第1話 出会いは偶然、必然に
見えても、反応してはいけない。
それが、僕こと間久部麗が十六年の人生で学んだ、最も基本的な処世術だった。
朝の駅前は、今日も大勢の人間で賑わっている。
眠そうな顔で改札へ吸い込まれていく会社員。友人同士で笑い合う学生。
開店準備に追われる店員。
信号が青に変われば、ひとつの巨大な生き物のように群衆が動き出す。
ごくありふれた朝の光景だ。
ただし、僕の目にだけ映るものを除けば。
会社員の背中には、首の異様に長い女がしがみついている。
学生たちの足元では、頭の潰れた少年が四つん這いで後を追っていた。
街路樹の枝から垂れ下がった無数の腕が、行き交う人々の髪を撫でている。
誰も振り返らない。
それでいい。
彼らに悪意があるとは限らなかった。
寂しいだけの者もいる。
自分が死んだことに気づいていない者もいる。
生きている人間の温度を懐かしみ、そばへ寄ってくるだけの者もいる。
だからこそ、厄介だった。
悪意ならば拒めばいい。害意ならば逃げればいい。
けれど、寂しいのだと訴えるものを無視するには、少しだけ心を殺さなくてはならない。
そして一度でも哀れんでしまえば、彼らはその小さな綻びを決して見逃さない。
目を合わせない。
声を聞かない。
存在を認めない。
死者は、生者に認識されることでこちら側とのつながりを得る。
まして僕の身体は、彼らにとってひどく居心地がいいらしい。
わずかでも隙を見せれば、指をかけ、爪を立て、僕という器の内側へ入り込もうとする。
昔は、助けを求める声に足を止めたこともあった。
その結果を思い出すと、今も左の脇腹が疼く。
だから、反応してはいけない。
「麗」
背後から、聞き覚えのある女の声がした。
「顔色が悪いわよ。大丈夫?」
ひどく自然な声だった。
心配する響きまで、記憶の中にあるものとよく似ていた。
昨夜から続く発熱で、判断が鈍っていたのだと思う。そうでなければ、僕がこんな初歩的な過ちを犯すはずがない。
「大丈夫です。少し寝不足なだけですので」
答えてから、気づいた。
今の僕を、そんな声で名前まで呼ぶ人間など、ここにはいない。
背後には誰もいなかった。
代わりに、足元から声がした。
『――やっと、答えた』
僕の影から、青白い女の顔が半分だけ突き出していた。裂けた唇が耳元までつり上がる。
『みいつけた』
駅前の景色が変わった。
それまで僕に関心を示さなかった死者たちが、一斉にこちらを向く。
長い首が軋みながらねじれた。
頭の潰れた少年が立ち上がる。
枝から垂れ下がっていた腕が、一本残らず僕を指した。
見つかった。
その事実を理解したとき、胸の内側が冷たく縮んだ。
恐怖はある。
ただ、それを認めると足まで止まりそうだった。
僕は走った。
人混みを縫い、路地へ入る。背後から幾重もの足音と笑い声が追いかけてきた。
相手が生きた人間であれば、十人や二十人に追われたところで逃げ切れただろう。
しかし、死者は疲れない。
壁を抜け、地面を這い、僕の進行方向へ先回りする。
人通りの多い場所へ戻れば、誰かを巻き込む。
助けを求めるという選択肢は、最初からなかった。
工事の止まった雑居ビルへ飛び込み、非常階段を駆け上がる。
三階の資材置き場へ転がり込んだところで、ようやく笑い声が遠ざかった。
壁に手をつき、呼吸を整える。
右腕が、勝手に動いた。
「……しまいましたね」
声に出すと、かえって冷静になれた。
僕の意思に反して、右手が床の角材をつかむ。
腕は肩口まで黒く変色し、皮膚の下を無数の虫のようなものが這い回っていた。
逃げることへ意識を奪われ、腕だけを乗っ取られたらしい。
右腕が角材の先端を僕の喉へ向ける。
左手で押さえ込むが、力が強い。
震える切っ先が、一寸ずつ皮膚へ近づいてきた。
『開けろ』
僕の右肩から、いくつもの声が聞こえる。
『お前は温かい』
『中へ入れろ』
『その身体を寄越せ』
哀願と脅迫の境目は、思っているより曖昧だ。
彼らはいつも、拒むこちらを悪人にする。
「お断りします。僕の身体ですので」
『では、壊してやる』
角材が喉へ触れた。
皮膚が薄く裂ける感触と同時に、白い閃光が右腕を打った。
指から角材が落ちる。
「不用心だな。見える者が、見えるものに返事をするとは」
声は低くも高くもなかった。
笑っているようにも、呆れているようにも聞こえる。
けれど、どちらにせよ僕を心配している声ではない。
薄暗い入口に、一人の人物が立っていた。
長身痩躯。
腰まで届く金色の髪。
右目は長い前髪に隠され、残った左目だけがこちらを見ている。
薄い色のロングコートをまとった姿に、武器らしいものは見当たらない。
作り物めいた美貌だった。
男とも女とも判別がつかないのではない。
どちらかに決めてしまうことを、見る側がためらう美しさだった。
