看板娘と大英雄
夜は静かながらも賑わう。王都は都合三つに区分されているが、その区分けを縫うようにして小さなコミュニティが幾つか点在していた。
現国王は静寂を歓迎したが、騒がしいものを否定しない。主神アイリスは博愛の神であり、諍いを起こさないのであれば、他の神への信仰も許容する。枢機卿という立場であれば、レジーム王も神に倣ってみせる。
主神を除く神々は無類の酒好きとして伝えられているので、区の間では酒場が幾つも設けられた。尤も、酒類を提供する店にはそれなりの騒動がつきものだ。王は信頼のおける者へ、巡回部隊の編成を命じていた。
「やだー、もう」
掠れたハスキーボイスが商業区と居住区、その堺目にある一軒の酒場で響く。
低くとも愛嬌に満ち満ちた声だ。それを聴けば、つまらぬ巡回任務中の兵士もご機嫌よろしく木製のコップを空にした――提供される酒の品質を確認するため、そのような名目ではあるが、再度注文されたものは一杯目から変わらずにエールだ。
肩から胸元にかけて、大きく開いた服を着た女が、注文を告げるために立ち上がった。栗色の髪に黄色がかった茶系統の瞳をしており、手足はスラリと長い。長いスカートのスリットからも覗く肌ツヤは良く、艶やかさの中にも健康さが見受けられた。
歩けば太腿の辺りに客からの視線がべたべたと纏わりつく。だが、それを気にしているようでは看板娘は務まらない。何せ二十代半ばに見える彼女、スペランツァはかれこれ十年はこうして働いている。成人前は五つも年齢のサバを呼んで働き始めたものの、今では永遠の二十歳と嘯いているのもご愛敬だ。
彼女が歩く先、店の奥では注文を受けたエールを渋い顔で注ぐ女性が居た。看板娘に比べると露出は幾らか減るが、色気は十分。年齢のことはこの店では禁句だが、鼻筋の通った端整な顔立ちをしている。ややふくよかであるが、昔は大層な美人であっただろうと想像に難くない――昔の話は、やはり禁句であるのだが。
「スペランツァ、早めに上がっていいからね。今日のは、何だかねぇ……」
このような場所で店を構えれば、兵士が立ち寄ることは日常茶飯事。ついでに難癖をつけられることもままあるが、本日のお客は性質が悪かった。男の酒を飲むペースは異常に早く、入店間もないというのにもう三杯目である。席を立った看板娘を据わった目で追いかけていることが、不安に拍車をかける。
「見映えするのはいいけど、その分苦労もあるから。私もお譲ちゃんだった頃はね……」
エールを手渡しながら、女主人であるリザリィが心配気な声を上げる。スペランツァは男のあしらい方が上手な方だと、彼女もよく心得ている。しかしここ最近、この看板娘がどこか疲れた表情を浮かべる頻度が増えてきていることも確かに認めていた。
「ありがと、リザさん」
にっこりとほほ笑んで、看板娘は話を打ち切った。小声であるので客には聞こえていないだろうが、あまり待たせて苛立たせてしまうのも事だ。遅いぞ姉ちゃん――そのように言う兵の元へ酒を置き、カウンターに戻る。
「それで、さっきの話だけど、流石に嘘でしょう?」
「嘘なもんか、俺こそが彼の大英雄、ヴァリスナード様の秘蔵っ子よ。秘蔵過ぎて表に出てないだけだ」
口早に語った後、男はしゃっくりを一つする。まだしっかり喋っているようだが、確実に酔いは回っている様子だった。
「そうだなんだ、すごーい」
ぱちぱちと手を叩きながら、スペランツァは呑気そうな笑みを浮かべた。巡回を任じられている時点で、この男が大した責任も与えられていないことはわかる。背中を丸めて威張り散らす姿には、小者感があふれ出している。この手合いには、顔はいいけど無知な女であると示す方が楽であった。
そもそも当の秘蔵っ子と言えば、金髪の女騎士か緑の少年勇者だと彼女は聞かされている。話題に上った大英雄は神も驚く程の酒好きであるが、仕事中に飲むようなことはしない――任務中に飲んでいる時点で、スペランツァには男の嘘が見抜かれていた。
「そうだ、俺はすごいんだ」
「うんうん、そうだね。あ――まだ酔ってないと思うけど、大事なお仕事の途中だよね。兵隊さんが怒られちゃって、もう来てもらえなくなると、うちとしても困るからー」
