければ、点け忘れます」


「数えすぎるな」


「はい」


 その時のわたしは、まだ子どもだった。


 長老の言うことは、深いことなのだと思った。


 数えるだけでは灯は守れぬ。


 油の匂いを見ろ。


 煤の厚みを見ろ。


 足音を聞け。


 きっと、そういう意味なのだと思った。


 だから、わたしは灯を数えた。


 ただし、口には出さなかった。


 心の中だけで数えた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四十九。


 いつも、四十九で終わる。


 そう思っていた。


     *


 おかしいと気づいたのは、冬前の泥炭入れ替えの日だった。


 泥炭倉の前は、いつもより人が多かった。


 乾き泥炭。


 半乾き泥炭。


 煙多し泥炭。


 鍛冶穴用。


 産屋不可。


 菌床近く不可。


 札を替える者、積み替える者、泥を払う者、腰をさすって文句を言う者。


 通路は狭く、荷が多く、灯は少し強めにしておく必要があった。


 わたしは夕方、いつものように入口の曲がり灯から点けた。


 一つ。


 水汲み道の三つ。


 二つ。


 三つ。


 四つ。


 子ども道の七つ。


 十一。


 菌床室前の五つ。


 十六。


 泥炭倉前の四つ。


 二十。


 長老穴へ向かう上道の六つ。


 二十六。


 産屋道の三つ。


 二十九。


 病み穴の前の二つ。


 三十一。


 古井戸跡の一つ。


 三十二。


 下広間の十二。


 四十四。


 黒い祠の前の五つ。


 四十九。


 数え終えた。


 そう思って、祠前の火皿から手を離した。


 その時だった。


 下広間の奥柱の影で、もう一つ火が揺れた。


 来る時にはなかった。


 少なくとも、灯番であるわたしは、そこへ火を点けていない。


 わたしは足を止めた。


 四十九の次。


 五十。


 そんなはずはない。


 黒根洞の灯は四十九である。


 わたしは、数え直した。


 口には出さず、心の中で。


 入口の曲がり灯。


 一つ。


 水汲み道、三つ。


 四つ。


 子ども道、七つ。


 十一。


 菌床室前、五つ。


 十六。


 泥炭倉前、四つ。


 二十。


 上道、六つ。


 二十六。


 産屋道、三つ。


 二十九。


 病み穴、二つ。


 三十一。


 古井戸跡、一つ。


 三十二。


 下広間、十二。


 四十四。


 祠前、五つ。


 四十九。


 そこまでは、帳のとおりだった。


 だが、下広間へ戻ると、奥柱の影で火が揺れている。


 五十。


 間違いない。


 灯が、一つ多い。


 わたしは灯帳を見た。


 革の表紙に、油を薄く引いた樹皮札を革紐で綴じた古い帳である。


 母が使っていたものを、わたしが継いだ。


 灯の位置と、油の減りと、灯芯替えの日が書いてある。


 帳には、四十九とある。


 何度見ても、四十九である。


 それなのに、点いている灯は五十。


 わたしは下広間の奥柱へ近づいた。


 黒根洞の道は、枝のように分かれる。


 けれど、灯の場所は決まっている。


 置き足した灯があれば、すぐ分かるはずだった。


 わたしは火皿を探した。


 新しい油皿。


 余分な灯芯。


 誰かが勝手に置いた灯台。


 何もない。


 柱の影にあるのは、いつもの石床だけだった。


 それでも火は揺れている。


 灯だけがあり、灯を入れる器がない。


 背後で、誰かが言った。


「数えたのか」


 わたしは振り向いた。


 泥炭倉の番をしている老人、ガルドだった。


 彼は腰が曲がっていて、いつも濡れ札を嫌って怒鳴っている。


 でも、その時の声は怒鳴りではなかった。


 低く、乾いていた。


「灯が」


 わたしは言いかけた。


 ガルドは、首を横に振った。


「数えるな」


「でも」


「四十九だ」


「いえ」


「四十九だ」


 ガルドの目が、柱影の火を映していた。


 四十九ではない。


 彼にも見えている。


 そう思った。


