第三章【異変、逃れざる檻】
第三章【異変、逃れざる檻】
「……」
「……ん? どうした?」
例の少女が僕の部屋から立ち去って二日。彼女は僕の横で缶コーヒーを飲んでいた。また会う機会があればとは言ったし、この街にいるならすれ違う事くらいはあるかもしれないと思っていたが、少し早すぎないだろうか。
「しかしだな……そう広い街でもない。私からすれば自宅とバイト先から距離のある場所に行けば再会の確率は高いと思うぞ?」
「確かに僕の行動範囲なんてそう広くは無いけどさ……」
アルバイトの夜勤明け、その晩は連続で夜勤という事も無く、寝て一日潰すのもちょっと惜しいかと思った僕は街へ出た。もちろん特に目的があった訳でもなく、また適当に本屋にでも行こうかと思っていた程度のものだ。
別段面白い事が無ければ帰って寝るのもいいし、ひょっとしたら偶然彼女とバッタリなんて事もあるかもなんて考えていたことも否定しない。実際バッタリ出会ってしまい、何故だか妙に嬉しかった事も認める。
「……アンタ、暇なのか?」
「一概に否定できないのが悲しい所だな。次元断層の位置に凡そのアタリは付いたが、そうなると断層が開くまでは暇と言わざるをえん」
むう、と彼女は眉根を寄せる。硬い物言いの割には両手で缶コーヒーを飲んでいたり、意外と可愛い所が見れて眼福ではあるが、僕としては彼女の気を害したい訳ではない。
「ごめん、悪気は無かった」
「いや、こちらも怒っているという訳ではないんだ。気を遣わせたな」
彼女は驚いたようにパタパタと手を振った。どうやら僕の発言で機嫌を悪くしたという事ではないらしい。しかしそこで、彼女が口元に手を当ててフムと思案する。
「もし……もし良ければで良いんだが、『アンタ』では無く名で呼んでくれないか? 思えば久しく名を呼ばれていないのでな」
「いや、それくらい別に良いけど。えーと……和、だよな」
「…………」
名前を呼ぶくらいならお安い御用だ。以前聞いた名前を確認しつつ、彼女の名前を呼ぶ。僕の呼びかけに、和は目を閉じて聞き入っているようだった。
「あの……和?」
「ああ……すまない。ふむ、やはり名を呼ばれるというのはいいものだな」
そういって和は柔らかく微笑んだ。見るからに嬉しそうで、僕も何だか嬉しくなってしまう。
「じゃあ、僕の事も名前で呼んでみてくれよ。バイト先じゃ苗字でしか呼ばれないからさ」
僕には呼んでくれる友達なんていないし、わざわざ名前で呼ばれるために院長先生に会いに行くほどって訳じゃない。僕の記憶を読んだ和なら、そこも察してくれるだろう。
「いいとも。私の名を呼んでくれた礼だ、ありがとう崇」
子供の頃以来、院長先生以外から名前を呼ばれた事なんて無い。こうやって、同じような目線で、友達を呼ぶみたいに名前を言われたのは本当に久しぶりだった。
なるほど、確かに悪くない。苗字で呼ばれるよりも少しだけ距離が縮まったような、仲の良い関係であるような、そんな気分にさせられる。
「ふふ……君も嬉しそうだな」
「そうだな」
自分の頬が緩んでいる事が解った。バイト先で作ってるような愛想笑いじゃない、本当に嬉しいときの顔だと自分でも解る。
だけど、素直に嬉しいと思える事は……彼女がいずれ消え去る人間だと解っているからだ。こんな気持ちを、ずっと持って居たかった。彼女が普通の人間で、もっと別の出会い方をしていたら……そんな事を考える。
でも僕の人生は僕の知るとおりで、起きなかった「もしも」に意味なんて無い。裏切りを恐れる僕は……居なくなってしまう事が解っている相手にだからこそ、深く情を寄せる前に消えてしまう彼女にだからこそ、普通に笑えている。それが少し悲しい。
「なあ、崇」
「ん……何?」
「私が得た君の記憶は、そう多くない。精々今から一年前後の記憶だ……だから、君が独りであろうとする理由は……見つけ出せない」
そんな事まで解るのかと僕は驚き、そして見透かされた事が少し恥ずかしかった。
「君はまだ若い。強制はしないが……もう少し人に歩み寄ってもいいと思う。孤独は本当に寂しくて、辛い。……ずっと独りでいた私からのアドバイスだ」
「含蓄があるね……説得力抜群だよ」
わざとおどけたように肩を竦めた僕を、和は咎める事無く見ていた。僕は、何故か和の言う事なら聞いても良いように思えていた。不思議と抗えないというか、彼女の言葉には逆らえない何かを感じる。
僕より数百年長く生きている人生の大先輩だからかと思ったけど、女性相手に歳だ年月だと言うのも失礼かと思って僕は口を噤んだ。