お帰りはあちらだとは言わないが、やんわりと退室を求める。店のコンセプト的には安酒で粘られることも問題はないが、他のお客が兵を気にして注文を躊躇している。商売上がったりは、御遠慮願いたいと思うところだ。
「大丈夫大丈夫、俺は大英雄の秘蔵っ子だって言ったろ? ほれ、姉ちゃんも飲めよ」
ぐいっとコップを持ち上げて、男はおかわりを要求していた。視線は真っ直ぐ看板娘の胸元へ。これが王都の兵でなければ、すぐに頬でも張っているところだ――お前は乳と会話してるのか? そこまで言葉が出かかったが、ぐっと呑み込んでスペランツァは奥へ引っ込もうとした。
「兵隊さん、困りますよ?」
表情は無知な看板娘のままであるが、その声には強張りがあった。男に腕を掴まれてはそうもなる。
「はいはい、お待たせしたね。ホラ、座って座って」
リザリィが二人分のコップを持って現れる。これで最後にしてくれればと思うが、兵は掴んだ手を離さない。むしろスペランツァを引き寄せようと力を籠めていた。酔いの回る男はカウンターに足を引っかけ、姿勢も崩す。
「この後もお仕事があるんだから。ね? まずは座ろうね」
身体が傾いだことで、篭手が肌に食い込む。だが彼女は努めて冷静に声を上げた。
兵相手に揉め事はご法度であるが――いざとなれば胸元のネックレス、その魔導器で助けを呼ぶことも出来る……忙しい老英雄を呼ぶのは、あくまでも最終手段だ。それでも、自分を見てくれる人が居ると思えば、まだまだ看板娘らしい笑顔を浮かべるくらいは出来た。
「俺は、酔っぱらってな――」
赤ら顔の色を更に濃くした男だが、最後まで台詞は続けられなかった。衝動的に空いた手を振り被ったものの、それが他の者に捕まれてはどうすることも出来ない。
「酔っぱらっていないと言うなら、店員に迷惑をかけるな。座れ」
外套に身を包んだ男が、兵の腕を止めていた。無精髭のあるこの人物は、テーブル席に大きな革袋を立てかけている。風体を見ても、このような店で酒を飲んでいることからしても、旅人らしいことが窺える。
突き出された腕は、兵の篭手と比べても遜色ない太さを示している。そこに込められる力は強く、兵を黙らせるには十分過ぎた。
「わーったよ、姉ちゃんの言うこと聞いて、仕事に戻ってやるよ!」
代金をカウンターに叩きつけ、酔いどれ兵士は去っていった。素直に出て行ったようだが、最後の抵抗とばかりに木製の扉は叩きつけるように強く閉められた。
旅人の男は、首をコキリと鳴らす。手つかずのコップ一つを握っては、元居たテーブルへと戻る。身を翻す際に、カウンターにはエール二杯分の代金を置いていた。
「へぇ、男だねぇ」
感心したように女主人は声を上げた。スペランツァを助けた際の手並みは、無骨な見た目からは想像もつかないスマートなものであった。
「リザさん、感心してる場合じゃないでしょ……あのっ!」
残ったもう一つのコップを握り、スペランツァはテーブルへ走り寄った。その様子に、男は視線の位置は自分のコップへ向けたまま、眉を少しだけ動かした。
「構わん。丁度、おかわりをもらおうと思っていたところだ」
「いえ、そういう訳には……」
告げる旅人が無関心であったとしても、看板娘の立場では、はいそうですかと言う訳にはいかない。
人の間に立つのがこの商売に求められる技能だ。十年も働く彼女としては、一見さんに気を遣わせたままでは終われない。
「なら、乾杯だけしていってくれ」
言葉少なく、盃が持ち上げられる。
「ごちそうになります」
遠慮なくと、木製のコップを控えめに打ち付けた。ここまでされては、逆に断る方が無礼というもの。厭な人間は居たものの、本日もスペランツァはお客に助けられながら仕事を全うした。
ただ初めて会った旅人に、どこか懐かしさを覚えたことが不思議でならなかった。
「あー、もう、疲れた」
宿のベッドに身を放り投げ、スペランツァは酔いに任せて心情を吐露する。酒に弱い訳でもないが、エールは安くとも度数が高い。常連から振る舞われるそれに、閉店まで付き合っていれば足取りもおぼつかなくなってしまう。
