0(ゼロ)
小さな村にて、村長夫妻の片割れが亡くなった。
葬式はしめやかに、しかし村の最大の規模でおこなわれた。参列者は数多く幅広く、中には遥々都から田舎の村へと足を運んだ高名な貴人、この辺りでは見かけない名士なども見受けられた。それほど生前は顔が広く、個人的交流も多い故人であった。式のさなかは縁戚にあらずとも花を手向けようとする者らが数日に渡って列を為した。
それほど死を惜しまれ、広く慕われていた長であった。代々の領主と渡り合う外交能力、貧村の過疎化を食い止め特産を売り出す慧眼、潤した財政と絶妙な分配、村内での揉め事も公平に裁断。戦乱から太平、経済の在り方が変わっていく激動の時代にてこの村が生き残れたのは、この女村長あってこそと言っていい。小さな集落での小さな統率であったが、ゆえに采配は隅々まで行き渡っており、周囲の集落や大きな町と衝突することも無く、村はその長の代で盤石に維持された。
彼女は、若い頃に隣国から夫と共に移住してきたという。道理でそこらで見ないような綺麗なばあさまだったよ、と村人は口々に言う。晩年であっても、それとわかる美しさと気品を纏った女性であった。なんでも、隣国では地元名士の一人娘であったらしい。ただ、肝心のその隣国の縁者からはなんの音沙汰も無い。まあ、隣国自体数十年前の戦乱で国力を使い果たした感があり、周囲の国に徐々に吸収されつつあるというのが現状だ。
彼女は子供がいなかった。従って、この国での血縁者はいない。
唯一の身内である夫は、静かに賑わった葬式で喪主を務めた後――静かに姿を消した。
光り輝く存在感と才覚を発揮した妻と違い、なんとも地味で、これといった特技も業績も無かった男。若い頃は腕の立つ衛兵として活躍したらしいが、それも戦乱の世でのことだ。太平の世において戦士とは、埋もれていくもの。
しかし村人は言う。「あれほど仲の良いご夫婦はいなかった」。そこに容姿の無意味な比較や嫉妬の侮蔑など見当たらない。そして彼が姿を消した際も、驚きと共に広がったのは妙な納得感だった。
まるでこのことを予期していたかのように、故人は長の引継ぎを別の者に済ませていた。ゆえに、混乱はすぐ収まり、小さな村は小さな村の秩序を取り戻していく。
時は光陰。
村の歴史に名を残した村長夫妻だが、彼らの思い出話、この村に来た経緯などを語る者はもはや、誰も居ない。
唯一語れる者は―――どこにいるのか、わからない。
彼にとって、人間と触れ合う理由は人界のどこにも無かったからだ。
彼女が死んでからは、永遠に。
● ● ●
瘴気と常闇の界、魔界。
暗紫色の雲と赤黒がかった空、おうとつとした地平とを繋ぐよう、時折光が走る。紫や白だけでなく黒や赤も混じるそれは、人界における雷と似て非なるものだ。色彩を反転させたかのような、それに留まらない「何か」別のものを混ぜたような。
ここには精霊族は存在しない。霊的なものは消滅せしめる瘴気の濃さ、そんな場所で生存を許されているのは純粋な魔族と魔族化した動物、そして人界より移住してきた一握りの人間のみと言っていい。なお、その人間らも瘴気の影響で半分以上魔族化しているものが大多数なのだが。
ここでは、弱者は強者に食われ糧となるさだめだ。強者は弱者を食い更に強くなる。同族同士だとしてもそれは例外ではない。強ければ勝ち、弱ければ負ける。そしてそれが、ごく単純な正義だ。
魑魅魍魎とした魔の生き物が蠢き、ひしめき合いながら生きている弱肉強食の世界、それが魔の界。
人界に比べればなんと光少なく、なんと単純で、なんて解りやすい世界だろうか。
「……どうしてリュシーは、戻ってこなかったのかな」
その中で、一人の少年悪魔はぽつりと呟いた。
幼いその横顔は緑色の返り血にまみれている。小さな手には切り落とされた魔族の片腕。鉤爪がついたそれは、びく、びく、と打ち震えていたが徐々にその動きを少なくしていく。足元に転がったものも同様に。