「なあ……その次元断層が開いたら、そこから旅に出るのか?」
「そうだな……今回開く次元断層が私の望むものでは無いかもしれない。未来への道か、別次元への入り口か……開くまでは判断できん」
和が小さく溜息をついたのが見えた。どうやら次元断層にも当たり外れがあるらしい。恐らく過去にも同じ事を何度も繰り返し、外れを引いては落胆した事も少なくは無いはずだ。
「……それ、入ってみないと解らないってこと?」
「いや……幸い神威は優秀でね、未来への帰巣本能とでも言えば良いのかな?ちゃんと未来へ続くものを教えてくれる。まったく知らない世界へコンニチハ、なんて事は無い。五年、十年といった間隔だが着実に未来へと飛んできてるんだ」
和は人差し指でトントンと左胸を叩く。四百年という時の中で、十年単位の未来移動なんてそれこそ慰め程度にしかならない。ましてや次元兵器の完成は次の千年紀を越えるというのに。
それでも和にとってそれは確かな一歩なのだ。いや、もしかしたらこの先に何百年も一気に飛べるような次元断層が見つかるかもしれない。僕は暗い未来を無理矢理飲み込んだ。彼女に必要なのは、希望なんだ。
「はは……じゃあ僕がおっさんになった時に、この街から飛んできた和に会う事もありえるって訳か」
「無いとは言い切れないな。その時は君に心許せる友人がいる事を願っておこう」
余計なお世話だよ、と僕と和は笑いあった。この時間がとても楽しくて、とても悲しい。彼女なら……僕は友人であってもいいと、そう思う。
だけど彼女を信じることが出来るのは、彼女が時を旅する者だから。僕の知る現実の外側にいる人間だからこそ知り合えて、話し合えたのだ。だから、この思いは思いのままで終わる。
「別れの時はさ、見送らせてくれよ。僕はこのまま普通に生きていくけど……和と会った事をちゃんと覚えておきたいんだ」
「……ありがとう崇。気持ちは嬉しい、とても嬉しいよ……だけど次元断層に普通の人間が近付いてはいけない」
「そ……っか」
ちょっと、心が痛い。和が僕を心配してくれた事なんて考えるまでもない。だけど、断られるという事実が……拒絶されるという事実がどうにも苦手だ。それは、とても嫌な記憶を思い起こさせるから。
だけど、僕のそんな気分はあっさり見破られたようだ。場を暗くしないように気遣ってくれているのか、彼女は笑顔を浮かべていた。
「崇、良かったらこれを受け取ってくれないか」
「え……と、何だろ」
和はコートのポケットをごそごそと探ると、そこから小さな物を取り出した。何だろう、昔気まぐれに眺めた本にあったような気がする。確か、根付とかいうものだ。
「ほう、詳しいじゃないか」
「……たまたまだよ」
細い朱色の組紐の先には銀色の鈴が揺れており、その先には木彫りの猫が二匹ぶらさがっていた。和は、片方の猫を取り外すと僕に差し出す。
「昔手に入れたものでね、とても気に入っている」
「……じゃあ大事なものだろ? いいのか?」
「うん、受け取ってくれ。……なあ、私はまた長い時を旅する。君といる事は出来ないだろう……だが、たった一時であっても君と友人でありたいと思うんだ」
何だろう。すごく悲しくて、嬉しい。僕はこんなにも脆かっただろうか? まだこんなにも何かを思えるのか。
「君が会えなくなる事を裏切りだと思うなら仕方無い。だけど、私は会えなくなっても君を信じていたい。私の身の上話を聞いてくれて、私の名を呼んでくれた君を」
僕の手をそっと持ち上げて、掌に小さな猫を置く。包み込むように添えられた和の両手が、僕の手を握らせた。
「これからどれだけ長い時を歩んでも、私は君を忘れない。そして願わくば君も私を忘れないで欲しい……どうか、信じて欲しい」
君の歩む新たな人生の、最初の友人とさせてくれ。彼女がそう呟いた時、僕の目からはどうしようもないくらい涙が溢れていた。
「うん……僕も忘れないよ。忘れようったって忘れられない」
「済まないな、確かにショッキングなところから見せてしまった」
確かにそれもある。だけどそれ以上に、僕は忘れないだろう。月光の下で輝いた白い髪を、ほんの一時与えてくれた懐かしさを、もう一度誰かと笑えた嬉しさを。
「お別れまでに、またこうやって偶然会えたら……また缶コーヒーでも奢らせてくれ」
「そうだな……また、会えたら」
次に会える保証は無い。ひょっとしたらこれが最後になるかもしれない。だけど、それはやっぱり悲しいので僕は「さよなら」を口にしなかった。
