泥人形が見た夢 1
夜になれば王都は静寂に包まれる。区と区の間に点在する酒場こそ賑わいを見せるが、度を越えて騒ごうものならば衛兵にしょっ引かれても文句は言えない。主神アイリスは人間種に対して寛容であれど、酒と騒ぎは好みでなかった。
ヴァリスナード邸の様子はといえば、少し前まで騒がしい会食が行われていたところ。アイリス教徒である屋敷の主は不在、使用人を除けば異なる神の信奉者ばかりだ。ヴァリスナードそのものが敬虔なアイリス信奉者ではないことに加え、そもそも精霊などという存在は人間の理を鑑みることもない。常識をやや上回る程度、ルファイド神が喜ぶくらいには賑やかであった。
不快さはないが賑やか過ぎた食事、それが済めば時間にしては早くともみな寝所へ向かった。大邸宅からは火が消され、ようやくアイリスの意向に従うようにして静寂は迎え入れられた。
「……え、えぇ」
静まった屋敷に、遠慮勝ちながら情けない声が吸い込まれる。長い手でノブを引くが、うんともすんとも言わない。使用人を呼び出そうにも、そもそもこの扉にはノッカーすら付いていないではないか。
若い女ならともかく、儂に会いたいならそれなりの手順を踏ませることに決めた――大英雄のわがままにより、屋敷は突然の来訪者に厳しい形になっていた。そんなことは、この幸薄そうな男では知る由もない。
「何で、どうしてぇ」
コーディーの心はもう酷く萎えたものへ変わっていた。主であるネギの勇者と別行動にはなったが、先程までは最高潮に気分が良かった筈だ。
街中であの暁の勇者に片膝をつかせたのだ。宝石剣こそ抜いていなかったが、無手なのはお互い変わらない。不法に商売をしようとしていたことを青鎧の騎士、ジュラスにこってりと絞られて帰りが遅くなっても気分は晴れやかだった。
「ようやく、俺の伝説が幕を開けたんじゃなかったのかよぅ」
長い手足を放り出し、扉へしな垂れかかってコーディーは呻く。ネギの勇者、その従者であることが認められているにも関わらず長時間の拘束となってしまった。結局は暁の勇者ガッシュの口聞きで解放された訳であるが、そこで思いもよらない言葉を彼は受けていた。
君は剣士なのだろう? ジオグラフ殿さえよければ、私からヴァリスナード様に鍛えてもらえないか進言したいのだが――ゴロツキ上がりの彼は、まさか勇者の中の勇者にこんなことを言われる日が来るなど夢にも思わない。道すがら珍しく綺麗なお姉さんに声をかけられても、それには目にも暮れずにスキップで屋敷へ帰還していた。
「ガッシュ、ヴァリスナードって言やぁ、そこらのガキでも知ってる大英雄じゃねぇか。旦那のコネでなくそんな人らと繋がりを持てるとか、喜んでもらえると思ったのによぉ……」
超メジャーな英雄に認められることは勿論嬉しい。だがそれ以上に主が喜んでくれるのではないか、拾ってもらった恩を少しでも返せるのではないかと思っていた。そのような気持ちで足取り軽くしてみれば、結果はこの様だ。
「あークソ、やっぱりこの世はクソだ」
ここ一番で上手くいかない。己の不遇さを思い返し、世間へ呪詛を吐きながらコーディーは立ち上がった。生真面目なネギの勇者の元で表世界の教養も身につけつつあるものの、こんな時ばかりは昔からの態度に戻ってしまう。
世の中のみんなが幸せに見えて妬ましい。自分の主も口ではお堅いことを言っているが、可愛い女の子たちを侍らせてよろしくやってるに違いない……。邪な想いに駆られ、ガッシュを前にしても抜かなかった剣に手がかけられた。
「やっぱり旦那も、旦那も俺のことなんて!」
曲剣を引いて力任せに振り下ろす。怒りに煮え滾り、頭の中は白く塗り潰される。力ならある、ネギの勇者などという規格外と一緒に鍛えた力だ。
しかし扉へと触れる寸でのところで、彼は手を止めた。
「ダメだぞコーディー! お前の売りは器用さなんだ、力任せに剣を振るなんてしてはいけない! ……旦那なら、そう言ってくれるか」