整いすぎた輪郭も、血の気の薄い唇も、ひどく目を引く。
それなのに長く見つめていると、こちらの胸の内側まで覗かれているような居心地の悪さがあった。
人間であるはずなのに、人間ではないものより胡散臭い。
僕の右腕を支配していたものが、ひどく震えた。
『八神……』
声は僕の口から出た。
しかし、僕の言葉ではない。
『三つ剣の、八神……!』
「私を知っているのか。光栄だな」
八神と呼ばれた人物は、ゆっくりと唇を曲げた。
微笑みと呼ぶには温度がない。
怯えるものを前にした捕食者が、退屈しのぎを見つけた――そんな笑い方だった。
『来るな!』
黒いものが僕の右腕から噴き出した。
床へ流れ落ちたそれは、周囲の雑霊を次々に呑み込み、幾つもの顔と腕を持つ大男へ姿を変えていく。
八神は動かない。
逃げるどころか、壁へ軽く肩を預けた。
怪異もすぐには襲いかからなかった。
無数の目が、八神の腰、背中、コートの左右を忙しなく探っている。
僕も同じ場所を見た。
剣などない。
あの怪異が恐れているのは、八神本人ではなく、三つ剣と呼ばれた武器なのか。
やがて、一つの顔が笑った。
『ない』
別の顔も笑い始める。
『剣がない』
『三星を持っていない』
『剣のない八神なら、ただの人間だ』
恐怖が歓喜へ変わった。
『喰える』
『八神を喰えば、俺たちの名が上がる!』
「名が上がる、か」
八神は伏せていた瞼を持ち上げた。
「怪異も人間も、考えることは大して変わらないな」
声には憐れみすら滲んでいた。
その憐れみが、自分より遥かに下のものへ向ける種類のものだと気づいて、怪異の顔が歪む。
無数の腕が八神へ殺到した。
それでも八神は避けなかった。
右手をコートの内側へ滑り込ませる。
仕草は、誰かの耳元へ秘密を囁くときのように静かだった。
次の瞬間、薄暗い廃ビルを七色の光が貫いた。
目を灼くほどの光だったはずなのに、僕は視線を外せなかった。
八神の手には、細身の長剣が握られていた。
柄拵えは陽炎のように七色へ移ろい、刀身は夜明けの一条を凝縮したかのように白く輝いている。
あれほどの長剣を、どこに隠していたのか。
疑問が浮かんだときには、すべてが終わっていた。
『な――』
「誰が、持っていないと言った?」
剣閃は一度。
ただ、それだけだった。
怪異の巨体に細い光の筋が走る。
断たれた箇所から七色の炎が広がり、無数にあった顔が次々と光へ呑まれていく。
『――!』
「陽光覇剣。冥土の土産に持っていけ」
絶叫さえ残らなかった。
怪異は光の粒となり、朝日に溶ける露のように消えていった。
静寂が戻る。
八神は長剣をひと振りすると、再びコートの内側へ収めた。
刀身が布を押し上げることも、鞘の触れ合う音もない。
こちらの理解が追いつかないことを、彼は愉しんでいるように見えた。
「腕は?」
「動きます」
「そうか。では、料金の話をしよう」
僕の安否を確かめたのではなかったらしい。
八神は懐から手帳を取り出した。
白く長い指が紙面をなぞる。
先ほど怪異を消し去った人物と、目の前で数字を書き込んでいる人物が同じだとは、にわかには信じがたい。
「料金ですか?」
「命を救った。憑依を解いた。悪霊もまとめて処分した。三件分だが、初回割引を適用して、この額だ」
差し出された紙を見る。
無言で桁を数えた。
念のため、もう一度数えた。
「支払うつもりはありません」
「ほう?」
八神が一歩、近づいた。
金色の髪が肩から流れ、残された左目がわずかに細くなる。
間近で見ると、なおさら人間離れしていた。
香水ではない、冷えた香木のような匂いがする。
威圧されているわけではない。
それでも退けば、何かを譲り渡すことになる気がした。
僕はその場に立ったまま、言葉を続ける。
「僕はあなたに救助を依頼していません。料金の説明も受けていませんし、契約書へ署名もしていない。双方の合意が成立していない以上、あなたの自主的な行為です」
「命の恩人に対して、ずいぶんな言い草じゃないか」
「感謝はしています。請求へ応じるかどうかは別問題です」
八神は答えなかった。
ただ、僕の顔を見ていた。
沈黙が長い。
怒らせただろうかと考えた直後、自分がそう考えさせられていることに気づく。
この人物は、黙っているだけで相手に言葉を足させる。
僕は口を閉ざした。
先に笑ったのは八神だった。
「なるほど。確かに契約はしていないな」
「ご理解いただけて何よりです」
「ああ。よく理解した」
八神の指先が、請求書の端をゆっくりと撫でた。
「覚えておこう」
その笑みには、負けを認めた者の悔しさがなかった。
むしろ、僕がどのような檻なら自分から入るのか、それを知った者の笑みに見えた。
胸の奥に小さな棘が刺さった。
けれど僕は、それ以上考えなかった。
その時点では。




