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第五十八話 緩和

「問題はこれからどうするかだが、対応を間違えれば一生悔やんでも悔やみ切れないことになるぞ」


佐伯課長の言った言葉は、俺自身が決して感情に流されてしまわないように事ある毎に、自分に言い聞かせ心に刻み付けていたものでもあった。




 万が一、対応を間違えて樫山専務と美咲の目論見にはまり、抜け出せなくなってしまったら、俺は梨奈を失い、誰の子かも分からない子供から父と呼ばれ、憎んでも余りある美咲には妻として振舞われる。そう考えただけで身体が震えるほどの怒りが沸いた。


そこに樫山専務が加わったら……、俺は自分でも自分がどうなってしまうのか分からなかった。




 不意に、佐伯課長は初めから俺の話を聞こうとしていたことを思い出し、なぜなのかとその理由が知りたくなった。


「佐伯課長は、どうしてそこまで親身になってくれるのですか」


佐伯課長は一度俺を見た後、料理の入っている皿に箸をつけながら説明を始めた。


「最初に樫山専務から話を聞かされた時、違和感を覚えた。新井には結婚を決めて一緒に住んでいる女性がいたはずなのに、どこで、どうして、どうなったら樫山専務の娘と結婚の約束ができるんだ、とな」




以前、佐伯課長に誘われて居酒屋で一緒に飲んだ時、既に結婚して家庭を持っている佐伯課長から、結婚については考えているのかと聞かれたことがあった。


その時には、マンション『ベルフラワー』で梨奈と一緒に暮らしていた俺は、梨奈のことを佐伯課長に話していた。


その後、樫山専務から会社に訪ねて来ていた美咲と出掛けるように言われた話を蹴り、佐伯課長と一緒に九州地方へ出張に出掛けた時、結婚の話は進んでいるのかと問われ、俺は梨奈と一緒に暮らしていることを打ち明けていた。




「だがな、人には欲というものがあるだろう。新井に限ってまさかとは思ったが、出世の話に釣られて、おかしなことになっているのではないかと思ってな。一度、腹を割って話したいと思ったんだ」


俺は佐伯課長の話を聞きながら、心の中に溜まっていたおりが溶け出していくのを感じていた。




「私には無理ですよ。自分の実力に見合わない地位を与えられても、十分な働きができるはずもないですし、精神的な負担が大きすぎて潰れてしまうのが落ちです」


それは、俺の本心だった。プロジェクトチームの一員として選ばれた当初、アドバイザーからの厳しい指導もあり、俺は自分に与えられた役割についてたびたび考えさせられた。


そして、その役割が明確になるにつれて、それに伴う責任の重さも実感させられた。


その時の経験から、俺は自分の身の丈に合わない地位を望もうとは思わなくなっていた。




「新井なら、そうだろうな。何しろ、人一倍責任感の強い奴だからな。それで、今までにも面倒な問題に直面しても真正面から受け止めて、必要とあれば何度でも相手方の所まで足を運んで、下請けの連中にも頭を下げて回っていただろう。その甲斐あって、新井が手掛けたものは、後からクレームがついたことが一度もないのだからたいしたものだ」




 佐伯課長に俺がこれまで積み上げてきたものに対して正当に評価してもらい、認めてもらえたことは、俺にとって何より嬉しいものだった。


だが、同時にそんな佐伯課長に、心配を掛けさせてしまったことを忍びなく思った。


「ご心配をお掛けして、すみませんでした」


「自分のことをちゃんと分かっているのなら、それでいい」


包み込むような温もりのある眼差しで言われた言葉に、俺は胸が詰まり、それ以上の言葉を続けられなかった。


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