はあぁ、と長く溜め息が吐かれて剣は元の位置へ戻された。手は怒りから震えるも、ポケットに放り込んでしまえばなんとか誤魔化されていた。
(まったく、気が長くなったもんだ)
ジオがするように、頭を掻きながら心内で呟く。誰も彼もが己への扱いが悪いのは今に始まったことではなかった。手先口先の器用さから重宝されるが、大舞台ではポカをやらかす。その後は悪い扱いから厄介者扱いへと変わる――それが彼の常であった。
きちんと師事すれば伸びる、そう言われたところで師になってくれる者はいなかった。性質の悪いゴロツキを性格の悪い従者にまで育ててくれたのは、他でもないジオグラフィカエルヴァドスという少年なのだ。
「はー……、どっか窓でも開いてないかいね」
文句を溢しながら、とぼとぼと歩き出す。爆発は堪えたが、自分はまだまだだとコーディーはげんなりした様子でもいた。
「我慢するから、褒めてくんねぇかなぁ」
不平を漏らさないあの少年勇者に憧れてしまった。こんな自分でも真っ当に生きられるかもしれないと夢が見られた。主に向ける念は感謝でありたいとながら、コーディーは苦笑してみせる。
数か月前までならいざ知らず、すっかりとコーディーもネギ色に染められていることが可笑しくてならなかった。
「おや、あれはお嬢ちゃん、か?」
バカでかい屋敷の周囲を回る中、ふと疑問の声が漏れた。屋敷でも奥まった位置、その窓に少女の姿が映っている。
不思議に思うのも無理はない。灯りはもう消されているのに、遠くからでもマリィが居るとわかる程にその部屋は明るかった。橙色の灯りに照らされた彼女は、髪色もいつもの灰色には見えず、どこかコーディーの知らない人のように見えた。
「やっぱりマリィ嬢ちゃんじゃないか。おい、もう夜だぞ」
歩くにつれ、目にした人物は主の妹分だとしっかり認識出来た。ただ、不穏なことに橙色の光に導かれるようにして窓から小さな体を乗り出してみせる。余程大事だったのか、光を放つ球体を抱え込み、片手で不器用にものそのそと這う形になっていた。
「だーもう、こんなとこ見たら止めないと、俺が旦那に怒られちまう。おーい、聞いてるか?」
目の前の光景に、さっきまで沸いていた怒りは何処かへ吹き飛んでいた。普段なら女の子にモテるために動く彼だが、今はそんな意識もなくマリィを心配して動く。窓枠を越えた際、片手ではバランスが取れなかった様子で、地面に落ちていた。
コーディーが心配に駆け寄るまでに、ギギギという音でも聞こえそうな、不出来な人形のような動きで身を起こす。立ち上がった少女は、手元の光に邪魔をされて顔が見えないがどうやら自分を見たらしいと手足の長い男は察した。
「……誰?」
「やー、いつもの冗談ってわかってても、案外キツいんすよ?」
眩さに目を細めながら、男は近づいていく。どうせすぐに花咲く笑顔を見せてもらえるのだと、軽口混じりに答えているが、次第にコーディーの表情は険しいものへと変わった。
「……誰?」
繰り返し、言葉が出された。これまでも時折、直前のやり取りを無視するような姿はあった。それも彼女の記憶喪失に由来しているのだとばかり思っていた。
直感から、今度は冷静に曲刀へ手を伸ばす。眩い光の向こう、同じく橙色の瞳をした少女の顔を見てコーディーはぞっとしてしまう。
「そりゃあこっちの台詞だろう。アンタ、誰だ?」
全くの無表情。まるで人形のような顔をした彼女を、マリィとはとても思えない。
「お兄ちゃんのところへ行くの」
邪魔しないで。無機質な声音に反応し、橙色のオーブが一際強い光を放った。
少しばかり肌寒さを覚え、ティアは目を開けた。つい最近夏になったばかりだと思っていたが、夏ももう終わりなのだと微睡んだ頭で何とはなしに思う。
「ふあ……、ああ直にエルの誕生日じゃな。前祝いにもならんが、マリィのことをちっとは真剣に調べてやるか」