和も同じ事を考えてくれていたのだろうか、僕と同じように「さよなら」を言わないでいてくれた。本当にそれは感傷で、気分の問題で。それでも同じ気持ちを共有できたのは、本当に嬉しかった。
だけど、さよならを言わなかった事は奇しくも正解だった。僕らはもう一度出会う事になるからだ。それも、血生臭い地獄を伴って。
◆◆ ◆
夜中に突然目が覚めた。起きた直後なのに、あの重たい瞼の感覚は微塵もない。妙にクリアな視界が、オレンジ色に光る自室の常夜灯を捉えた。
「……なんだ?」
和と別れたあと、結局睡魔に勝てなかった僕は布団へと飛び込んだ。幸いにも今晩は夜勤が無いので明日の朝までグッスリ眠る気だった。時計の針は午前一時を指している。
「変だな、なんで……こんな時間に」
起き上がった僕は、何故か辺りを見回していた。見える景色は見慣れた僕の部屋でしかない。しかし、浮かんだ疑念が次第に形を変える。それはまるで靄のように胸の中を満たしていった。
妙だ。居ても立ってもいられないこの焦燥感。正体不明の不快感に困惑したまま、とりあえず僕は頭を冷やそうと冷蔵庫から水を取り出そうとした。
「あ……」
その時、冷蔵庫の上にあった《それ》と目が合う。キーホルダーとして部屋の鍵に付けられた物、和に貰った木彫りの猫と。
僕の意識が和という存在に思い至った瞬間、靄のようだった不快感はざわめく水面のように姿を変える。水中の魚達が一斉に跳ねて水面を叩くような騒がしいざわめき。虫の知らせなんて可愛いものじゃない。僕は居間へ駆け戻ると、外出着に着替えて外へと飛び出した。
部屋に鍵を掛けるのももどかしい。気だけが急いて、鍵穴に上手く鍵が刺さらない。
「ああもう、クソっ!」
ガリガリと捻じ込むように鍵を差し込み、ガチャっと激しく音を立てて施錠する。いつもならドアノブを何度か捻って施錠を確認するのだが、僕はそんな暇も無いと走り出した。
(なんでだ……っ?)
何の脈絡も無く夜中に起き出し、正体不明の不安に襲われた。
何故だか解らないが、それが和に関係があるように思えてならない。
まさか、次元断層が開いたのか? 彼女との別れを惜しむ僕の心がこの直感を与えたのか?
人気の無い道路を駆け抜ける。バイト先の道を走りぬけ、見知った本屋の店先を突き抜けて。僕の口から漏れる息は、後ろへ後ろへと流れていく。流れていく景色は、あまり馴染みの無いものに変わりつつあった。
(……こっちだ)
なのに、僕は立ち止まる事も無ければ迷うことも無く夜の街を疾駆する。不思議と、闇へ闇へと走れば正しい道へ進んでいると実感した。あの日、和と会った公園を包んでいた不気味な闇だ。それが、大気を汚す澱のように淀んでいる場所が所々に見えていた。
は、は、は。
肺が酸素を高速で、大量に取り込んでいく。もっと取り込め、もっと吐き出せ、体中に酸素を巡らせろと、見えない何かが僕に命令している。それに応えるように、体の内側から改造されているかのようだ。
家からずっと走ったままなのに、不思議と呼吸は乱れていない。あの不安が僕の中の何かを麻痺させているのだろうか? 街灯の間隔は徐々に広がり、次第に人が少ない場所へ進んでいる事に気がついた。
「なんだ……ここ、か?」
ゆっくり足を止めてその建物を見上げる。そこには、大きな工場があった。街灯に僅かに照らされた外壁は崩れに崩れ、そこかしこの窓が割れている事から既に廃墟になっていると判断出来る。
僕の視界を、白い湯気が遮る。ずっと走り続けた体はかなりの熱を蓄えていたようで、吐き出す息は長い時間大気を白く染めていた。それを見て、僕は意識的に呼吸を整える。
(入れそうだな)
立ち入り禁止の看板が掛かっていたが、随分放置されていたのか鎖は茶色く錆びて垂れ下がっている。幸い有刺鉄線が張ってもいないし、警備システムなんて上等な物も無いように見える。錆びた鎖を跨ぎ、僕は敷地内へ侵入した。
正面の巨大なシャッターにはビッシリと錆が浮いており、開きそうな気配はまったく無い。シャッター横の通用口にも鍵が掛かっているようで、ドアノブを回すとガチガチと硬質な音を響かせるのみだ。
(どっか入れそうな所は……)
通用口の薄汚れたガラスはかなり大きめで、叩き割れば簡単に進入出来そうではあった。しかし廃工場というだけで、管理は今でもどこかの会社がしている可能性がある。面倒ごとはなるべく避けたい。
どこか中へと入り込める所は無いだろうか。鍵を掛け忘れた扉があれば良いし、同じガラスが割れた窓やドアにしても始めから割れているなら問題無い。
(……ん?)