 だが、彼は四十九だと言った。


「おまえの母も、数えた」


 それだけ言って、ガルドは泥炭倉の方へ戻っていった。


 その夜、わたしは眠れなかった。


 頭の中で、灯を数え続けた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四十九。


 五十。


 五十番目が、なぜ下広間の奥柱にあったのか分からない。


 火皿も灯芯もないのに、なぜ燃えていたのか分からない。


 それが、いちばん怖かった。


     *


 翌朝、灯を消しに行くと、数は四十九に戻っていた。


 入口の曲がり灯。


 水汲み道。


 子ども道。


 菌床室。


 泥炭倉。


 上道。


 産屋道。


 病み穴。


 古井戸跡。


 下広間。


 黒い祠。


 数えれば、四十九。


 昨夜の五十はなかった。


 油の減りも、四十九分だった。


 灯芯も、余分には減っていない。


 わたしは自分が疲れていたのだと思った。


 泥炭入れ替えの日は忙しい。


 煤も多い。


 人の声も多い。


 灯の揺れ方もいつもと違う。


 見間違い。


 数え間違い。


 そう思うことにした。


 だが、その日の粥の時間に、また数がずれた。


 黒根洞では、夕粥の椀を下広間へ並べる。


 大人用の深椀。


 子ども用の浅椀。


 病み穴へ運ぶ粥壺。


 産屋へ回す温粥。


 菌床室の者は遅れて食べるので、脇に置く。


 わたしは灯番だが、夕粥の時だけは下広間の灯を少し下げるため、椀の横を通る。


 その日、椀が一つ多かった。


 誰か客が来ているのかと思った。


 黒根洞は閉じた集落だが、泥炭や黒茸の商人が来ることはある。


 けれど、入口番に聞いても、外の者は来ていないと言う。


 病み穴から戻った者もいない。


 産屋の人数も変わらない。


 それなのに、粥椀が一つ多い。


「その椀は」


 わたしは、粥をよそう女に聞いた。


 女は手を止めた。


 広間の声が、一瞬だけ低くなった。


「どの椀」


「そこです」


 わたしは指を差した。


 下広間の奥、柱の影。


 誰も座っていない場所に、湯気の立つ椀が一つある。


 椀の横には、木匙も置かれている。


 女は、その椀を見なかった。


「椀は足りている」


「足りているのではなく、多いです」


「数えるな」


 また、その言葉だった。


 数えるな。


「でも、粥が冷めます」


「冷めてよい」


「誰の椀ですか」


「誰のものでもない」


「では、下げます」


 わたしが椀へ手を伸ばすと、下広間の全員がこちらを見た。


 その瞬間、わたしは手を止めた。


 声はない。


 叱責もない。


 ただ、全員がこちらを見ていた。


 長老も。


 泥炭倉のガルドも。


 子を抱いた女も。


 菌床室の若者も。


 わたしと同じ年頃の娘たちも。


 みな、わたしではなく、わたしの手を見ていた。


 椀へ伸びかけた手を。


 わたしは、手を引いた。


 下広間の声が戻った。


 誰かが咳をした。


 誰かが粥をすすった。


 誰かが子どもを叱った。


 柱の影の椀だけが、湯気を立てていた。


 その夜、椀は最後までそこにあった。


 朝には、空になっていた。


     *


 それから、わたしは数えることをやめようとした。


 だが、灯番にとって、それは息を止めるようなものだった。


 油皿を持てば、数える。


 灯芯を切れば、数える。


 反射石を磨けば、数える。


 道を歩けば、何歩目に灯があるか体が知っている。


 数えないようにすると、かえって数が浮かぶ。


 四十九。


 四十九。


 四十九。


 その数が、頭の中で何度も鳴る。


 そして、夜になると増える。


 ある夜は五十。


 ある夜は五十一。


 ある夜は、どう数えても四十九なのに、足音だけが一つ多かった。


 水汲み道を歩いている時だった。


 わたしの足音。


 水壺を持つ女の足音。


 後ろを走る子どもの足音。


 それだけのはずだった。


 しかし、灯の影が曲がるたび、もう一つ足音が遅れて鳴った。