欠伸をしつつ、布団から這い出す。寝起き早々、昨晩にあった記憶喪失を戻す魔法のことを口にした。そんな都合のいい魔法はないが、可愛い幼馴染が言うのだから何とかしてやりたいとは思う。
朝からティアの頭の中には魔女らしさと少女らしさが混在していた。日頃魔女を気取る彼女をじっと見つめるような気配を感じられ、訝し気に眉が顰められる。
「何じゃ、相変わらずけったいな目つきをしとるのぅ」
身を起こせば、化粧台の鏡に映った目つきの悪い幼女が彼女を睨んでいた。まだ寝惚けているのか、ナチュラルに悪態が吐かれる。
「ヌシなぁ、性格が悪いのは仕方ないとしてだ。もうちっと愛想よくしてみたらどうじゃ? エルの好みはわからんがの、女は愛嬌じゃそうな」
ほれほれ笑ってみせいと、ティアは口角を持ち上げた。鏡に映る幼女も合わせてニッコリと微笑み返すので、彼女は満足そうに一つ頷いた。
こんな姿は誰にも見せられぬと思っていた矢先、バタンと乱暴な音がティアの借りた部屋に響く――ノックもなしに扉を開いた手、その緑色の篭手は厭という程の見覚えがあった。にっこりとした笑顔から、頬を精霊の瞳程に赤く染めて盛大に瞳を泳がす。
「のわああああぁぁっ!?」
「マリィを見なかったか!」
驚きから仰け反り、ネグリジェ姿であったことを思い出してすぐに身を折るティア。鏡に向かって笑いかける己の痴態やら、肌を見られた羞恥やらで混乱した魔女は条件反射的に何の工夫もない魔力の塊を闖入者へと打ち込んでいた。
左手に篭手はつけられているものの、上半身は何も纏っておらず諸にダメージを受けていた。
「ぐぉ、痛いぞティア」
「……着替えるまで、待て。よいな」
「そんなことよりも、俺は急いでいるんだ! マリィが、コーディーが――」
「本当は顔を洗って、櫛を通したいんだぞ? ノックせなんだことも不問にして、私は待てと言った」
シーツを掴み、魔女はベッドより這い出した。彼が可愛い幼馴染なのは間違いないが、何でもありではない。むしろ、一番見られたくない場面を目にされて魔女は気が立っていた。その様子を知ってか知らずか、ジオは焦った様子で言葉を続ける。
「不問? 俺、思いっきり魔法喰らったんだが……」
「ヌシ、死んでみるか? 安心せい、きちんと生き返らせてやるからな。何、死と蘇生を二、三度繰り返す頃には私の機嫌も戻るだろうよ」
いつもの倍は早口で言葉が紡がれる。感情が綯い交ぜになった状態で、肌には白い紋様が浮かべば余剰魔力により髪は跳ね上がり、ついでに部屋の備品の幾つかが壊れた。
「ああ、お前寝起きじゃないか。すまんかったな」
足元へ飛んで来る無色透明の魔力、それを片足を上げてジオは躱す。ティアが裸に近い恰好であったことに気づけば、むち打ちになることも厭わず首を上へと向けた。
「着替えると言ったろうが!」
出て行けという叫びと共に、紫色の魔法が炸裂して少年は吹き飛ばされた。
「で、朝っぱらからなんじゃ……」
着替えを終えたが、髪はまだハネているものもある状態でティアは不機嫌そうに促す。目の前の少年勇者もシャツを着ていた。
「この間は温泉に誘ってきた癖に」
「なんぞ言うたか?」
「……なんでもない。ノックもせずに女の寝屋に駆け込んだことは、悪かったと思っている」
ギロリと視線に射貫かれ、ジオは続けられた筈の言葉を呑み込んだ。胸を押し付けて来たこともあったのに、何故こんなにも不機嫌なのかは少年にはわからない。やましい気もなかったのだからと問い質したい気もあったが、今はそれどころではなかった。
「ティア、マリィだ。マリィが見当たらない。お前、知らないか?」
「知らんよ――と、言いたいが。何やら逼迫した状況のようじゃな。話してみぃ」
ベッドに腰を下ろした魔女は、足を組んで更に言葉を促した。慌てて駆け込んで来たジオは少々の腹立ちもあったが、それは無視して今の状況を語る。
「成る程のぅ。いつもの修練にと外へ出たら、コーディーのブロンズ像に出くわした。ほんで見回りをしたらマリィはおらんし、爺の部屋からオーブが消えておったか……。大事じゃな」