少し大きい工場とはいえ外周を回るだけなら二十分もあれば良いはずだ。そう思って暗闇の中で壁を辿って歩いていた僕の耳に何かが聞こえた。
動きを止めて耳を澄ます。自分の息さえ邪魔に思えて、僕は息を止めて周囲に聞き耳を立てた。息を止めて数秒、とても小さいが……ガンと何かがぶつかる音がした。
「……どっちだ!?」
壁に手をついたまま、真っ直ぐ突き進む。電気の通っていない廃工場は真っ暗で、僅かに光る月明かりくらいしか光源が無い。伸び放題の雑草を踏み分けて敷地内を走り回っていた瞬間、視界の端を夜空が掠めた。
「中庭か!」
建物と建物の隙間に夜空が見える。どうやらこの工場は中央に広場があるようで、そこを囲むように建造物がある。
僕は建物の隙間に体を捻じ込んだ。そう広く無いが人が通るには充分な幅がある。恐らく空調の室外機を置くスペースだろう、土埃を被った四角い箱が幾つも並んでいた。
「よし……中庭からならどこかに入れるかも……」
ひび割れたコンクリートの床を踏み抜いて、一気に中庭へと駆け込む。出掛けにちょっと躓いたせいで、思い切り前につんのめった。
「うわっと……あ、危なか……った……?」
何とか体制を立て直して僕は前を見る。……そして、絶句した。そこには確かに僕の求める人がいた。捜し求めていた和がいた。
ただし、地面に倒れ付して。真っ白なコートを所々赤黒く染めて。
「し……和ぁっ!」
叫んで、駆け出そうとした。だが和は僕の存在に気付いた所で弱々しくこちらに手を突き出す。大きく広げられた掌だけで、それが「来るな」という意思表示だと解った。どうして、と叫ぼうとした瞬間……聞き覚えの無い声が場に響いた。
【おや……お友達ですかね? クフェフェフェフェ……】
イヤに甲高い、そしてどこか人を馬鹿にした響きを含む声だった。反射的に目を向ける。この場に入った瞬間に和を見つけた為に意識出来なかったが、そこには見知らぬ誰か……いや、何かがいた。
「なんだよ、おまえ……」
視線の先でそいつは相変わらず嫌な笑いを上げている。その姿は、例の「土蜘蛛」と同じく異形。サイズはせいぜい人間並み、しかし体表には装甲状の物が幾つも張り付き、その隙間を真っ白な体毛が埋め尽くしている。
狐。
首の上にある物を見て、直感的にそう思った。獣の口をいやらしく吊り上げるソイツの背では、炎のように揺ら揺らと揺れる数本の尾があった。……なんだ、コイツみたいな奴を見た事がある。本屋か何かで。
「九尾の狐だ……」
僕の疑問に答えるように、地面に伏せたままの和が言った。九尾の狐……よく漫画や小説だと、最凶最悪の妖怪として書かれる事が多い大妖怪の名前。そのイメージが僕の中を支配し、一気に恐怖が襲ってくる。
ヤツの名を言ったあと、和が小さく咳き込む。咳と共に地面に吐き出されたものが、地面に小さく赤いシミを作った。
「おい……おい! 和!」
【ンンー……? 大丈夫ですよォ? その子は化け物なんで死んだりしませんからァ】
だからってあんな風に痛めつけていいって道理は無い。和を見れば解る、死なないだけで痛覚が無いって訳じゃないんだ。
「畜生……なんでそんな風になってんだよ! 不老不死なんだろ!?」
和はようやく体をこちらにむけて転がった。僕は更に言葉を失う。真っ白だった彼女のコートは、恐らく彼女自身のものであろう血でベッタリと濡れていた。
「ふふ……残念ながら私は不老不死というだけでね、代謝能力は普通より少し良い程度なんだ。どんな傷でも、人並みの時間を掛けて治すしかない……中途半端な代物だ」
「なんだよそれ……!」
不老不死や不死身と言うと、どんな傷も気持ち悪いくらい早く治るようなイメージがあった。ビデオを逆再生するようなイメージのアレだ。だが、そうじゃない。彼女の不老不死はそんな便利なものじゃない。
「遠い、昔ね。自分が化け物になったと解った時に……首を掻き切って死のうとしたんだ。その時に気付いたんだよ。血が沢山抜けて、死にそうなのに死なない。結局自分の血溜まりに伏せたまま、三ヶ月もかけてやっと傷が塞がった」
失血死してもおかしくない程の血を流してなお死なず、人並みの回復力でなんとか傷が治り、馬鹿みたいな時間をかけて血の量が戻る。そんなの、普通に耐えられるはずがない。