「何なのよ、あの兵士はー……」
働く女を一体何だと思っているのか。価格も抑えた良心的な酒場――それがリザリィの店であるが、中には別のサービスを期待した下心満載の男がやってくることもある――大体は気のいい酔っ払いだが、今日の兵のように権威を振り翳す人間がいることも確かだ。
王都暮らしと言えども、民のほとんどは肉体労働従事者である。中立地帯前に構えられた駐屯地と王都、その中間に広がる貴族の耕作地で働く者や、王国の兵として守りにつく者が一般とされている。
商売人は人口のごく一部であり、多くの働く者からは“額に汗をしない職種”と揶揄されてもいる。スペランツァのような水商売ともなれば、はっきりと蔑視の瞳を向ける人間が多い。
「もう辞め――る訳にはいかないんだけども」
枕に顔を埋めて弱気を呑み込んでみせるも、ここのところ泥のような想いが胸にこびり付いて離れない。
スペランツァは仕事に貴賤はないという考え方の持ち主だ。彼女を育てた人が語ったものの中で、まともに信じられる数少ない名言であったと思う。水商売が悪い訳ではないと、酔いの回った頭に言い聞かせる。
お客には気のいいオッサンも多い。自身を顧みても、王都での暮らしは華やかさの分だけ苦労がある。酒に逃げても構わない。明日のために僅かな夜の時間を精一杯に楽しむ、それは恩人であるリザリィの信条でもあるし、その考えには彼女も大いに同意している。
(気のいいおじさんは、大好きだ。でも見苦しい中年は厭だなぁ)
けふっ、と胃の底から漏れる空気の音が寝具に吸い込まれた。ここには誰もいないし、礼は失していないだろうとも思う。労働の後なのだから、多少の生活音は勘弁して欲しいところだ。
よろしくないのは、酒の飲み方を知らない癖に、それを他人に悟られることを恥だと思い込んでいることだ。傲慢さは罪ではない。己の中にある傲慢さを認められず、酒の力を借りて女をバカにする――礼も恥も知らぬ輩が時折いるのだ。
ごく一部だとはわかっているが、その一部が殊更にきつく強調されて厭になる。そんな時は、決まって仕事を辞めたくなる。この悩みは自身の生まれに由来するものであり、“そんなものは笑い飛ばしてしまえばいい”と庇護してくれる彼は言ってくれるが、どうしても己が人間の差別対象であることが拭い切れない。
「あーやだやだ。お風呂、もういいかな」
入らねばと思うが、次の夕刻までに身支度を整えていれば十分。そう思えば睡魔に屈してしまう。ここまの考えは、ノックの音に中断されることになった。
「はーい……」
放っておきたいところであるが、こんな時間帯にノックをする人物は一人しか居ない。他の誰でもない、その人物を彼女は待っていた。
「よう。元気にして、ないな。飯食ってるか?」
「全然」
現れたのはこの国で知らぬ者はいない大英雄。トレードマークの黒鎧の代わりに、黒髪のカツラが身に着けられていた。まるで似合っていない姿に変な笑いが漏れた。
スペランツァは寝転がる姿勢を正していたが、出された声は身内にかけるようなものであった。
「何だ、随分と酒臭いなぁ」
「……仕事終わりなんです。わかってるでしょ? 今度、おじさまの仕事終わりに汗臭いって言ってあげましょうか?」
「すまなんだ。詫びるから、臭いと言うのはやめてくれ」
困惑する老人の様を見て、くすくすと笑う。これは、本人が加齢臭を気にしていることをよく知っているからである。なかなか辛辣な返答であったが、これも放っておけば愚痴ばかり出すお客の対応で磨かれたものだ。
「まぁ、お前さんの生存確認が出来て良か――おい、この手はなんだ?」
「臭いって言うから」
上目遣いにスペランツァは男を見た。
掠れていながらも、しおらしい声が響く。ヴァリスナードが忙しいことは当然承知しているが、本当に顔を出すだけで終わるとも思っていない。多少の時間は作って訪ねて来るのが常であるし、彼女もそれを期待している。
「言うから、何だ?」
「……わかってて言ってるんでしょ。英雄ってのは、まぁ酷いものね」