ふぅむ、と腕まで組んでティアは天を仰ぎ見た。態度とは裏腹に、魔女の内面は静かだ。危惧していたことが起こってしまったかと、残念に思いはするが意外でもなんでもない。
ただ、目の前のエル少年が焦り苛立つ様がこの少女にとっては問題であった。
「エル、刻印の魔法は使ったんか?」
「やろうとしたが、ダメだ。気が荒れて使いこなせない」
「……そうか。なら、姉を頼れ。私よりも余程現状をなんとか出来ようものぞ。私はあの幸薄いのを見てくる。いいか?」
テキパキと指示を出すティアに、ジオは頷くしかなかった。
庭へとティアが出ると、そこには苦悶の表情を浮かべて固まる幸薄そうな男の姿があった。
「なーるほどのぅ」
手にしてきた杖で軽く叩くと、硬質な音が響く。これを聞けば、魔女の立場としてはしばらくは放っておいていいかと思える。
表面だけを銅でコーティングされていたならば、問題であった。呼吸困難の上に窒息、最悪の事態も想像出来たが、幸薄そうな男は外見も中身も全てブロンズに代えられている。杖で叩いた時の音からしてもわかっていたが、分析系の魔法からも状態異常を受けていることは確かだ。
「煩いやつじゃが、こいつが静か過ぎてもエルが哀しむか。なんとも面倒じゃのぅ」
面倒なことこの上ない。分析の結果、コーディーは魔法にかけられていることが判明した。この状態異常は呪いと呼ぶべきもので、しかも神魔法の癖が見られている。人の手で戻すには骨が折れるとの判断だ。
「ロジェクト神を呼ぶか。あの神に責任を取るって言葉があればいいんじゃが――誰ぞ?」
顎元に置かれた手を払い、背後に現れた人物へ緊張を高める。ジオであれば問題ないが、彼女は幼馴染が近づいたならばこうも神経を尖らせることもない。
突き付けた杖、その先に黄土色の鎧を見れば、少女は思わず呻いた。
「リア、僕です。出来れば武器は下げて欲しい」
両手こそ上げているが、そこに居る青年は事も無げに挨拶をしてくる。名を呼ばれた少女が顰めっ面をしたのは、手を上げたところでいつでもこの勇者は腰に帯びた剣を引き抜ける自身を持っている点だ。
「ウィゴッドか。爺にでも用向きか? 残念ながら爺は今はおらんぞ」
世間からすれば爽やかな青年へ、ティアはぞんざいな返事をしてみせる。平素ならば別にして、ネギの勇者が荒れかけている今は余計な面倒事は御免被る。大した用件でもないなら帰って欲しい――それは偽らざる本音であった。
「ティアティアー、刻印使ったけど切断されちったー」
「切断? ヌシ程の魔力を以ってしてもか?」
助けに船。現れた精霊が告げる言葉が、事態の緊急性を語っている。マリィという少女が造形の神の製作物であるという勘は外れたが、あながち外れたものではないように思えていた。
ついでに、ガッシュの言葉を遮られたのは僥倖であった。
「シャロから聴いたか? 会話は出来なくとも場所は刻印でわかったから、俺は出る」
「あーもう、このタイミングでか」
お前も来るか、と続けるジオを見てティアは頭を抱えた。彼女の予測通りであれば――
「ジオグラフ殿、彼女を借りて行くぞ……。断りも必要ないと思うが、筋だけは通しておきたくてな」
「……何?」
二人の勇者が殺伐とした遣り取りをしたことは、ティアの予想の範囲内であった。抱えた頭から手を離し、少女はジオの外套へと手を伸ばす。
「やめぃ。相手はこの国――人類種の勇者じゃ……。そう渋い顔をするな。ヌシが勝てる勝てないじゃのうて、態々訪ねて来たんじゃから用件くらいは聴いた方がいいじゃろ?」
「ティアが、そういうなら」
幼馴染の懇願を受け入れ、ジオは不承不承頷いた。逸る気持ちを抑えるために、右の裸拳を握り締めれば強すぎる力から痛みを覚えて暴れずに済みそうに思えた。
「わかったか、ウィゴッド。今は逼迫しておる。こいつの妹分がいなくなったんじゃから察してやれい」