「だから、私は未来へと旅するんだ。……もう、こんなのはゴメンだからね」
「そんな……そんなのありかよぉ……」
ガクガクと膝が震える。和になんて言ってやればいいか解らない。せめて、助け起こしてやりたい。あの狐ヅラから逃がしてやりたい。そう思っているのに。
【だァかァらァー、内臓とか脳みそは何もしてませンでしょォ? 動けなくなるのはイイですけどォ、喋れないのは困りますからねェェ?】
震える僕なんてどうでも良い様子で、狐が笑った。それがあまりにも癇に障った。怒りのおかげか、ようやく僕は狐に向かって叫ぶ事が出来た。
「お前も何なんだよ! どうせ次元断層絡みなんだろうけど……ここまでするのかよ!」
それでも怖いものは怖いが、震える声で僕は何とか狐に向かって怒鳴りつける事が出来た。
【とは言いましてもォォー。そこのお嬢さんが私の言う事は聞けないって言いますしィ?】
しかし狐はまったく悪びれず、悪いのは和と言わんばかりの態度だった。恐怖に怒りが混ざり、震えは更に強くなる。なのに、コイツは土蜘蛛すら倒した和をここまで痛めつけられるという事実に、僕は動けないでいた。
ギリと歯を食いしばり、涙目になって奴を睨み付けるしかない。そんな僕への言葉か、それとも憎らしい狐野郎への言葉か、和が呻きながら言葉を発した。
「当然だな……人間を家畜か何かのように扱おうという輩に協力する気は無い」
「なん……だって?」
驚愕する僕に、和が言葉を続ける。
「崇……別次元の住人の大半は、自分の世界へ帰る事を望む者が大半だ。あの、土蜘蛛のようにな」
「……」
「だが、ソイツのような奴ら……人間より優れた力を持つがゆえに、我ら人類を下等生命と見做して調子にのる輩もいる」
和の言葉に、狐の目元が少し歪んだ。
【しょうがないでしょォ? 貴方たちが家畜を飼って殺すのと同じィー。今度は食われる側になっただけでしょうにィィ】
そう言った瞬間、狐の手が軽く空を薙いだ。それを見た和が両手を前で固めて防御の姿勢をとる。ガギンと怪音が響き、彼女の体が弾き飛ばされた。
「な……何をしたんだ」
傍目には、目に見えない何かが和を吹き飛ばしたようにしか見えない。何とか防御したようだが、地面に倒れた人間を更に吹き飛ばす攻撃が並大抵の威力とは思えない。
【それ、鬱陶しいなァ……触れた物の時を止める能力かァ。ま、いいけどさァ……衝撃まで殺せるわけじゃないしィ?】
見れば、人間一人を吹き飛ばせる威力の攻撃を止めたにも関わらず、防御したコートは破れてすらいない。
【時を止めると言う事はァ、壊れるという「時の流れ」から解放される。すごいよねェ、カッコイイねぇ……でェェェもォォねェェェェ?】
ニタニタといやらしい笑いを浮かべた狐の手が、連続で空中を薙いだ。先ほどと同じ不可視の何かが、またも和を襲う。ガギンガギンと硬質な音が何度も炸裂した。
「ぐ……うぅ……!」
【ソレ、ショックまでは防げないよねェ? 重い重ォい力でブっ飛ばされたらァ……そのコートで殴られてるのと変わらないんだよォォォ?】
不快な金属音を連続させて、和の体が中に跳ね上げられていく。僕の身長よりも高く持ち上げられた後、更に上から叩きつけられるような力で地面へと叩き落される。
「か……は」
和の口から、先ほどより量の多い血が吐き出された。その姿を見て、狐はやれやれと頭を振った。人を馬鹿にした、演技がかった動きだ。
【ねェ? 諦めて次元断層に案内してよォ? 後は私がやるからさァー?】
「コイツ……何を言ってるんだ?」
クフェフェフェ、と狂気じみた笑いを上げる狐に僕は怖気走った。
「か……かはっ……崇、そいつらは次元断層を探す力が無い代わりに、そこにあれば開いて辿る力があるらしい……」
開いて、辿る。辿る? 何を? いや、何処へ? いや……解答を予測する為のピースは、さっきまでの会話で充分拾えているんじゃないのか。
人間を下等だと見下す生物。
今度は食われる側になったという言葉。
土蜘蛛のように、彼の世界があって、彼のような生き物が多数いるとして。僕の脳味噌が嫌な答えを弾き出しかけたその時、和がその答えを形にした。
