第九十五話 静かなる怒り
これまでに監査委員会で下した審判については社内報や会社から配布されたIDを持つ者だけが閲覧できるサイトなどで公表されていたため、俺も監査委員会の存在と役割については知っていた。
だが、監査委員会は自分とは関わりのない部署という意識が強かった俺は、ハリス部長から『監査委員会へ訴え出ろ』と言われても、どこか他人事のように受け止めてしまっていた。
そんな俺に代わって、佐伯課長がハリス部長に問い返していた。
「確かに監査委員会へ訴え出れば、樫山専務も無傷とはいかないでしょうが、そもそも何を目的に訴えればいいと、ハリス部長はお考えなのでしょうか」
「何も難しく考える必要はない。あったことをそのまま具申すればいい」
怪しい笑みを深めハリス部長が言った言葉に戸惑いを覚えた俺が佐伯課長を見ると、ちょうど佐伯課長も俺に視線を寄越し、俺と同じ思いだったらしい佐伯課長と無言のまま見合ってしまった。
「会社は仕事をする場であって、婿狩りをする場ではない。しかも、結婚というその後の人生に大きな影響を与える局面で、『イエス』の一択しか選べないというのはおかしいと思わないか。本来、結婚というものは幸せになるためにするものだ。それが、この会社に居たから不幸になったというのでは、勤める意味がなくなってしまう。ならば、その不幸の種を蒔こうとする者を止めるのは当然のことだ」
ハリス部長の話に俺は同意しつつも、実際に監査委員会へ訴えを起こせば、その影響は当事者だけに留まらず佐伯課長を初めとする営業部に席を置く者には、大なり小なりの波紋を引き起こすことが容易に想像がつき、何よりもハリス部長に及ぼす影響がどれ程のものとなるのか予測することも難しく素直に頷けなかった。
「どうだ。新井。ハリス部長の言われることは、もっともなことだと思うし、前向きに考えてみては」
悩んで返事ができずにいた俺に、佐伯課長も説得をし始めた。
それでも俺は、自分の問題に無関係な仕事仲間を巻き込んでしまうことを考えると、一歩を踏み出す決断ができなかった。
「今回の異動の話が強行されていたら、私が訴えを起こしていただろう」
どう応えるべきかと言葉を探していた俺の耳にハリス部長が口にした意外な言葉が届き、思わずハリス部長に顔を向けた。
ハリス部長はその瞳に強い光を宿し、驚いている俺に構うことなく話を続けた。
「人事部の部長も言っていた通り、樫山専務は人事権を有していない。それでも、人事に介入するならば、それは越権行為となる。そこに、樫山専務の考える合理的な理由が存在していたとしても、越権行為を見過ごすわけにはいかない。もし、それを許してしまったら、営業部の者は皆、不本意な人事異動を警戒して自由に発言することを控え、畏縮してしまうだろう。そうなったら、四葉環境株式会社の営業マンだという誇りも失われ、それを容認する企業の未来がどんなものか、言わずもがなだとは思わないか」
感情の起伏が感じられない話し方でありながら、一つひとつの言葉に重みのあるハリス部長の話を聞いて、庶務課への異動の話を持ち出した樫山専務に対し、ハリス部長は静かに怒っていたのだと気が付いた俺の背中を冷たい汗が一筋伝い落ちた。
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