用件が済んだら手伝うから、そのようにティアは続けようとしたが、暁の勇者からは有無を言わせぬ迫力で言葉が吐き出された。
「僕――否、私の用向きはそれになるか。本来はあの手足の長い男について話に来たつもりだが、暁の勇者として告げる。君たちはこの一件から手を引け」
「なんじゃと?」
猛るネギの勇者、その外套を強く引きながらティアは代弁した。妹が行方不明になったことに黙っていろと言われて、黙る奴がどこにいるのか。
「キミもいい加減気づいていたろう、あの少女は普通じゃない。そこに来て、人間へ危害を示したんだ。これはもう、キミたちの案件ではなく、私のものだ」
「ウィゴッド!」
「怒鳴らないでくれ。繰り返しになるが、リアもあれが泥人形か何かだとわかっている筈だ。灰色の髪に橙色の瞳、ロジェクト神絡みだろう? そこのコーディーとかいう青年に犠牲まで出したんだ。後は、暁の勇者の仕事だとわかってくれ」
涼やかな碧眼を水色に代えながら、勇者である青年は説く。その瞳に篭る熱は普段の軟派な姿からはかけ離れて勇者然としていた。
「わからねぇな」
「待て、エル!」
口を挟める者がいるとすれば、それはガッシュと同じ土俵に立つ勇者のみ。ジオは拳を固めることはしなかったが、いつでも飛び出し兼ねない勢いで踊り出る。止めにかかったティアも咄嗟のことに、つい外套から手を離してしまっていた。
先日の遊びのような力比べの時から一転。二人の勇者の間で火花が飛び散る。
「引け、エル。ウィゴッドはバカに違いないが、あやつの言うことに非はない。あれは人類種の未来を考えて――」
「黙ってろ!」
ついに拳を握り締め、ジオは一歩を踏み出した。こうしている間に、妹がどうにかなれば、彼は自分を幾ら責めても足りない。後悔だけはしたくないと、人類最高峰の勇者に向かって睨みを利かせた。
ただ、頭が煮え滾るままにするのはいけないとわかったらしく、遅ればせながら幼馴染の魔女へと首だけで振り返った。
「怒鳴ってすまない。だけどな、あれは人類種の勇者なんだろ? これから起こる、もう起こっているかもしれねぇものの問題解決なら任せられるかもしれねぇ……、けどな、けどよな。アイツに任せて、マリィを泥人形呼ばわりする野郎に任せてよ、俺の妹は無事に帰ってくるのかよ!」
「――わかった。ヌシの好きにせぇ」
「恩に着る」
短いやり取りながら、ティアは観念した。
ウィゴッドが人類を護る勇者であるのと同様、エル少年もまた誰かを護ろうとする勇者なのだ。格上との闘いを止めようとしたものの、暁の勇者であればネギの勇者など、それこそ格の違いから造作もなく倒してくれる――そんな打算もあった。
「初めに謝っておく」
「ウィゴッド、何故じゃ!」
紫の瞳を見開き、少女は叫んだ。
視線のその先には信じられない絵が映し出されている。まさかこの黄土色の勇者が宝石剣を引き抜くとは思いもしなかった。
「本気のジオグラフ殿を相手に、手加減などは出来ない。腕の一本ももらえば、流石に止まるだろ?」
「やめ、やめよ! エルはいつだって本気……、かようなことじゃない。暁の勇者なら大したこともなく、エルを止められるじゃろう!」
胸の奥に滲み出した厭な想いを一旦は堰き止め、ティアは叫ぶ。シンボルを抜けば、それはもう洒落では済ませられない。心配する少女を余所に、背中側の少年勇者も篭手から溢れる緑色に身を包んでいく。
グルルと、獣が如き唸り声が続いた。
本来はここまでではない。まだ冑にも包まれていないというのに、瞳の色を黒にしたまま、ジオは人語を忘れる程に狂人化を受け入れていた。その幼馴染を背に、少女は自身が人から怯えられる魔女という身分を忘れて慄いた。
「それが闘神の加護か。来い! 来ぬなら私から征くぞ」
「――――っ!」
お互いに魔力も動員し、全力を滾らせての睨み合いがそこにあった。共に信奉する神がただ一人ずつ選んだ勇者だ。本気を出せばティアにも容易には止められたものではない。
