第五十四話 権力の傘
「あなたの子よ。父親は尚哉さんよ」
俺にぶつけるように、美咲が子供の父親は俺だと声を荒げた。
その美咲の態度に、樫山専務の俺を見る目に鋭さが加わった。
その時、俺の警戒心がそろそろ引き上げ時だと告げた。
このまま話を続けたとしても、美咲の子が俺の子かどうかの無益な言い争いになるだけだということが容易に想像のついた俺は、自分の警戒心の忠告に従い話を切り上げるための言葉を重ねた。
「美咲さんが言われたような、愛し合ったという記憶が私には一切ないということは、先程も申し上げた通りです。美咲さんにどのような事情がおありなのか知りませんが、一度、樫山専務も交えて、お子さんの本当の父親と話し合われてはどうでしょうか。私は、これで引き取らせていただきます」
早口にならないように気を付けて言い終えた後、俺は一度頭を下げ立ち上がった。
「尚哉さん。あなたの子なのよ」
部屋から出ようとした俺の背中を、美咲が放った言葉が追い掛けてきた。だが、俺は振り返らず、そのまま部屋を出て料亭『水鏡』から離れた。
『水鏡』の建物が見えなくなるまで歩き続け、完全に見えなくなったところで足を止めて大きく息を吐いた。その途端に、どっと疲れが押し寄せた。
自分が思っていた以上に、樫山専務と美咲を相手に自分の主張を押し通すという行為が、精神的に大きな負担となっていたようだった。
特に、美咲を相手に怒りを面に出さず、表面上は冷静に見えるように振舞うごとに、俺の神経は少しずつ磨り減っていった。
さらに、ICレコーダーの存在が疲れに輪を掛けていた。
樫山専務や美咲との会話を録音して残すということは、話し相手である俺の言ったことも記録として残ることになるため、話す内容には細心の注意が必要だった。
スーツの上着のポケットに手を入れて、ICレコーダーを取り出し録音状態を解除する。
目の前の外灯に照らされた夜道が、ことさらに暗く感じられた。
翌日から樫山専務は険しい目つきで俺を見るようになった。だが、美咲の話題を持ち出すことはなくなり、沈黙を守っていた。
反対に、美咲からは毎日電話が入るようになり、これ以上美咲と何かを話す気になれなかった俺は、最初の一日は、完全に美咲からの電話を無視して過ごした。
だが、次の日も掛かってきた電話に、これ以上無視し続けて痺れを切らした美咲に会社まで会いに来られ、子供の父親は俺なのだと声高に話されては、美咲との結婚か会社を退職するか、選ばざるを得ない羽目に陥りかねないと考え直して電話を受けることにした。
美咲の電話の内容は、父親である樫山専務の持つ力に始まり、元銀行の頭取である祖父の影響力や自分が生まれ育った家の有する力と財力などについてだった。
それらを得々と語り、美咲と結婚することで、それらの力を俺が借りることも可能になると繰り返し言われた。
しかし、数日続いた美咲からの電話では、結婚を望む相手である俺に対して『好き』という言葉も『愛している』という言葉も一度も聞かされず、お互いの利益のために取引を成立させる契約として結婚しようと言っているようにしか、俺には受け取れなかった。
そんな愛情の欠片もない結婚生活と、今の梨奈との幸せな毎日を引き換えにするなどできるはずもなく、俺は美咲の説得を拒み続けていた。