自分がそんなタイプではないとは自覚しているが、思わず彼女は頬を膨らませてしまった。女の口からこれ以上語るのは恥というか、癪である。スペランツァは黙って英雄の手を引いて風呂場へ向かった。溜まった泥も、お湯と一緒に流れてくれないかと期待する。
もっと言えば、泥が流れなくとも構わないかとすら思えた。久々の逢瀬に期待が溢れる。
簡易なベットに二人して横になっている。こうすることも久しぶりで、疲れた表情をした女の横顔に大柄な老人は愛しさを覚える。
「近頃はどうだ? 前から言ってるが、いっそのこと、儂の屋敷に来ればもう少し暮らし向きも楽になるだろうに」
欠伸を噛み殺して、ヴァリスナードは問うた。自身が歳をとったと自覚しては、心配の言葉も出るものだ。今ある酷い眠気は、体力と魔力の自然回復に遅れがあることの現れ。それでも英雄の――否、男としての面目を保つため、スペランツァを気遣ってみせた。
彼女の栗色の髪は長く、手で梳くとサラリとした感触が得られる。指先は水気に触れる仕事柄傷みもあるが、長い手足はやはり美しい。成長の早かった彼女の実年齢は、見た目よりも若い。この大人びた人物がまだ二十歳であるという事実に、英雄は今更ながら驚きを覚えていた。
「急に何ですか?」
「いや、あのチビスケが随分と大きくなった――違うな。美しくなったと思ってな」
眉根を寄せ、女は訝しがる。本気で心配してくれているのはわかるが、似合わぬカツラを触るのはやめて欲しい。せめて照れずに言ってくれないかと、少女のような想いが過れば嘆息を一つ吐いた。
「全く、こういう事の後ばかり褒めて……褒められるのも心配されるも嬉しいですけど、たまの優しさってどうかなー、だから女に刺されるのよ――ううん、違う。そういう事が言いたいんじゃなくて……私は今のままでいいんです。おじさまのお屋敷に行ったら、本当に妾みたいになるじゃない」
すっかり少女の心境で、スペランツァは再び頬を膨らませ、肌に無数の傷を浮かべる男を睨み据えた。好色で通るヴァリスナードは頭の傷以外は、怒れる女に刻まれたという噂が囁かれている。だがそれも、自分勝手な人たちが吹聴するものだ。彼の頭の傷の由来を知っていたら、とてもではないが口に出来た筈もない。
傷のことはともかくとして、この男はわかって女に言葉を向けている分、性質が悪い。庇護下においてくれことはありがたいが、父との約束があるために人の間で精一杯働いていきたい――それが彼女の飾らぬ想いであった。
「私は父が望んだとおり、人の間で生きていくんです……それが何だって思われるかもだけど。目一杯、人の間で働いて暮らしていけたら、それって人間みたいでしょ?」
「――っ」
率直な言葉に、思わず英雄と称される男は息を呑んだ。いつまでも小さなお嬢さんかと思っていたが、それは間違いだということに今更ながら気づいてしまった。ならば、彼は大戦終結にかかわった人間として語らずにいられない。
「竜人は高い身体能力と魔力を除けば、碌な料理が作れないくらいでだな。そのほとんどが儂らと変わらんだろ。スペランツァ程になるとだな――」
「“混血”って、はっきり言ってくれた方がスッキリするんですけど?」
腕の中で、女が目を鋭くする気配が伝わってくる。機嫌を悪くさせることは本意ではないが、避けては通れないかとヴァリスナードは観念した。
「お前さんが心配なんだよ……」
彼女がそうしたように、英雄は飾らず口にした。
つい先日、レティアの町で若い男の死体が上がった。西部から出稼ぎに来ていたところ、不運な事故に巻き込まれたとするのが書類上の結論だ。だが、密偵を放っているヴァリスナード以外には気づくまい。死んだ人物は、竜人と人間の混血児であった。
『竜人も気兼ねなく住まえる国にしたい』
かつての友がそう言った――その願いは密かであるが、今も確かに大英雄の胸にも掲げられている。恐らくは、残りの人生をかけても達成しきれないものであることが口惜しい。
人間種の偏見と思い込み、そして異なる文化への恐怖はとても根深いものだ。自身の中にもその暗い感情を認めた上で、ヴァリスナードは竜人と人間の混血児であるスペランツァの未来を憂いて止まない。
彼女は人でも竜人でもない。一体、誰がこの愛おしい娘を護ってくれるのであろうか?