いっそのこと、この屋敷ごと木っ端微塵にして止めようか。最後の判断を魔女が下そうかというところで、険のない声がヴァリスナード邸の庭に響いた。最早、この場に勇者を止められる人物はいない。
「よーし、いいぞジオ。サリーさんに目に物見せてやれぃ」
純白のローブを纏った人外が、紅の瞳を輝かせて弟分へと声を発していた。二人の勇者はそちらをみやるが、まだ動きはない。
「シャーロット、ヌシ――」
ティアが出した言葉を合図に、皮肉にも火蓋は切られた。
「しぇあああっ!」
剣も触れ合わない距離から、ガッシュは素早く獲物を振るう。それに合わせて瞳と同じ淡い水色に包まれた魔力の塊が飛び出した。
魔法の詠唱を伴わない魔力の放出。単純ながら強力な力は、並みの魔物であれば十分に仕留められる。
「――――――っ!!」
だが、彼が止めようとしたものは並みの魔物ではない。勇者――そう呼んでよいかも憚られる。並みではない魔物のような風貌、全身を緑色の鎧に包んだジオは攻撃を物ともせず、人語にならない言葉を吐きながら突進する。
頭まですっぽりと緑に包まれた勇者にして人外、緑色鬼が猛威を振るう。
「ちぃっ!」
先の一撃をまともに受けて突っ込んで来る。この時点ではガッシュの打つ手は目減りした。これ以上は殺さねば止められない。地面に突き立てられた右の節くれだった拳を見送り、暁の勇者は後ろへと飛び出していた。
大地へヒビ入れる一撃を前に、黄土色の勇者は腹を決めて目の前の鬼を睨む。シンボルである宝石剣の力を解き放つため、一つ呼吸を深く吐いた。
「やめよ、やめるんじゃエル!」
少女の叫びが庭に響くが、それでも緑色鬼は止まらない。引き抜いた拳を振りかぶり、届けられる水色の連撃を左手で受けながら猛進する。
丸みを帯びた左手はさながら盾の様相を得ているが、擦り抜けるようにして鬼の身を斬り裂いた。
「エル! やめておくれ! ああウィゴット、止まれ、退いてくれ!」
流石は暁の勇者とでも言うべきか、攻め手に欠いたように見えたものの、中距離から繰り出される連撃はネギの勇者の身体に確かに届いている。朝の澄んだ空気を塗り替え、鬼から赤が舞えば一帯は途端に湿り気を帯びてみせた。
咽返り兼ねない空気の中、暁の勇者は口を開く。
「無茶を言うなリア。私がこの場で引いたところで、どうなる。この男は、この場で沈め切る」
無情な言葉、そのようにティアには響いた。傷つくジオを止めようと足を踏み込もうとするも、いつの間にか伸びてきた植物に絡み取られて動くこともままならない。ならば魔法をぶつけて――とは思わなかった。ジオともシャロともわからないが、邪魔をするなと言っているのだ。
幼馴染同士が本気で争い始めれば、まだ十八の少女はどうすればよいか迷いに迷う。募る想いがある分、ジオのダメージを気にしているが、その実、制止をかけられたガッシュの方こそ余裕がない表情を見てしまえば何ともし難い想いに駆られた。
今はジオの拳が空を切っているが、冑の瞳と思しき位置、二つのひび割れた穴からは諦める様子もなく、滾滾と緑色の光が漏れ出す。それは涙を流す程の怒りを爆発させる鬼が如き姿であった。
「――――っ!」
人語を放棄して、ジオは吼える。
人を殺してはなりませんぞ――育て親の想いを忘れてはいない。だが、経験も実力も勝る勇者を前に、余裕などはまるでなかった。己惚れていたつもりもなかったが、勇者となってから負けを知らなかった彼は強き人物を前に感情を爆発させる。
(ダメかも、しれない)
拳を振りながら、ジオは弱音を心の中で吐く。
これまで多くの魔物を屠った拳が、まるで届かない。先日の殴り合いでは肉薄していた筈の相手がまるで遠いのだ。
耐久性では勝っていると思っている相手でも、苦手な中距離を取られて緑色鬼は苛立ちの咆哮を上げた。長距離から広域魔法を放てばよかったかと、後悔の念が一瞬もたげたが、すぐに判断に間違いはなかったと改める。
(じっちゃん家の使用人を巻き込んでか? そうじゃないだろ!)