 ぺたり。


 ぺたり。


 裸足の音。


 黒根洞では、裸足で通路を歩かない。


 石は冷たく、菌の湿りがある。


 足を切れば、すぐ悪くなる。


 だから、誰も裸足では歩かない。


 でも、その足音は裸足だった。


 わたしは振り向かなかった。


 振り向けば、何かを数えてしまう気がした。


 また別の日。


 菌床室の前の札が、一枚多かった。


 黒茸。


 白根茸。


 灰斑茸。


 薬師確認。


 乾かす。


 戻す。


 燃やす。


 分からない。


 いつもは八枚。


 その日は九枚あった。


 九枚目は裏返っていた。


 手に取ると、札には何も書かれていなかった。


 だが、裏に爪で掻いたような跡があった。


 レ。


 ナ。


 母の名に似ていた。


 わたしは札を落とした。


 菌床室の奥から、誰かが言った。


「戻せ」


 低い声だった。


 誰の声か分からない。


 わたしは札を戻した。


 裏返しのまま。


 すると、菌床室の奥から、黒茸の匂いに混じって、古い灯油の匂いがした。


 母の腰袋の匂いだった。


     *


 わたしは古い灯帳を調べ始めた。


 夜、皆が寝静まった後、灯芯箱の下から古い帳を出す。


 母の前の灯番。


 さらに前の灯番。


 黒根洞が今より小さかった頃の灯帳。


 革表紙は乾き、油引きの樹皮札は角が擦り切れている。


 油の跡がある。


 煤の跡もある。


 古い字は読みづらい。


 だが、灯の数は読めた。


 四十二。


 四十四。


 四十七。


 四十九。


 灯は、昔から四十九だったわけではない。


 集落が広がるたびに増えた。


 水汲み道が伸び、子ども道が分かれ、病み穴ができ、菌床室が二つになり、黒い祠の前に灯が増えた。


 当然だ。


 道が増えれば、灯も増える。


 それなのに、ある時から帳は四十九で止まっている。


 母の時代も四十九。


 今も四十九。


 でも、母の最後の年の帳だけ、妙だった。


 頁の端が削られている。


 灯芯替えの記録が一行消されている。


 油の減りが、四十九灯分より少し多い。


 そして、母の字で小さく書かれていた。


 五十番目、下広間奥柱影。


 次の行は削られていた。


 さらに下に、もう一つ。


 五十一番目、菌床室前。


 そこも削られていた。


 わたしの手が震えた。


 母も見ていた。


 母も数えた。


 そして、帳に書いた。


 その後、消された。


 頁の端に、母の字がかすかに残っている。


 数えなければ、消えない。


 数えれば、増える。


 わたしは、その文を何度も読んだ。


 意味は分からない。


 でも、怖かった。


 数えなければ、消えない。


 数えれば、増える。


 なら、消えているものは何なのか。


 増えているものは何なのか。


 わたしは灯帳を閉じようとした。


 その時、背後で声がした。


「見たのか」


 長老だった。


 いつからいたのか分からない。


 灯芯箱の影に、黒い衣が溶けていた。


 わたしは帳を抱えた。


「母も数えていました」


「おまえの母は、よい灯番だった」


「なぜ、消したのですか」


「消したのではない」


「削られています」


「守ったのだ」


「何を」


「集落を」


 長老の声は静かだった。


 怒ってはいない。


 悲しんでもいない。


 ただ、硬かった。


 泥炭を長く乾かしすぎた時のような硬さだった。


「黒根洞は、何度も飢えた。病も来た。水も濁った。菌床も腐った。全員を数えれば、全員が足りなくなる時がある」


「意味が分かりません」


「数には力がある」


「だから、帳を書くのでしょう」


「だから、帳から外すこともある」


 わたしは、長老を見た。


 彼は、わたしではなく、灯帳を見ていた。


「飢えの年、粥椀を全員分並べれば、全員が足りないことを知る。誰かを選ばねばならぬ。病の年、寝床を全員分敷けば、病み穴が足りないことを知る。菌床が死んだ年、作業札を全員分掛ければ、泥炭も薬茸も足りないことを知る」


