防護巡洋艦音羽撃沈事件
時系列は...気にしないでください。
【防護巡洋艦音羽撃沈事件】
ドイツ帝国Uボートによる被害は広がり続け、大英帝国海軍は自国艦船の護衛ですら不足が発生する始末。この状況に同盟国大日本帝国海軍に支援を要請。これを承認した大日本帝国は地中海から太平洋に広がる広範囲での船団護衛を担当していた。
1917年11月30日、大日本帝国海軍第27船団護衛部隊(防護巡洋艦音羽、駆逐艦2隻)はオーストラリアからインドへ向かう輸送船9隻の船団護衛の任務に着くため、オーストラリア西岸フリーマントル港に入港しようとした。しかし、防護巡洋艦音羽に対しANZAC(英国オーストラリア・ニュージーランド軍団)は午後1時41分、3発の実弾を沿岸砲から発砲。最悪なことに内1発が艦後方に命中。運悪く喫水線下から貫通した砲弾は舵の制御回路を破壊し、大規模な浸水を発生させた。浸水した区画を閉鎖、適当な応急処置を行ったもの、一度開いた破口から流れ込む海水の圧力には耐えられず、浸水は深刻化。午後2時7分、艦の傾斜が27度を超えたところで艦長から総員退艦が発令、乗員312名は僚艦の駆逐艦に避難した。僚艦による曳航も考案されたが、沈没に巻き込まれる可能性大として却下された。総員退艦発令から約2時間後、午後3時58分に沈没。乗員312名中13名死亡。42名の重軽傷者が発生した。
友軍ANZACによる大日本帝国防護巡洋艦撃沈という事実は大日本帝国海軍、政府を激怒させた。これにおいて大日本帝国はオーストラリア(方面)船団の護衛任務を放棄。
オーストラリアで発生した事件を大日本帝国政府から通知された英国政府は驚愕した。当時オーストラリアでは強烈な人種差別によって日本人を蔑み下に見ていることは日英両国の共通認識であったものの、インド洋・太平洋における制海任務は大日本帝国が担当していることも事実であり、ここまでのコトが起こるとは予想していなかった。事態を理解した大英帝国政府はANZACを非難、人種を問わない連合国内の協力を要請した。しかしANZACは、正式な手順に大日本帝国海軍第27船団護衛部隊が従わなかったための発砲と白を切る始末。これには大英帝国も憤慨。しかし、オーストラリア大陸は資源の宝庫であり、資源の輸出入は既定路線であり大規模な船団移動は大英帝国に必須である。即ち船団護衛も必須であるが、ロイヤルネイビーにはその余力が無い。よって大日本帝国海軍に船団護衛を委任していたが、この事件で大日本帝国による支援は停止。万策尽きて護衛無しの輸送任務が敢行されたが、Uボートの餌にしかならなかった。
何故「奮戦記」なのに味方に撃沈されている幕から始まるのだろう。
第一次世界大戦を中心に執筆していく予定です。