「……魔界の方が、食事も楽なのに」
小さな手がその握力を強めると、握られていたものはさあっと崩れるように砂化し消えていった。まるで水分を空気に抜き取られたかのように。同時に、彼の頬に付いた返り血も溶け消えていく。まるで皮膚に沁み込んでゆくように。
「……人界の方が、色々メンドいのに」
小さな赤い唇は、不貞腐れたように独り言を紡ぐ。人間の血よりも明るく、光を当てた紅玉よりは暗い色の瞳が足元を見やった。
強き魔族の視線を当てられた弱き魔族は、それだけで「食われ」ていく。音も無く。悲鳴すら発さず。そう、これが本来の彼らの「食事」であった。
「……なのに、どうしてかな」
一度言葉を切った時、足元の遺骸は既に跡形も無かった。
少年悪魔は一人きりの食事を終えたあと、もう一度空を見上げた。太陽と呼べるものは無く、見渡す限り同じ色。人界の空のように昼と夜とで光の量が変わることも無い。歩き続けようとそれは同じだ。場所が変われど、魔界は魔界。それゆえに簡単に完結することが出来る。
空は暗くとも、昏くはない。魔界で生きる魔族は、おのれが独りであることを解っているからだ。意図して群れず単独で生きているものは、単独ゆえの責任と覚悟を身にまとう。糧を得るのも自分、力及ばず強者の糧となるのも自分。魔族の生まれ方は一往でなく、人界の生き物のように「胎」から産まれた者であっても、世に出でた瞬間からは既に「魔族」である。人間のような親子関係血縁関係などあってないようなものだ。自然、情やなんやらといったものは「遊び」の範疇でしかない。
しかし。
「それがつまんなかったのかなあ。リュシー、なんだかんだで人界好きだったし……」
そういうことなら、わかる気がした。なぜって、自分も人間や人間の文化を気に入っている変わり者悪魔だからだ。人間に混じって「遊ぶ」ことは他の悪魔より格段に多い。特にキーリカは、命を奪わずとも「食事」が出来る希少な種だから。
悪魔の中でも、契約を交わした人間と友誼を保ったり気まぐれで寿命が尽きるまで「遊ぶ」ことを選ぶ者は割りかし多い。なんのことはない、家畜に愛着が湧くのと同じ理由だ。
「……でも、リュシーはあの子から糧を得たいわけじゃなかったんだよね」
食事対象でないものに本気で執着するなんて、その中でも相当に変わり種だと思うが。
ふ、と赤い唇から微笑むように息を漏らし、少年悪魔は――キーリカは歩き始めた。
結局魔界に戻らず、人界にて行方知れずとなった知り合い。人間風に言うなら「友人」と言ってもよかったかもしれない年上の悪魔。
あれから、彼がどうなったのかはキーリカも知らない。しかし、最後に逢ったあの様子から、なんとなく想像はつく。
「……いいなあ」
寿命が千年とも言われる悪魔族において、ひとときでも執着出来るものが見つかるというのは、ある意味羨望対象だ。「契約者」の自由主義的観点からすると賛否両論であろうが、キーリカ個人としては大いにありだと思う。正直に、羨ましい。
そして、妬ましい。
「……普通に考えて、僕の方が出逢い多そうなのに。まあ、人間に入れ込み過ぎる馬鹿な真似はしないけど。でも、たまには本気で遊んでもいいよね。愉しそう」
赤い唇から、更に赤い舌が覗いた。にやり、と浮かぶ笑みには見た目にそぐわぬ艶が宿っている。
「……ちょっと菓子でも食べてこようかな」
悪魔の亜種――淫魔の血を引く「誘惑者」。それがキーリカの別の顔である。
そしてまた音無く人界への扉を開いた彼は、まだ己の未来をはっきりと識らない。
人間に特別に執着するなど考えていなかった自分もまた、一人の人間に恋し、かつての友人と同じく、人界で一生を終えることを。
遊びは時に、身を破滅させるのである。悪魔にとっては、幸せな破滅であるようだが。
悪魔の悪戯 完