「だから」


 声が震えた。


「誰かを数えないのですか」


「一人を外せば、残りが生きる」


「外された人は」


「黒根洞の内にいる」


「どこに」


「数えるな」


 わたしは帳を握りしめた。


「母は、外されたのですか」


 長老は答えなかった。


「母は、どこにいるのですか」


「おまえの母は、よい灯番だった」


「それは答えではありません」


「よい灯番だった」


 同じ言葉。


 何度も聞かされた言葉。


 それは、母を褒める言葉ではなかった。


 母を片づける言葉だった。


「数から外した者は、死者ではない」


 長老は言った。


「生者でもない。名を呼ばぬ。椀を数えぬ。寝床を数えぬ。作業札を数えぬ。そうすれば、集落は保つ」


「それで、外された人はどうなるのですか」


「黒根洞を支える」


 わたしは、菌床室の匂いを思い出した。


 泥炭倉の奥の、濡れた札。


 下広間の柱の影。


 空になった粥椀。


 裸足の足音。


 母の灯油の匂い。


「菌床室ですか」


 長老は何も言わなかった。


 何も言わないことが、答えだった。


 わたしの胃の奥が冷えた。


「母を」


「言葉を選べ」


「母を、数から外したのですか」


「レナは、集落を守った」


「母は、望んだのですか」


「望む望まぬではない」


「では、殺したのですね」


 その瞬間、長老の目が鋭く光った。


 でも、彼は怒鳴らなかった。


「殺せば、死者になる」


 彼は言った。


「死者は数える。弔う。名を読む。穴を掘る。灯を置く。泣く。食う者の数は減らぬ。だが、外せば違う。死者ではない。生者でもない。だから、数えなくてよい」


 わたしは、息ができなかった。


 黒根洞の灯が、遠くで揺れている。


 四十九。


 五十。


 五十一。


 数が頭の中で崩れていく。


「なぜ、灯だけ増えるのですか」


 わたしは聞いた。


 長老は、そこで初めて、ほんの少し顔を歪めた。


「灯は、影を拾う」


「影」


「名を消しても、椀を数えなくても、寝床を畳んでも、作業札を外しても、影だけは残る。灯番は、それを見る」


「だから、数えるなと」


「そうだ」


「母は数えた」


「そうだ」


「わたしも数えた」


 長老は黙った。


 沈黙が、灯芯の燃える音より大きくなった。


 やがて、彼は言った。


「おまえは、よい灯番だ」


 わたしは、灯帳を落とした。


 よい灯番。


 それは、母に向けられていた言葉と同じだった。


 褒め言葉ではない。


 選別の言葉だ。


     *


 それから、黒根洞の者たちは、わたしの名を呼ばなくなった。


 最初は、気のせいだと思った。


 子ども道の灯を直した時、子どもが「灯番」と呼んだ。


 水汲み道で油皿を持っていると、水壺の女が「そこを通るよ」と言った。


 下広間では、粥をよそう女が「椀はそこだ」と言った。


 誰も、ネリスとは呼ばない。


 前から、仕事名で呼ばれることはあった。


 灯番。


 灯の娘。


 レナの子。


 だから、気にしすぎだと思った。


 でも、灯帳を見て分かった。


 灯番帳の表に書かれたわたしの名が、薄くなっていた。


 ネリス。


 その字の端が、削られている。


 刃物で削ったのではない。


 何度も指でこすったように、薄く、広く、消えかけている。


 わたしは自分の名をなぞった。


 黒い煤が指についた。


 ネ。


 リ。


 ス。


 まだ読める。


 まだ消えていない。


 その夜、粥椀が一つ減った。


 下広間に並んだ椀を見て、わたしはすぐ分かった。


 いつもより一つ少ない。


 でも、誰も困っていない。


 わたしの椀がなかった。


 わたしは粥をよそう女を見た。


 女は目をそらした。


「わたしの椀は」


 そう言いかけて、声が止まった。


 下広間が静かになった。


 長老がこちらを見ている。


 ガルドも見ている。


 子どもたちも、母親の袖の陰から見ている。


 わたしは、何も言えなかった。


 椀がない。


 なら、わたしは数に入っていない。


 しかし、腹は空いている。


 手は震えている。


 喉は粥を欲しがっている。


 数から外されても、腹は消えない。


 それが、ひどく恐ろしかった。


 その夜、わたしは灯を点けた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四十九。


 五十。


