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黒狐の精霊と、ひだまりの家 ~闇の大精霊は、小さな幸せを守りたい~  作者: 雅龍(がりゅう)
第二章 会いに行く場所

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夜の音

雨は昼過ぎから降り続いていた。


約束どおり、仕事は午前で終わった。夕方、坂を上ってエッダさんの家の門を叩くと、扉を開けたエッダさんが、俺の濡れた外套を見て手拭いを一枚投げてよこした。


「ちょうどよかった。ユウさんに、話しておきたいことがあってね」


居間ではミアが、絵本のはりねずみの頁を開いたまま、ぼんやりしていた。俺に気づくと顔を上げて手を振ったが、振り終わったあとに大きなあくびが一つ出た。


台所で、エッダさんが声を落とした。


「この二晩、あの子がよく眠れていないんだよ。雨のせいだと思う。二階の窓のすぐ横に樋があって、雨が強くなると、そこから水がぽたぽた落ちる。それが夜中に聞こえるらしくてね」


「音で、目が覚める」


「目が覚めて、そのまま朝まで起きている夜もあったみたい。本人は大丈夫って言うけど、今朝は粥の匙を持ったまま、こっくりしてた」


エッダさんは鍋をかき混ぜながら言った。心配しているのに、手は止まらない。


俺は窓の外を見た。雨は細く、まっすぐ降っている。今夜も止みそうにない。


ふと、森で初めて影を動かした日のことを思い出した。見つからないでくれ、と思ったら、茂みの下が夜みたいに濃くなった。あの暗さの中では、獣の鼻息まで遠く聞こえた気がした。


「エッダさん。試してみたいことがあります」


俺は、思いついたことをそのまま話した。窓のまわりに影を張って、外の音と光を弱められるかもしれないこと。眠らせる力ではないこと。そもそもうまくいくか分からないこと。


「いきなりミアの部屋でやるつもりはありません。先に、ここで試させてください。エッダさんが聞いて、変だと思ったらやめます」


エッダさんは鍋の火を落として、腕を組んだ。


「やってごらん」


台所の窓に意識を向ける。窓枠の内側に、薄い影の膜を一枚。押し返す壁ではなく、音の通り道に厚いカーテンを一枚かけるような感じで。


雨の音が、一段遠のいた。


消えたわけではない。降っているのは分かる。ただ、窓の向こうで鳴っていた音が、もう一枚壁を隔てた隣の家の音みたいになった。台所の灯りも、窓のあたりだけ夕暮れのように和らいでいる。


エッダさんはしばらく黙って耳を澄ませていた。


「……雨が、引っ越したみたいだね」


それから、膜に指先で触れようとして、触れる手前で止めた。


「ミアに聞いてからにしよう。嫌だと言ったら、やらない。私も部屋にいる。それと、今夜は訪問の時間を少し延ばしていい。あの子が寝るまでね」


「はい」


「神殿の夜のお祈りに、こういう文句があるんだよ。『よき夜の安息を』。この町じゃ、寝る前に誰でも言う」


エッダさんは鍋の蓋を閉めた。


「あんたのそれは、ちょうどそういう感じだね」


*


晩ごはんのあと、ミアに話すと、ミアは窓の外の暗さを見てから言った。


「きつねさんで、いてくれる?」


二階のミアの部屋は、庭に面していた。窓の外の樋から、確かにぽたん、ぽたん、と不規則な音がしている。規則正しければまだ慣れるのだろうが、間隔がばらばらだから、次の一滴を待ってしまう。


俺は寝台の脇の敷物の上で、黒狐の姿になった。エッダさんは扉のそばの椅子に座って、膝の上で編み物を広げている。扉は開けたままだ。


ミアは布団に入って、寝台の端から手を伸ばした。指先が、俺の背中の毛に触れる。この前教わったとおり、背中のほうから、ゆっくり。


窓に、影の膜をかけた。


ぽたん、という音が、遠くなった。雨の音全体が、厚い布の向こうに下がった。窓から差し込んでいた通りの灯りも、ぼやけた薄明るさに変わる。部屋は真っ暗にはしない。エッダさんの手元の小さなランプはそのままだ。


ミアが、目を見開いた。


「雨、遠くに行った」


「行ったな」


「消したの?」


「消してない。ちょっと離れてもらっただけ」


ミアは天井を見て、窓を見て、また俺を見た。それから、ぱちぱちと何度か瞬きをした。


眠くなったようには見えなかった。むしろ、目が冴えている。新しいことが起きたせいだ。


そうだろうな、と思った。俺にできるのは部屋を静かにすることだけで、眠らせることはできない。眠るのはミアの仕事だ。


「ねえ、きつねさん」


「うん」


「狐はね、寝るとき、しっぽで鼻をあっためるんだよ。やって」


言われたとおり、敷物の上で丸くなって、尻尾を鼻先に巻きつけた。森の洞で初めて夜を過ごしたとき、自然にやっていた格好だ。


ミアが身を乗り出して覗き込んだ。


「ほんとだ」


本物の狐の知識を、本物かどうか怪しい狐で確かめないでほしい。でも、ミアは満足そうに枕へ頭を戻した。


しばらく、雨の遠い音だけがしていた。


「あの夜も、雨だったね」


ミアが言った。待避所の夜のことだろう。


「うん」


「ユウ、ずっと起きてた」


「起きてた」


「今日も、起きてる?」


「ミアが寝るまでは」


ミアは天井を見て、何かを計算するような顔をした。


「じゃあ、寝なくてもいいや」


なんでそうなる。


「ミアが寝たら、エッダさんと交代して帰るんだよ」


「じゃあ、やっぱり寝ない」


扉のそばで、エッダさんの編み棒の音が一瞬止まった。笑いをこらえたらしい。


ミアは寝ない、と宣言したまま、俺の背中を撫でていた。撫でる手の動きが、少しずつ遅くなっていく。ゆっくり、から、もっとゆっくり、になって、やがて背中の毛の上で止まった。


それから、大きなあくびをした。


「……寝ない、から」


最後のほうは、ほとんど息だった。


*


ミアの寝息が規則正しくなってから、俺はしばらく動かずにいた。


背中に乗っていた手が、布団の上に滑り落ちる。それを待って、俺は敷物の上をそっと離れた。窓の影の膜は、一度に消さずに、少しずつ薄くしていく。急に雨音が戻って起こしてしまうのは避けたかった。


ぽたん、が戻ってきた。ミアは寝返りを打っただけで、目を開けなかった。


廊下で人間の姿に戻ると、エッダさんがランプを手に後ろから出てきて、静かに扉を半分閉めた。


「明日、樋の口に布を巻いてもらおうかね。水の落ちるところに当てておけば、音がやわらぐ。あれは魔法じゃなくて、樋の問題だ」


「明日の昼、俺がやりましょうか。梯子があれば」


「頼むよ。物置にある」


階段を下りて、玄関の扉を開ける。雨は、まだまっすぐ降っていた。


外套の襟を立てかけたところで、エッダさんが言った。


「ユウさん。よき夜の安息を」


町の誰もが寝る前に言う言葉だという。俺は、言われるのは初めてだった。


「……エッダさんも。よき夜の安息を」


口に出してみると、思っていたより舌になじんだ。


坂を下りる。雨粒が、外套の表に当たって弾ける。音を遠くする必要は、俺にはなかった。一粒ずつ違う高さで鳴る雨の音を、職人通りの部屋に着くまで、ずっと聞いていた。


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