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エロマンガ家先生

 それから数ヶ月後、漫画大賞が発表された。青年漫画部門の受賞作は、月刊ギリアスの「サウダージ」という漫画だった。


 北風が吹き付けてきて、窓をカタカタ揺らす。喫茶店にはジャズが流れている。カレンダーは十一月十二日。私がスケジュール帳を開いていたら、ドアべルの鳴る音が聞こえた。カツカツとヒールが鳴り響き、ふわりと香水の匂いが漂う。視線をあげると、徳川葵がこちらを見下ろしていた。


「お久しぶり」

「徳川さん」


 彼女は私の前に腰掛け、胡乱な表情で辺りを見回した。


「なに? この古臭い喫茶店」

「先輩編集者に教えてもらったんです」

「ああそう」


 葵は関心なさげに相槌を打ち、コーヒーを注文した。


「漫画大賞、ギリアスの作家さんが受賞してましたね。おめでとうございます」


 私の言葉に、葵が鼻を鳴らした。


「春海先生、結果聞いてなんて言ったと思う?」

「さあ……なんて言ったんです?」

「サウダージは面白いから、納得したですって」


 葵は吐き捨てるように言った。


「春海先生にはがっかりしたわ。漫画家としてハングリー精神がなさすぎる」

「でもユイチ先生の漫画、なんだか色気が増した気がします」


 私は、卓上にあるギリアスを見た。表紙は漫画大賞をとった『サウダージ』。その脇に、『あかりの音』のカットが載っている。エロマンガだけ描いていた頃より、ヒロインの魅力が増した気がする。


「きっと徳川さんのおかげですね」

「どうして」

「いえ、他に要因がないので」

「あなた、嫌味なの?」

「は?」

「付き合ってるんでしょ、ユイチ先生と」

「いえ」


 私がかぶりを振ると、葵がコーヒーを噴き出した。


「はあ!? どうして」

「付き合わなくていい、って言われましたし」


 葵はじっ、と私を見て、口を開いた。


「……春海先生に聞いたんです。『あかりの音』の灯には、モデルがいるのかって」

「はい」

「彼は別にいない、って答えたわ。けどあなたのこと『灯台さん』って呼んでるの聞いて確信した」


 葵はふてくされたように言う。


「私は漫画を通して、盛大に惚気られてたのよ」


 彼女はカバンから単行本を出して、私に突きつけた。


「『あかりの音』の最新刊よ」


 私はそれを受け取り、表紙に目を落とした。表紙いっぱいに、あかりの笑顔が描かれている。見えていないはずの瞳に、主人公の田尾が映り込んでいた。いい表紙だな。私は葵に微笑みかける。


「この作品が世に出たのは、あなたのおかげです」

「ええ。編集者としてあなたより下だなんて絶対思わないわ」

「そうですね。あ、これ」


 私は葵に名刺を差し出した。葵はうっとおしそうに手を振る。


「いらないわ。園芸雑誌だか囲碁雑誌だか知らないけど」

「私、フリー編集者になったんです」


 葵が目を瞬き、名刺を受け取った。


「……会社をやめたの? ユイチ先生と仕事するために?」


 その問いに、私は頷いた。彼女はしばらく沈黙したあと、


「大変よ」

「はい」

「ま、精々頑張って」


 彼女は私の肩を叩き、さっさと歩いて行った。すれ違うようにして、男性がやってくる。


「すいません、お待たせしました」

「いえ、今来たところです」


 私は『あかりの音』をしまい、打ち合わせを始めた。



 男性と別れた私は、喫茶店を出て、とあるビルに入って行った。以前「部屋貸します」と書かれていた看板はなくなっている。ビルにはエレベーターがないので、階段で上階へ上がった。表札に『西矢プロダクション』と書かれたドア前で立ち止まる。私は、声をあげながらドアを押し開けた。


「こんにちはー、西矢さん?」


 デスクで原稿を読んでいた西矢が、おう、まつり、と声を上げる。彼の向かいには、左門が座っていた。


「あ、左門先生」

「こんにちは。コミケに出す前に、西矢さんの意見を聞こうかなと思いまして」

「あのさあ、年の瀬は忙しいんだよ。わかるだろ?」


 西矢が眉をひそめる。左門が穏やかに相槌を打った。


「東京大賞典もありますしね」

「そうそう、今年最後のビッグレース……って違う」


 私と西矢は、数ヶ月前に会社をやめた。西矢に会社を辞める旨を話したら、彼はこう言ったのだ。


「奇遇だな。俺もやめるんだよ」

「はい?」

金瓶梅はどうするのだ、と尋ねたら、まあ媒体に拘らなくてもいいしな、と返ってきた。

「ちょうどあるんだよ、いい弾が」


 彼はニヤリと笑った。西矢のいう「弾」とは、レースの配当金のことだった。長年溜めたら結構な額になったらしい。そうして、出版社の下請けをする会社を立ち上げた。つくるのは主に「エロマンガ」である。