 五十一。


 五十二。


 増えていた。


 灯が、また一つ増えていた。


 どこが増えたのかは分からない。


 だが、数えれば五十二ある。


 わたしは、五十二番目の灯の前に立っていた。


 場所は、子ども道の奥だった。


 昔、母がわたしを迎えに来た場所である。


 灯は、いつもの油皿で燃えていた。


 でも、その影は、わたしの足元から伸びていなかった。


 誰かの影が、わたしの隣に立っている。


 わたしは振り向いた。


 誰もいない。


 でも、灯油の匂いがした。


 母の腰袋の匂い。


「母さん」


 口に出してしまった。


 すぐに、通路の奥で何かが動いた。


 石を引きずるような音。


 遠くの扉が閉まる音。


 誰かが息を呑む音。


 母の名を呼んではいけなかったのだ。


 呼べば、死者になるから。


 死者になれば、数えなければならないから。


 黒根洞は、母を死者にしたくなかった。


 だから、生者でも死者でもないものにした。


 数えなくてよいものにした。


 わたしは、五十二番目の灯の前で膝をついた。


 母の影は、そこにいるようで、いない。


 わたしは、灯帳を開いた。


 震える手で、削られかけた自分の名の下に、新しく字を書いた。


 ネリス。


 灯番。


 五十二番目を数えた。


 さらに、その下に書いた。


 レナ。


 灯番。


 五十番目を数えた。


 字は汚かった。


 煤と油で滲んだ。


 でも、書いた。


 帳に書けば、消されるかもしれない。


 削られるかもしれない。


 燃やされるかもしれない。


 それでも、書かないよりはよい。


 数えないよりはよい。


     *


 翌朝、長老が来た。


 わたしは灯芯箱の前に座っていた。


 一晩中、眠れなかった。


 灯帳は膝の上にある。


 長老は、帳を見た。


 そこに書かれた母の名と、わたしの名を見た。


「消せ」


 彼は言った。


「嫌です」


「集落が乱れる」


「もう乱れています」


「ネリス」


 久しぶりに、名を呼ばれた。


 その声に、わたしの胸が一瞬だけ震えた。


 名を呼ばれるとは、こんなにも痛いことだったのか。


「消せば、戻れる」


 長老は言った。


「椀も戻す。寝床も戻す。灯帳にも残す」


「母は」


「レナは戻らぬ」


「では、わたしも戻りません」


「おまえは生きている」


「母も生きていました」


「数えれば、皆が苦しむ」


「数えなければ、外された人だけが苦しみます」


「一人で済む」


「一人だから、よいのですか」


 長老は答えなかった。


 その沈黙に、黒根洞の全部が詰まっているようだった。


 水が足りない年。


 粥が薄い冬。


 菌床が腐った夜。


 病み穴に寝床が足りない日。


 誰かを外せば、残りが助かる。


 その考えが、この集落を生かしてきたのかもしれない。


 母を消したのも、誰かの悪意だけではなかったのかもしれない。


 長老も、ガルドも、粥をよそう女も、子を抱く母も、皆、怖かったのかもしれない。


 でも、怖いからといって、消してよい名などない。


 わたしは灯帳を抱えた。


「わたしは灯番です」


「そうだ」


「灯が足りない時は足します。多い時は消します。煤があれば拭きます。影が濃ければ、位置を変えます」


「だから、消せ」


「違います」


 わたしは首を振った。


「灯が影を拾うなら、影をなかったことにはしません」


 長老の顔が、少しだけ老いたように見えた。


「おまえも、レナと同じだ」


「母は、よい灯番だったのでしょう」


「そうだ」


「なら、わたしもそうします」


 わたしは立ち上がった。


 灯帳を持ち、下広間へ向かった。


 長老は止めなかった。


 止められなかったのかもしれない。


 下広間には、朝の粥椀が並んでいた。


 椀は、四十八だった。


 わたしの分だけでなく、もう一つ減っている。


 誰が消され始めているのか。


 見回すと、子ども道の端に座っていた小さな男の子がいなかった。


 名前は、たしかミオ。


 釘拾いが得意な子だった。


 母親が、空いた場所を見ないようにして粥をすすっていた。


 わたしは広間の中央に立った。


 灯帳を開いた。


 そして、声に出して読んだ。


「レナ。灯番。五十番目を数えた」


 広間が凍った。


 椀を持つ手が止まった。


 子どもが泣き出しそうな顔をした。


 長老が入口に立っている。


