第四十二話 転職
その場の空気が重くなったように感じ、溜息が出そうになった。
その時、達雄先生が立ち上がり部屋から出て行った。すぐに戻って来た達雄先生はクーラーボックスを手にし、それを達樹に渡して元の席に戻った。
達樹がクーラーボックスのふたを開けて中を確かめると、たくさんの缶ビールが保冷剤と共に入れられていた。
それを見た達樹が、座卓の上に並べられていた空になった缶を部屋の外に出し、クーラーボックスの中から新しい缶ビールを数本取り出して代わりに並べ、そこから達雄先生が一本手に取り栓を開けて俺に差し向けてきた。
それを見て、俺は達雄先生が俺の心情を察して飲ませてくれようとしているのだと知り、小さく『ありがとうございます』とお礼を言い、達雄先生の好意に甘えてグラスを差し出した。
「この際、会社を辞めるか」
唐突に響いた達樹の言葉に達樹の方へ振り返ると、達樹は缶ビールを手に持ち自分のグラスに注いでいた。
まるで世間話でもしているかのような仕草で言われた内容は、俺も考えていたことではあった。
このまま樫山専務が美咲との結婚を諦めず、美咲が今以上の突飛な行動に出るようなことがあれば、いずれ噂が人の口に乗るようになる。そうなれば、仕事にも少なからず支障を来たし、俺は会社に居づらくなるのではないかと思っていた。
「お前は俺と一緒に司法試験を通っているんだし、会社を辞めても困ることはないだろう。何なら、今から弁護士を目指すという手もあるしな」
俺は子供の頃から父親の後を継いで弁護士になると決めていた達樹の影響を受けて、大学では法学部に籍を置き弁護士を目指していた。
その後、ロースクールのある大学院まで進んだのだが、達樹のように確固たる信念を持っていたわけではなかった俺は、このまま弁護士になったとして自分に務まるのだろうかと迷っていた。
また、司法試験は『超』が付くほどの難関だということも耳にたこができるくらいに繰り返し聞かされ、全ての必要なカリキュラムを終え、司法試験を受ける段になって俺たちを指導していた教授から、最初の試験は自分の実力を測るつもりで気楽に受ければいいと言われたこともあり、両親にこれ以上、経済的な負担を掛けることは忍びないという思いもあった。
一般家庭に生まれ育った俺は、司法試験を通ることを目指すにしても大学院を出た後は、自分で働いて収入を得ながら目指そうと心に決め、司法試験を受けつつも四葉環境株式会社の就職試験も受けていた。
結果は、両方から合格通知が届き嬉しい誤算ではあったが、俺は二つの合格通知を前にして弁護士を目指す踏ん切りがつかず迷いに迷っていた。
そんな俺の背中を父が押してくれたこともあり、俺は四葉環境株式会社に就職することを決めたのだった。
達樹はそんな経緯も良く分かっていたため、気楽な感じで会社を辞めることを提案したのだと、俺はすぐに気が付いた。
「この先の状況しだいでは、そういうことを真剣に考えることも必要だろうが、それは今ではないな」
「それは、どういうことでしょうか」
気楽な感じの達樹とは反対に、重い口調で話に加わった達雄先生に俺は疑問を感じて問い掛けた。
「樫山専務が尚哉君を選んだ理由が理由だからね。内情はどうであれ、弁護士というのは社会的評価の高い職業でもあるし、尚哉君が会社を辞めて弁護士を目指していることが知れれば、余計に執着される恐れがある」
「娘の相手は全ての面において優れている者を、だったな。それなら、検事や裁判官でも同じことが言えそうだな」
俺の問いに答えた達雄先生の話の内容に達樹が先程までとは違い、真面目に返した二人の話を聞いて苦いものが込み上げ、ビールを口にした俺の頭の中に『万事休す』という言葉が浮かんだ。




