夜の音
雨は昼過ぎから降り続いていた。
約束どおり、仕事は午前で終わった。夕方、坂を上ってエッダさんの家の門を叩くと、扉を開けたエッダさんが、俺の濡れた外套を見て手拭いを一枚投げてよこした。
「ちょうどよかった。ユウさんに、話しておきたいことがあってね」
居間ではミアが、絵本のはりねずみの頁を開いたまま、ぼんやりしていた。俺に気づくと顔を上げて手を振ったが、振り終わったあとに大きなあくびが一つ出た。
台所で、エッダさんが声を落とした。
「この二晩、あの子がよく眠れていないんだよ。雨のせいだと思う。二階の窓のすぐ横に樋があって、雨が強くなると、そこから水がぽたぽた落ちる。それが夜中に聞こえるらしくてね」
「音で、目が覚める」
「目が覚めて、そのまま朝まで起きている夜もあったみたい。本人は大丈夫って言うけど、今朝は粥の匙を持ったまま、こっくりしてた」
エッダさんは鍋をかき混ぜながら言った。心配しているのに、手は止まらない。
俺は窓の外を見た。雨は細く、まっすぐ降っている。今夜も止みそうにない。
ふと、森で初めて影を動かした日のことを思い出した。見つからないでくれ、と思ったら、茂みの下が夜みたいに濃くなった。あの暗さの中では、獣の鼻息まで遠く聞こえた気がした。
「エッダさん。試してみたいことがあります」
俺は、思いついたことをそのまま話した。窓のまわりに影を張って、外の音と光を弱められるかもしれないこと。眠らせる力ではないこと。そもそもうまくいくか分からないこと。
「いきなりミアの部屋でやるつもりはありません。先に、ここで試させてください。エッダさんが聞いて、変だと思ったらやめます」
エッダさんは鍋の火を落として、腕を組んだ。
「やってごらん」
台所の窓に意識を向ける。窓枠の内側に、薄い影の膜を一枚。押し返す壁ではなく、音の通り道に厚いカーテンを一枚かけるような感じで。
雨の音が、一段遠のいた。
消えたわけではない。降っているのは分かる。ただ、窓の向こうで鳴っていた音が、もう一枚壁を隔てた隣の家の音みたいになった。台所の灯りも、窓のあたりだけ夕暮れのように和らいでいる。
エッダさんはしばらく黙って耳を澄ませていた。
「……雨が、引っ越したみたいだね」
それから、膜に指先で触れようとして、触れる手前で止めた。
「ミアに聞いてからにしよう。嫌だと言ったら、やらない。私も部屋にいる。それと、今夜は訪問の時間を少し延ばしていい。あの子が寝るまでね」
「はい」
「神殿の夜のお祈りに、こういう文句があるんだよ。『よき夜の安息を』。この町じゃ、寝る前に誰でも言う」
エッダさんは鍋の蓋を閉めた。
「あんたのそれは、ちょうどそういう感じだね」
*
晩ごはんのあと、ミアに話すと、ミアは窓の外の暗さを見てから言った。
「きつねさんで、いてくれる?」
二階のミアの部屋は、庭に面していた。窓の外の樋から、確かにぽたん、ぽたん、と不規則な音がしている。規則正しければまだ慣れるのだろうが、間隔がばらばらだから、次の一滴を待ってしまう。
俺は寝台の脇の敷物の上で、黒狐の姿になった。エッダさんは扉のそばの椅子に座って、膝の上で編み物を広げている。扉は開けたままだ。
ミアは布団に入って、寝台の端から手を伸ばした。指先が、俺の背中の毛に触れる。この前教わったとおり、背中のほうから、ゆっくり。
窓に、影の膜をかけた。
ぽたん、という音が、遠くなった。雨の音全体が、厚い布の向こうに下がった。窓から差し込んでいた通りの灯りも、ぼやけた薄明るさに変わる。部屋は真っ暗にはしない。エッダさんの手元の小さなランプはそのままだ。
ミアが、目を見開いた。
「雨、遠くに行った」
「行ったな」
「消したの?」
「消してない。ちょっと離れてもらっただけ」
ミアは天井を見て、窓を見て、また俺を見た。それから、ぱちぱちと何度か瞬きをした。
眠くなったようには見えなかった。むしろ、目が冴えている。新しいことが起きたせいだ。
そうだろうな、と思った。俺にできるのは部屋を静かにすることだけで、眠らせることはできない。眠るのはミアの仕事だ。
「ねえ、きつねさん」
「うん」
「狐はね、寝るとき、しっぽで鼻をあっためるんだよ。やって」
言われたとおり、敷物の上で丸くなって、尻尾を鼻先に巻きつけた。森の洞で初めて夜を過ごしたとき、自然にやっていた格好だ。
ミアが身を乗り出して覗き込んだ。
「ほんとだ」
本物の狐の知識を、本物かどうか怪しい狐で確かめないでほしい。でも、ミアは満足そうに枕へ頭を戻した。
しばらく、雨の遠い音だけがしていた。
「あの夜も、雨だったね」
ミアが言った。待避所の夜のことだろう。
「うん」
「ユウ、ずっと起きてた」
「起きてた」
「今日も、起きてる?」
「ミアが寝るまでは」
ミアは天井を見て、何かを計算するような顔をした。
「じゃあ、寝なくてもいいや」
なんでそうなる。
「ミアが寝たら、エッダさんと交代して帰るんだよ」
「じゃあ、やっぱり寝ない」
扉のそばで、エッダさんの編み棒の音が一瞬止まった。笑いをこらえたらしい。
ミアは寝ない、と宣言したまま、俺の背中を撫でていた。撫でる手の動きが、少しずつ遅くなっていく。ゆっくり、から、もっとゆっくり、になって、やがて背中の毛の上で止まった。
それから、大きなあくびをした。
「……寝ない、から」
最後のほうは、ほとんど息だった。
*
ミアの寝息が規則正しくなってから、俺はしばらく動かずにいた。
背中に乗っていた手が、布団の上に滑り落ちる。それを待って、俺は敷物の上をそっと離れた。窓の影の膜は、一度に消さずに、少しずつ薄くしていく。急に雨音が戻って起こしてしまうのは避けたかった。
ぽたん、が戻ってきた。ミアは寝返りを打っただけで、目を開けなかった。
廊下で人間の姿に戻ると、エッダさんがランプを手に後ろから出てきて、静かに扉を半分閉めた。
「明日、樋の口に布を巻いてもらおうかね。水の落ちるところに当てておけば、音がやわらぐ。あれは魔法じゃなくて、樋の問題だ」
「明日の昼、俺がやりましょうか。梯子があれば」
「頼むよ。物置にある」
階段を下りて、玄関の扉を開ける。雨は、まだまっすぐ降っていた。
外套の襟を立てかけたところで、エッダさんが言った。
「ユウさん。よき夜の安息を」
町の誰もが寝る前に言う言葉だという。俺は、言われるのは初めてだった。
「……エッダさんも。よき夜の安息を」
口に出してみると、思っていたより舌になじんだ。
坂を下りる。雨粒が、外套の表に当たって弾ける。音を遠くする必要は、俺にはなかった。一粒ずつ違う高さで鳴る雨の音を、職人通りの部屋に着くまで、ずっと聞いていた。