加えて、広域魔法ともなれば精霊の力を借りることになる。目の前の男には、勇者として勝たねばならぬ――ではなく、あの子の兄として負けることは出来ない。
マリィが人間ではないかもしれない。それは言われてみれば、鈍いジオにもわかった。だが、否、だからこそ泥人形としてしかマリィを見ていない男には負けられない。
咆える声も、振るう拳も届かないが、ジオは狂人化に任せて暴れ狂う。
「力を貸せ、宝石剣」
幾ら斬り裂いても止まらぬ鬼へ、業を煮やしたガッシュは呟きながら剣へ魔力を注ぎ込む。
「はっはーん。本気だな、勇者っぽいの」
口調はいつものようにふざけている。しかし、ネギの勇者を導く精霊は表情を鋭いものへと変えた。これが魔物との闘いであれば、既に飛び出していた――それが出来ないのは、弟が最後の最後まで人間として意地を張っているからであった。
足を落ち着け、ぶつぶつと呟くカラシ色の鎧を着た勇者。そこへ性懲りもなく、緑色の鎧に包まれた勇者が襲いかかる。
「止まれ、ガッシュ! それは流石に私闘の域を越えておる!」
魔物をあっさりと屠るネギの勇者の拳が繰り出されるも、ティアはガッシュへ止まれと言った。暁の勇者が持てる魔力、その全てが迸る様を直観してしまった末に出された言葉だ。
「星断つ剣!」
声は少女が出したものの後から追いついた。
迫った拳よりも早く振り抜かれるこの剣は、アイリスの勇者に託された必勝の一撃を生み出す。先の王都を襲った竜人、竜へと向けられた力をガッシュは眼前にある人類種への脅威へと解き放った。
「い、いやああぁ!」
放たれた水色の光を前に、ティアは魔女らしさを忘れて叫び狂う。この光は強過ぎる。文字通り、この星すら断てる一筋の光だ。それが真横に放たれてはこうもなる。
眼前の人類種の敵を薙ぎ払う――否、消し飛ばす光の奔流を前に、少女は近しき人たちがエル少年諸共に蒸発することを恐れた。本来、人類種へ肩入れする主神が最後の術として残した武器だ。物理的ではなく、魔法的に脅威を取り除く猛威が振り抜かれてしまった。
「る、るお、ぉぉぉおお!?」
拳が届く間近でそれを受けたネギの勇者は、人語に幾分か近づいた言を発しながらまともにそれを受けた。
一人を倒すために細く穿たれた――とはいえ、人間一人分の横幅に収束された――魔力の塊に、ない筈の口元からは赤色の液体が噴き出す。吐き出されたものについていくようにして、緑の金属は剥がれて消えていく。
(こいつ、止められない!?)
狂人化の作用を受けながら、ジオはどこか他人事のようにその場面を見た。私情から闘いが始まったものの、気づけばその被害は大きくなろうとしていた。
これは、己の青さから始まった争いであった。だから他人を、背後にあるヴァリスナードの屋敷に住まう人を巻き込んではならないと思う。
「ぐ、ぐがが……」
打ち放たれた光を、鎧が剥がれて緑色鬼としての体を保てなくなりながら、ジオは抱くようにして漏らさず己に受け止めた。
「バカな!?」
目の前の男が取った行動が奇怪過ぎて、思わずガッシュは振り抜いたままの宝石剣を緩めてしまった。相手はネギの勇者を名乗る青臭い生き物だ。神話でも謳われている無限に湧く泥人形、その猛威を思えばこそ、彼は護るべき人類種へアイリスの剣を振るった。
「やめてくれ、エルが、エルが死んでしまう」
「――リア」
何故なのか、さっぱりとわからない。父も母もアイリス神への加護を放り出し、勇者を継ごうとはしなかった。寧ろ、ガッシュが勇者になることへ猛反対すらしていた。
それを押し切って彼は勇者となった。それは、人々が魔物に怯えることなく過ごせる世界を護るため、その筈だった。
(では、何故?)
