偽物の出口
荷運びの隊の十五人が、偽の誘導印に導かれて、鏡の壁の前で立ち往生していた。日が落ちると、鏡の森は昼より多くの像を作る。それまでに、全員を外へ出さなければならない。
荷車が三台。先頭の男は地図を握りしめたまま、行き止まりの壁を呆然と見上げている。
「道が、ない……」
「落ち着いて。ここへ誘ったのは、偽の矢印です。引き返しましょう」
シンは壁の矢印に目を凝らした。傾いた西日が、塗られたばかりの線だけを、濡れたようにぎらりと光らせている。古い印は鈍く沈んだままだった。
(塗料の艶が新しい、とフィオナが言っていた。斜めから光を当てれば、本物と偽物は見分けられる)
そのとき、ティナの耳が動いた。
「あっち。誰かが走ってます」
木々の間に、黒い外套の背中がちらりと見えた。手に、塗料の缶を提げている。
「追うか」
バルトが言った。
シンは隊員たちを見回した。十五人のうち三人は足首をくじいていて、荷車の一台は車輪が溝に嵌まっている。追えば、犯人を捕まえられるかもしれない。追わなければ、この隊は暗くなる前に出られないかもしれない。
「……行かない」
「だが」
「あの男を捕まえても、この人たちは助からない。まず、全員を出す」
シンは犯人の背中に、背を向けた。
***
帰り道には、分かれ道が三つあった。どこにも偽の矢印が仕込まれているかもしれないが、一つずつ調べていては、日没に間に合わない。
シンの刀は、《鏡晶》を載せたままだった。ダリウスからランタンを借りて、刃で光を折り、壁を這うように斜めから当てる。
偽物の矢印だけが、濡れたように光った。三つ目の分岐まで、立ったまま見渡せた。
「そことあそこ、光るのは偽物だ。布を被せてください」
バルトが荷車の覆い布を裂いて、偽の矢印を一つずつ隠していく。残る本物の印だけが、鈍い色のまま道を指した。
それから日没まで、二往復した。足をくじいた者を背負い、荷車の車輪を押し、分岐のたびに光る矢印へ布を被せる。ティナは三十分おきに迷子を拾って戻り、ダリウスは休憩所で全員に熱い汁を配った。
足首をくじいた荷車の少年を背負うと、背中が驚くほど軽かった。十歳くらいだろうか。少年はシンの肩にしがみついて、小さな声で言った。
「兄ちゃん、地図の人?」
「そう呼ばれてる」
「俺、字が読めないから、絵の矢印だけ見て歩いてたんだ。入口の矢印がでっかくて、助かった」
入口の三歩の図。何日もかけて太くした、あの矢印だった。シンは歩みを少し緩めた。
「……役に立ってるなら、よかった」
背中の少年は安心したのか、そのまま眠ってしまった。
最後の隊員が森の入口を出たとき、空はまだ橙色だった。先頭の男が、ぽろりと涙を落とした。
「あんたらは命の恩人だ。うちの隊は、あんたらの地図でいつも無事だった。今回の誤誘導は、あんたらのせいじゃない」
その言葉が、シンの胸に刺さった。
***
夜、第八層の台所で、バルトが不機嫌そうに肉を噛んだ。
「あの野郎、逃がしたな」
「うん。悔しい」
「悔しいなら、追えばよかっただろ」
「順番を、間違えたくなかったんだ」
ダリウスが鍋の蓋を閉めながら、ふんと鼻を鳴らした。
「正しい順番だ。悔しいなら、次は先に網を張れ」
食後、ダリウスが机の上に、不格好な器具を置いた。金属の筒に反射板を組んだだけの、手作りの測り具だった。
「一枚ずつ使ったときの、呼吸と脈の揺れを読む筒だ。二枚いっぺんに載せる道具じゃねえ」
「同じ強さで、重圧と鏡晶を交互に使えばいいんですね」
「そうだ。揺れの大きいほうが、お前の体には重い」
シンは刀を握って、重圧と鏡晶を、交互に繰り返した。目盛りの跳ね方は、重圧のときだけ大きかった。フィオナが数字を書き写していく。
十回目の途中で、シンはこめかみを押さえた。
「どうした」
「ちょっと、頭が」
「ちょっとじゃねえ。顔が真っ青だ」
ダリウスが器具を取り上げた。反論しようとした足が、ふらついた。床がぐるりと回って、気づけばバルトの腕に支えられていた。
「言えよ。頭が痛いって」
「……ごめん」
「謝らなくていい。その代わり、今夜の夕食当番はお前だ。体を動かして、頭を休めろ」
台所で、シンは固まった。ダリウスの手際を見すぎて、自分の下手さが際立つようになっていたからだ。卵を割る。殻が入る。取る。また入る。
その夜の食卓には、焦げた卵焼きと、塩辛すぎる汁が並んだ。バルトは三杯おかわりし、ダリウスは顔をしかめ、ティナは「あったかいです」と言いながら涙目になった。フィオナは無言で、水を二杯飲んだ。
「……次は、もっと薄くする」
「次は、ダリウスさんを呼んでね」
翌朝、シンの枕元に、薄味の汁の椀が置かれていた。起きたとき、まだ温かかった。
台所の奥から、「うるせえ、冷めるぞ」と声が飛んだ。声の主は、顔を見せなかった。
椀を空にして出ていくと、フィオナが机に地図を広げていた。昨日の帰り道で、光った偽の矢印の位置に、赤い点が並んでいる。
「三つの分岐で、合わせて七か所。刷毛の幅も塗り方も、全部同じよ」
「一人の手、ということか」
「そう。でも、昨日光らせたのは、あの道だけ。ほかの層は、まだ誰も見ていないわ」
赤い点の外側には、広い白紙が残っていた。偽の矢印が、あの道にだけあるはずがなかった。