「ここ暫く、公園や市街地で変死体が発見されるという話を聞いた事は無いか……? 犯人はコイツだ……! 死体はコイツの食い残しって訳だ!」
思い出す。いつかネットのニュースサイトでそんな記事を見た。僕は、震える体で狐の方を見た。関わり合いになりたくもない殺人鬼の姿を、何故か見てしまった。
【そうだよォォォ! 仲間をいっぱい連れてきてェ! ここを私たちの牧場にするのさァァァ! 大丈夫だよォ! ちゃァんと管理して、順番に殺して食べるよォ!? 「いただきます」も「ごちそうさま」も言ってあげるからさァァ!】
大気を震わせて狐が叫んだ。正解です、よく出来ましたというように。僕の膝は、いよいよ限界という所だった。ガタガタと震え、膝同士がゴツゴツとぶつかっている。腰を抜かしてへたりこんでいないのは、もう奇蹟と言って良かった。
【うーん、でもねェ……そろそろ意地を張られても面倒臭いんだよねェ】
狐は、ピタリとその狂気を収めた。でも、その切り替えの早さが逆に怖い。次の瞬間にはまた狂気に走り、また和に攻撃を加え始めてもおかしくない。
「なら……諦めて失せろ」
和が狐を睨み上げる。だが、地面に倒れ付したまま和は狐にとってどれほどの脅威でも無いらしい。まるで羽虫を払うように、ガギンともう一度和を跳ね飛ばした。
「あ……が」
先ほどまではかろうじて受身らしきものを取っていた和だが、もう殆ど力が残されていないのか、成す術も無く地面に叩きつけられていた。その姿を見て、狐は飽き飽きだと言わんばかりに肩を竦める。
【もォいいよォ……便利な力を持ってるからァ、ちょっとは穏便にって思ったんだけどォ……メンドクサイから引きずっていくねェ?】
狐の化け物がパンと掌を打ち鳴らす。その直後、ズシンと地面が揺れた。
「な……何をしたんだ?」
その疑問に答えるように、中庭に積まれた廃材が鳴動する。砕かれたコンクリートの塊が、ブツ切りの鋼線が、電源も通らないケーブルが、中庭に中央に這ってくる。
鉄骨を文字通りの骨に。
ケーブルや鋼線を筋繊維に。
瓦礫やコンクリート破片を皮膚に。
僅かな時を置いて、そこには廃材で組み上げられた巨人が生まれていた。
【はァいはーい、じゃあその子を連れてきてねェ】
狐の命令が聞こえたのか、瓦礫の巨人が動き出す。狐は、とっくに僕の事なんて見ていなかった。連れ帰った和を如何にして使うかを思案するほうを優先したのかもしれない。
「く……あぁ!」
瓦礫の巨人が、無遠慮に和の髪を引っ張って持ち上げた。和が上げる苦悶の声など意に介さず、主である狐の下へ踵を返す。和は髪を引っ張られる痛みを堪えて何とか踏みとどまろうとしていた。
「あああっ!」
和は自分の髪を掴むと、瓦礫の巨人が掴んでいる髪束に手を巻きつけて引っ張る。相手の体が尖った瓦礫や破片で出来ていたのが幸いか、突起で擦れた部分がブチブチと音を立てる。掴まれていた部分近くで髪が千切れた。
重力のままに地面に倒れる和。僕は震える足を押さえつけて、何とか彼女の元へ走り寄ろうとしていた。だが彼女が抵抗を続ける事を余程面倒と思ったのだろう、狐は瓦礫の巨人へ非情の命令を下した。
【面倒臭いなァ……いいよ、もう。両手足潰しちゃってもさァ】
「なに……言ってんだ?」
狐の言葉に、僕は心が凍りついた。潰すって……何を? 誰の? 反射的に和の方を見た。倒れる和の手足を凝視する。馬鹿な、嘘だろう? だって、あんなにも細くて、瓦礫の巨人に掴まれただけで折れてしまいそうなのに。
「や……やめろよ」
ズリ、と靴の底を引きずってどうにか一歩前へ出る。だが巨人は僕をまったく無視して和に向かって歩き出す。
「やめろ……やめろよ」
走れ、走れ、走れ。瓦礫の巨人が、ゆっくりと腕を振りかぶるのが見えた。パラパラと小さな破片が落ちる。大人の頭くらいはありそうな拳。
あんなものが和の手足に落ちたら、きっと彼女の細い手足は粉々になってしまう。漫画みたいな再生機能なんて無いのに。そんな風に粉々になったら、未来永劫そのままで生きなければならないのに。
巨人の拳がピタリと動きを止め、次の瞬間には振り下ろされる。そう解った瞬間、僕は駆け出していた。
「やめろよおおぉぉぉぉ!」
逃げろと、彼女の唇が動くのを見て。それでも僕は走り続けた。
『化け物』
(……え?)