 南澤は家族がいるからと会社に残った。


「まあそれが妥当だわな」

「編集長と二人って、不安が募りますね」

「言っとくけどおまえはフリー編集だからな? 働いた分だけ金を払う。歩合制」


 西矢が扇子を突きつけてくる。


「わかってますよ。はい、これ原稿」

私は原稿を差し出した。彼はそれを受け取り、

「そういや遅れてんだよ、ユイチ大先生が。ちょっと見て来て」


 はい、と答えた私は、出入り口へと向かう。西矢はあっ、と声を上げ、扇子でこちらを示した。


「アレを忘れんなよ」

「わかってますよ」


 私が部屋を出ようとしたら、ガチャリとドアが開いた。


「ちーす、来々軒でーす」

入ってきた北野を見て、左門が目を瞬く。

「あれ? 北野さんですよね、編集部でバイトしてた」

「そうなんす。ラーメン屋でバイトしてるんすけど、校了前とかは助っ人になります」


 北野は笑顔で答え、私に目を向けた。


「あれ、東大寺さん。お出かけっすか」

「はい、ユイチ先生のところに」

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」


 私は北野に手を振り、編集部を出た。


 いつものように801号室へ向かい、カステラを手に室内へ入る。


「ユイチ先生、作業のほうはどうですか」


 ユイチは机に向かって作業していたが、私が近づいていくと、もう少しでできる、と返ってきた。


 私はカステラを袋から出して、室内を見渡す。


「あれ? 今日は修哉くんいないんですか」


 ユイチが頷いた。


「担当さんついたから、打ち合わせに行ってる」

「本当ですか!」


 よかった、と喜んでいたら、ユイチがじっとこちらを見ているのに気づく。


「どうかしました?」

「いや、べつに……」


私はカステラを切って、コーヒーを淹れた。作業を終えたユイチが、印刷した原稿を私に手渡す。私が原稿を読んでいたら、彼がボソッと口を開いた。


「俺のこと、好きって言ったけど」


 それってどういう意味? ユイチの問いかけに、私はきっぱり答えた。


「もちろん、男性として好きという意味です」

「……じゃあ、俺と、その、つ、付き合う?」

「ユイチ先生、仕事中ですから、この話はちょっと」


 そう言ったら、ユイチがしゅんとした。私は、ユイチの手をそっと握りしめた。


「夜にまた来ます」


 そう囁いたら、ユイチがぶわっと赤くなった。


 その夜、私は再びユイチの自宅に向かった。インターホンを押したら、すぐに扉が開いた。


「こんばんは」

「うん」


 ユイチはどうぞ、と私をうながした。私は室内に入り、カバンを置いてユイチとむきなおる。


「では、昼間の続きを」

私は咳払いし、ユイチに向かって頭を下げる。

「私でよろしければ、お付き合いしてください」

「う、ん」


ユイチが嬉しそうにはにかんだ。しかし、付き合うとは何をするんだったか。高校以来なのでよく覚えていない。そういえば、彼はよくキスをしたがったな……。


「キスでもしますか」

「え」

「したくないですか?」

「い、いや、する」


 ユイチがぎこちない仕草で私の肩に触れた。彼の顔が近づいてきて、吐息が唇に触れる。その一連の動きが、やけに長く感じた。──ちゅ。彼の唇が触れたのは、私の唇ではなく鼻先だった。私は思わず目を開く。


「あの、そこは鼻です」

「ごめん」


 ユイチが赤くなって、私の鼻を袖でこすった。


「もう一回、していい?」

「はい」


 ユイチの唇は、今度は唇の端に触れた。ええい、まどろっこしい。私はユイチの襟首をぐい、と掴んだ。そのまま、彼の唇を奪う。ユイチがびくりと肩を揺らした。色白の首筋がだんだん赤くなっていき、長い睫毛が震えた。なにこれ。私よりも、ユイチ先生の方がずっと可憐なんだけど。私は唇を離し、


「すいません、つい」

「……」


 ユイチは唇を手のひらで覆い、呟いた。


「……慣れてるんだ、灯台さん」


 拗ねたような目でこちらを見る。


「いや、全然ですが。というか先生が不慣れすぎ……」


 私の言葉に、ユイチがあからさまに傷ついた顔をする。あ、しまった。つい本当のことを言ってしまった。


「い、いや、今のはですね」

「もういい」


 ユイチはぷい、とそっぽを向いた。私は彼を宥めようとして、あっ、と声を上げる。


「えっ、なに」

「今日、歴史悲話ヒストリカルがやるんです! 確か真田十勇士のひとり、猿飛佐助の特集でした。見てもいいですか?」


 部屋の隅にあるテレビをつけて、その前に正座する。突っ立ったままのユイチが尋ねてきた。


「……灯台さん、俺と幸村、どっちが好き?」

「幸村さまです!」

「……だと思った」


 彼がうなだれる。あ、しまった。つい反射的に。


「えーと、比べられませんからね、幸村さまとは。ほら、死んでるし!」

「はいはい」


 ユイチはデスクへ向かい、デジタルペンを手にパソコン画面に向かう。ヘッドホンから流れ出る音が、シャカシャカと聞こえていた。私は小さな声で言う。


「……漫画描いてる先生が、世界で一番好きですよ」


 彼は何も言わなかったが、いつもは白い肌が、首筋まで真っ赤になっていた。


 エロマンガ家先生。/end

ご愛読ありがとうございました。

登場人物↓

■東大寺まつり(26)

T大出の歴女。歴史雑誌が休刊になり、エロマンガの編集者に。漫画には興味がない。好みのタイプは真田幸村。

■市川祐一(23)

ペンネームはユイチ。エロ漫画家。万年迷彩のつなぎを着ている。春海ゆうという名で少年漫画を描いていたが、あるきっかけで引きこもりになる。

■西矢(35)

「月刊金瓶梅」編集長。競馬大好き。

■南澤(30)

影がうすい先輩。既婚者。

■北野(20)

チャラいバイト。

◼️徳川葵(23)

月刊ギリアス編集者。ユイチに気があるらしい。

◼️久田

月刊ユーリアン編集。過去にユイチと確執がある。

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