第八十九話 実のない建て前
「新井君は、一般常識が欠如している部分が垣間見える。これまでは、問題となることもなかったようだが、本来なら営業マンとしては致命的だ。社長賞を取った今こそ、正されるべきだと私は思う。そこで、庶務課へ行ってその辺りのことをしっかりと学び直してくるべきだと判断した」
樫山専務の話を聞いて、今回の措置は樫山専務の意向に背き続ける俺に対してのペナルティだとはっきり感じられた。
樫山専務からの俺を異動させることについての説明に、今度は浜中さんも木下さんも口を閉ざし、他のメンバーからの発言もなかったため定例会議は散会となり、皆一様に複雑な表情をしながらも三々五々と会議室から出て行き始めた。
その人の流れに紛れるように、席から立ち上がった俺に浜中さんと木下さんが近付き他の人には聞こえないように小声で囁いた。
「短慮に走るなよ」
「軽薄な行動は、慎めよ」
短い言葉ではあったが、本気で俺を心配してくれていることが伝わり二人の顔を見ると、浜中さんと木下さんは樫山専務に視線を走らせ、そのまま会議室を出て行った。
明らかに樫山専務を気にしていることが見て取れ、俺は二人に迷惑が掛からないようにその場でお礼を言うことを諦め、他の人たちの後に続いて会議室を出ようとした。
「営業部の外に出てみれば、これまで自分がどれ程に驕っていたか、身に染みるだろう」
背後から樫山専務の声が聞こえ振り向くと、いつの間にか会議室には樫山専務と俺だけが取り残されていた。
庶務課への異動の話は納得のいくもではなかったが、会社という組織の一員である限り、上の命令に逆らうことはリスクを伴うものだということは分かり切っていた。
それに加えて、会社が唯一無二の存在ではなくなっていた俺は、営業マンであり続けたいと思う気持ちも薄れていた。
そのため、樫山専務に声を掛けられる直前までは、納得はいかなくても庶務課への異動の話を黙って受け入れるつもりでいた。
「庶務課へ行けば、これまでと違って時間的にも余裕ができるだろう。そうしたら、そこでこれまでの自分の行いを省みて、十分に反省したら私のところへ言いに来るといい。その時の君の態度しだいでは、営業部に戻ることもやぶさかではない」
樫山専務がその権力をもって、俺に美咲との結婚を受け入れるように迫っていることは疑う余地がなかった。
余裕の窺える笑みを湛えて俺を見ている樫山専務に対し、俺は怒りよりも地を這う侮蔑の感情しか抱けなかった。
俺の直属の上司である佐伯課長を懐柔し、美咲との結婚話を俺に飲み込ませようとしたものの、事情を知った佐伯課長が俺の協力者となってのらりくらりと樫山専務の追求をかわし続けていたため、美咲の出産というタイムリミットがある樫山専務が業を煮やし、庶務課への異動という実力行使に出たのだということは問わなくても理解できていた。
それを改めて言葉にして告げられたことで、虚しさがじわじわと広がっていった。