瓦礫の巨人へと突っ込む途中。僕の意識が白く染まった。
(……なんだ?)
目の前へ、瓦礫の巨人が少しずつ迫ってくる。あと少し、もう少し。僕は滑り込むように和と巨人の間へ飛び込んだ。
『化け物! 化け物! 化け物!』
誰かの声が聞こえる。それはとても昔に忘れてしまった、とても大事だった親友の声。振り下ろされる瓦礫の鎚。そこに、何故か白い乗用車が重なった。僕は、それを覚えている。忘れてしまったはずのそれを、よく覚えている。
道路に飛び出した僕。
甲高いブレーキ音を立てて突っ込んでくる車。
僕は、そのまま轢かれ……いや、轢かれそうになった僕は。
――ボンネットに両手を叩きつけ、その反動で跳躍した。
白く霞む過去の記憶でバンッと響く金属音。
月光に照らされた廃工場にゴキンと響く石の音。
二つの世界で重なった音と共に、巨人の腕が僕の掌で止められた。掌に伝わる鈍い感触と低い音。骨が砕けた音かと思ったがそうじゃない。瓦礫の塊は、この腕の形を変える事も出来ずに止められていた。
白い世界で、遠い昔が幾度も瞬く。僕は高く跳んで、地面に着地した。コンクリートを踏み割って。逃げる車の音を背中に聞いて。
そのまま、公園から僕を見ていた親友たちを見た。目があった。怯えている。泣きながら、地面に座り込んで。あの時も……あの時もオレは。
『ガ アァ アアアァァァ ァ ァァーーーーッ!』
こんな風に、咆哮した。
白かった視界が一瞬で晴れる。代わりにやってきたのは炎のように真っ赤な視界とノイズ混じりの風景。そこには不恰好な鉄クズ人形がいる。
『いつまでオレに手ェ乗っけてんだテメェ……』
パキパキ、パキパキと何かが乾く音がする。
掴んだままの手を強引に振り払う。ブチブチと鈍い感触が伝わり、巨人の腕が千切れた。手に残った残りカスを捨てると、ガラゴロと地面を転がっていく。
『カ……ハハ……カハハハハッ!』
ビリビリ、ビリビリと何かが破ける音がする。
オレはどうしようもなく楽しくなって、右手を思いックソ後ろへ引く。ぶん殴る。ぶっ飛ばす。粉々にする。目の前に立ってるクズの塊をだ。
ブチ壊す。そう考えるたび、体に力が漲るのを感じた。ほォら、あと少しだ。右手に力が溜まるの感じる。ガチガチと鋼が鳴く音がする。
「崇……君は……いや、君も」
ベキベキと、何かが歪んで固まった音がした。
地面にヘタったまま、和が何か言っている。もう少しだ、もう終わる。待ってろよ、今からコイツも狐野郎もブチ殺してやるから。右腕に溜まった力はもう臨界に達した。あとは気持ちよくブっ放せば終わる。
『死ィねえええええええ!』
真っ赤に染まった視界が更に赤く染まる。ガリガリとノイズ交じりの視界、とんでもない不快さと、とんでもない快感を伴って右腕が巨人の腹に向かって突っ走る。
「神威か」
気のせいかもしれねェが、和の声には驚愕と……何でか悲しさが混じってるように聞こえた。
瓦礫の巨人が体のド真ん中から粉々に砕け散る。吹き飛ぶ破片とコンクリートの塵。その向こうで、驚愕に獣ヅラを歪めるヤツが見えた。
【何だよォ……お前、同類だったのかよォ……! 失敗したなァ、女のほうをいたぶり過ぎて呼んじゃったって事かァ……!】
何を言ってやがるか解らねェが、狐はさっきまでの余裕を無くしたようだ。まあイイ、そんな事はまったく興味がねェ。あとはあの狐を縊り殺せば万事解決だ。
『ビビってンじゃねェぞ狐ちゃんよォ……和にやってくれた事ァまとめて返してやる。泣いて命乞いすりゃあスッキリ殺してやるぜ? なァ!』
大気を割って、オレの声が響き渡る。狐野郎の耳には相当効いたのか、不機嫌そうに目元を顰めていた。だが、ヤツからは何の答えもない。……だが、どうでもいい。命乞いが無いってェならそのままブチ殺せばそれで終りだ。