『ヴァリス……魔物の脅威に今も晒されているのだぞ、何故に人同士でこうも争わねばならぬのだ。他人種とはそれ程までの脅威なのか? 俺は、ジオールを見ていると哀しくてならないよ』
彼女を見ていると、真面目過ぎる友の言葉を思い出してしまう。誰にも語る気はないが、あの苦悩に満ちた表情がハッキリ言って嫌いだった。だが大戦終結時にもなると、人とそれ以外に揺れ動かされ続けた彼の相貌が尊く思えて仕方ない。
大戦時、魔物を統率していたものは知性のある魔物であった。会話は出来たとしても文化が異なり過ぎれば、意思疎通は愚か、感情交流すら難しい。より状況を複雑にしたのは、その知性ある魔物と結託して戦乱を拡大させた者が、人間であったということだ。
「おじさま?」
「んあぁ、つまらん事を言った。歳を喰うといかんな……お前は好きに生きろよ? プレッシャーをかけるつもりはないが、そう在るお前が、儂は好きだ」
掛け値なしに、英雄はそう思う。裸身に刻まれた無数の傷たち、それは今も疼く。であるが、それもこの娘や友の忘れ形見が生きる世界を護った証だ。
せめても友好的な竜人とは争いたくない――傷つき続けた友の願いは、そのまま今も傷つき続ける大英雄の願いである。今ならば、スペランツァが居る今ならば、謳われることのなかった勇者の想いを理解出来る。
竜人に向ける想いは、スペランツァだけが理由ではない。三代目ネギの勇者を思えば、彼を護れるのであれば、人間の世界を全て敵に回しても構わないとすら思うし、キンジョーの娘を思えば憤怒に駆られる。
それでも、どうして竜人を護ろうとするのかと人から問われれば、どう答えるか? そんなものは、腕の中で微笑む女が居る――それだけで十分に過ぎる。
(さて、明日は一体どうなるか……)
竜人を巡っては、きな臭いことがここのところ起こっている。人間が何かと画策することは、魔物との大戦時とさして変わらない。慣れたものではあるが、それがヴァリスナードには気掛かりでならない。
「おじさま? ちょっと、聞いてるの?」
「ん、ああ……」
大英雄の想いは何であれ、久々に出会ったにも関わらず心ここに在らず。であれば、一緒に過ごす女には多少不快に思うことも止められない。
「何よ、気のない返事ね」
思わず酒を手にしてボヤいてしまう。こうなると大英雄が困り出すことはよくわかっていたが、たまにのことなので罰も当たらないかと思ってしまう。
「少々考え事をしていてな」
などとだけ返されれば、それはもう彼女の逆鱗に触れた――何を考えていてもいい、何に悩んでいるかを自分に話して欲しいのだが、それは今日も叶わない。愛おしく思われていることはわかる。それは嬉しいが、想いだけであれば自分の方がずっと貴方を想っている。
その自負は、若い女のへそを曲げるには十分であった。
「あっそ、もういい。一人で飲み直す!」
シーツを身体に巻きつけて、スペランツァは立ち上がった。
男が折れてくるような打算もなく感情的に動いた。だが、結果はいつものように老年に達した英雄が機嫌取りを始めることになる。言い訳をすることなく、自分だけを見てくれる……少々ズルい気がしないでもないが、人間の女もこうして男を手玉に取るのだとリザリィから教えられたのだから、使わねば損だ。
手にした酒を、代わりにヴァリスナードが飲み干していた。実は彼女の酔いはとっくに醒めていたが、まだまだ夢見心地では居られる気がする。
「先生、いるんでしょ! さっきから何度ノックをし、た……と?」
二人にとって大切な時間も、一言で破られた。現れた金髪の女性の表情がみるみるうちに変わっていく。
思わずスペランツァは駆け出していた。前々から、ジュラスなる女騎士の存在は聞かされていたし、それに驚く必要はない。騎士の前に突き出されると厄介であるが、必ず愛する男が守ってくれると信じている。
前々からの手筈どおり、女はヴァリスナードが時間を稼ぐ隙に外へと飛び出していた。
「スペランツァ、すまなかったな……いや、ジュラスのやつも悪くはないんだ。ただ、真面目過ぎてだな――」
つるりとした頭を掻きながら、ヴァリスナードは宿の外へ一糸纏わぬ姿で身を翻す。逃げろとは言ったものの、一旦建物の間に身を置くだけ。確かに、そのように伝えあっていた。
しかし、彼女の姿はない。
「何処だ、スペランツァ! 何処にいる!?」
声が空しく路地に響くのみ。その狼狽した姿は、英雄には相応しくない。ただ一人の脆弱な人間のようであった。
世間の評判など知ったことか――大英雄という名誉ある呼び名も、愛すべき人々を護ろうとした末に与えられた結果に過ぎない。名声にこだわらない彼は、愛する女性の姿が見受けられず、半狂乱になって叫んだ。
ここから遠くない町では、混血種の遺体が上がったばかりである。明日の竜人との会合を前に、不安は現実となって彼の前へ形を成し始める。
「スペランツァーーっ!!」
英雄と呼ばれた男の、悲痛な叫びが木霊した。
『パパ、ごめんね……ママを、守れなかったよ』
小さな者、何よりも大切な者が最後に残した言葉が脳に蘇る。
命が手から毀れ落ちて行く感覚は、何度味わっても慣れる気がしない。
誰かが――否、愛する者が死ぬることなどもう真っ平御免だ。それを二度と味わいたくないから、彼は英雄になったのだ。自身の姿を顧みることなく、国一番の英雄は一心不乱に姿を消した娘へ叫び続けた。