何故、眼前にいる少女は涙を溢しているのだろうか。勇者になることを求められず、さりとて誰よりも勇者としての才能溢れた青年は、ここで初めて身の内に迷いを生んだ。
これ以上は何も生まない、既にネギの勇者へは致死量のダメージを与えている。それを確信して、ガッシュは神造剣から力を抜いた。
「……私は、僕は」
膝を突き崩れかかる緑の鬼を目に、勇者は内へ混乱を招く。最初は望まれぬ形であった。だが、活躍を繰り返す度に押しも押されぬ勇者へ上り詰めた筈――ならば、どうして泣く人がいる。
人間種の敵は魔物だけではない。大戦を治めた結果、今や魔物以外が人類種の脅威ではないのか。神殿に蓋をされている泥人形へなど関わりを持たない方がいい。緑の鎧を保てなくなった少年勇者へは、憎悪にも近い感情が沸き立つことを止められない。
その考えは、人類種を護る勇者としては正しい。ただ、彼は勇者としてあろうとしたために、誰かを護ろうと思うことはなかった。背後にいる幾ばくかの人を守ろうと、神造剣の全力を前に身を放り出す存在があることに気づくことはなかった。
正しい振る舞いを取った末に、苦悩が待つなどは思いも寄らない。まして、相手は自分勝手な自称勇者だった。その一人が死んだところで、そう思っても彼の想い人は枯れんばかりに涙を流し続けている。
こんなものを見るために、彼は勇者になったのではなかった。最愛の人が――己を個人として振る舞うままにしてくれた女性が、何故こんな敗北者へ涙するのかが、全く以ってガッシュには理解出来ない。
勇者として力比べをした時は、経験が勝り己が勝った。本気のやり取りともなれば、彼からは一撃ももらってはいない。勝ちを確信しながら、どこまでも疑心に満ちた想いを、後味の悪い勝利を得ていた。
「いいぞ。やっちゃいな……、ジオ」
あどけない少女の姿をした人外は、あっけらかんと告げる。決着がつこうが何が決しようが、人の理なぞ知ったことかと、精霊はのたまう。何をバカなとその場に居合わせた者は思った。
だが、それはあくまでも精霊以外の人間の視点で見たものであった。
「――――――――っ!!」
闘神の加護を出しつくし、鎧すら剥がれ落ちた少年が咆えた。普段は黒色の瞳を、文字通り目の色を変えて利き手を振りかぶる。
「そうか、キミってやつは――」
一撃でゴブリンの頭程度は粉砕する拳、それが暁の勇者の顔面へと突き立った。
余力から考えても、ただの一撃も受けていなかったガッシュには十二分に避けられたに違いない。回避をしなかったのは何故だろうか? ティアが端から見守っていた精霊に尋ねても「見守っていた魔女がその勝ちを望んだからだろうな。そうなんじゃないのか?」などと訳のわからない言葉が返ってくる程度であった。
護るべき人を潰しかねない――否、殺すに余りある拳を振るった少年は、勇者に勝利した余韻を味わうこともなく妹が赴いたであろう方角へと走り出した。
「あーあー、やっぱりうちの弟はキカンボウだねぇ」
面倒なことこの上ない。言葉の限りではそのように読み取る他ない。
傷ついた弟を追いかけたい気持ちが溢れる。だが、この場にもその弟の望みが残っていたために追うことは出来なかった。逃げることをしなかったジオにならってか、渾身の一撃を無防備にもらった暁の勇者へ緑色の癒しを届けた。姉代わりの精霊は少々不満ながらも、嬉しそうに頬を持ち上げてみせる。
彼女の視線の先には、ボロボロになった弟へと寄り添う魔女の姿があった。