「待て! 崇!」
とすん、とオレの腰に軽い衝撃が走る。見下ろせば、和がオレの腰に抱きついていた。
「ダメだ崇! 戻れ……こんなはずが無い、君がそうであっていいはずが無いんだ!」
……彼女が何を言っているのか解らない。クソむかつく狐を殺せるってェなら是非もない。なのに和はどうしてこんなにも必死なんだろう。ガリガリと、視界のノイズが増していく気がする。どうにも気分が悪い。
【いいよ、ここは譲るとするさァ……でも、次元断層の場所は絶対に教えてもらうからねェェ!】
『……ちィ! 待ちやがれ狐野郎ッ』
反射的に狐野郎に突っ込もうとしたが、腰に抱きついたままの和が邪魔で動けやしねェ。出遅れた一瞬の隙を突いて、狐野郎は大きく跳躍すると廃工場の影へと消えた。クソッタレなことに、あの最悪野郎を逃がしてしまったらしい。
『オイ、和よォ……邪魔すんなって。あのクソを殺しゃあ万事OKじゃねェよ』
見下ろすと、和はオレの腰に抱きついたまま顔を伏せている。そこでオレは異常に気付いた。……オレの身長は、和をこうやって見下ろせるくらい高かったか?ゆっくりと両手を上げてみる。そこには、見た事の無い掌があった。
ガリガリとノイズが走る。
何だ、コレ。ガキの頭くらいなら握り潰せそうな掌。指の先についた、杭みてェなデケェ爪。恐る恐る和の肩にそっと手を置いて、ゆっくりと引き剥がす。俺の力が強いのか、和にもう力が残っていないのか。彼女はあっさりと離れた。
ガリガリガリガリ。ノイズは段々デカくなる。
見下ろした体は、鎧なんだか殻なんだか解らないモンでびっしり覆われている。足にもやっぱりクソでかい爪が付いていて、体中のそこかしこに金属の珠なんだか生き物の目なんだか解らない物がうっすら光っていた。
『おい……オイオイ何だよコレ』
後ろへ一歩よろめいた。コケちまわないように足を踏み出すと、ズシンと重々しい音が響く。またその音を聞くのが怖くて、オレはもう一歩も動けなくなった。
「……」
ようやくオレを見上げたくれた和の顔は、何とも言えない顔をしていた。戸惑ってるような、泣き出す寸前みたいな、怒り出す直前みたいな、そんな顔だった。
『し……和……?コレは、オレは何なんだ……!』
「……君は」
和が少し俯く。前髪で隠れて目は見えないが、何とか見えた口元では唇を噛み締めているのが見えた。言わなければならない、言うしかない、それなのに……言えない。まるでそんな葛藤と戦うように、和の肩が小刻みに震えている。
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。いよいよもってノイズが視界の隅々までも覆い尽くす。ああ、畜生。気付いてしまう。まるで熱が冷めていくように、暴力的な感情が萎えて僕が帰ってくる。
思い出す。何故オレはあんなモノに立ち向かった? どうして戦えた? 僕は何故あんなにも好戦的だった? あんな事が、今までオレに出来たか?
「崇、君は……」
ヤバい。ヤバい。致命的な奴が来る。今までのオレを粉々にするデッケェのが来る。そしてオレは見た。見てしまった。所々割れたガラスに映ったオレ自身の姿を。
青白い炎の鬣。
炎と同じ色で光る眼。
剥き出しの白い牙。
白銀の爪。
黒銀の巨躯。
地面を撫でる鞭のような尾。
「人間じゃない。自律戦闘兵器『神威』……その完成体だ」
ノイズが止んだ。
真っ赤だった視界は、まるで霧が晴れるようにいつもの色を取り戻す。
「うああ……うわあああぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーッ!」
両手で頭を掻き抱き、まるで泣き叫ぶように。
僕は夜空に向かって咆哮した。