 わたしは続けた。


「ネリス。灯番。五十二番目を数えた」


「やめろ」


 ガルドが言った。


 わたしはやめなかった。


「ミオ」


 母親が椀を落とした。


 粥が床へ広がった。


 わたしは、その子の名を知らないふりはしなかった。


「ミオ。子ども道。釘拾い。今朝の椀なし」


「やめて」


 母親が泣いた。


 それは、怒りなのか、悲しみなのか、安堵なのか分からなかった。


「この名を、灯帳へ書きます」


「灯帳は死者帳ではない」


 長老が言った。


「死者ではないのでしょう」


 わたしは答えた。


「なら、生きている者として書きます」


 誰も動かなかった。


 誰も、わたしから帳を奪わなかった。


 その代わり、灯が揺れた。


 下広間の十二の灯が、一斉に揺れた。


 柱の影が伸びた。


 影の中に、誰かが立っているように見えた。


 一人ではない。


 二人でもない。


 もっと多い。


 黒根洞の灯は、影を拾う。


 名を消され、椀を失い、寝床を畳まれ、作業札を外された者たちの影を。


 それらは、ずっと灯のそばにいたのだ。


 誰も数えなかっただけで。


     *


 その日から、黒根洞の灯は四十九ではなくなった。


 帳の上では、まだ四十九である。


 長老たちは、急には変えなかった。


 変えられなかった。


 長く続いた掟は、灯芯のように簡単には抜けない。


 抜けば、油皿ごと倒れることもある。


 それでも、下広間の隅に、小さな板が置かれた。


 死者帳ではない。


 生者帳でもない。


 外し名帳。


 そう呼ぶ者もいた。


 呼ばない者もいた。


 そこに、名が書かれるようになった。


 レナ。


 ミオ。


 それ以前の、思い出せる名。


 誰かの姉。


 誰かの弟。


 誰かの母。


 誰かの夫。


 名が分からぬ者は、分からぬ者として書いた。


 椀も、すぐには増えなかった。


 粥は足りない。


 泥炭も足りない。


 菌床は気まぐれである。


 名前を書けば食べ物が増えるわけではない。


 でも、椀が足りない時、足りないと書くようになった。


 誰かを数えないことで、足りているふりをするのをやめた。


 それだけのことだった。


 それだけのことに、黒根洞は何年もかけた。


 長老は、冬を越せずに死んだ。


 死者として数えられた。


 皮肉なことに、その葬りの灯は正しく点けられた。


 ガルドは、泥炭倉の札を濡らさなくなった。


 粥をよそう女は、椀が足りない日、足りないと言うようになった。


 ミオの母は、子ども道の灯を毎朝見に来るようになった。


 わたしは、今も灯番である。


 夕方になると、灯を点ける。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四十九。


 そして、その先も数える。


 五十。


 五十一。


 五十二。


 数は夜によって変わる。


 影が濃い日もある。


 何も見えない日もある。


 母の灯油の匂いがする日もある。


 子どもの裸足の音がする日もある。


 怖くないと言えば嘘になる。


 今でも怖い。


 灯の向こうに、数えられなかったものが立っている。


 それを知ってしまったから。


 でも、数えない方がもっと怖い。


 数えなければ、また誰かが消える。


 椀が減る。


 寝床が畳まれる。


 札が裏返る。


 そして、皆が言う。


 足りている。


 四十九でよい。


 数えるな。


 だから、わたしは数える。


 巫女ではありません。


 祈り手でもありません。


 影を見る力があるわけでもありません。


 ただ、灯番です。


 灯が一つ多ければ、なぜ多いのかを見る。


 椀が一つ少なければ、誰の椀がないのかを見る。


 札が裏返っていれば、表に返す。


 名が消えかけていれば、書き直す。


 黒根洞の灯は、帳では四十九。


 でも、夜になると増えることがある。


 その時、わたしは灯帳を開く。


 そして、声には出さず、胸の奥で数える。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四十九。


 五十。


 五十一。


 五十二。


 数えるなと言われました。


 ただ、灯が一つ多いだけです。


 けれど、その一つの影にも、名があるのです。

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