勇者の子どもとして
また、獣のなきごえが聞こえる。
この声が聞こえる度に、母が泣いていたことを思い出してしまう。父は立派な勇者だったらしいが、こんな声を上げる生き物がそうであるなどは、とても信じられたものではなかった。
父のことはさておき、自分も立派な勇者とやらを目指した時期があった――確か、幼い頃に母から聞かされた英雄譚に憧れたのだと思う。だが、憧れに近づくために人を救おうとすると、あの獣のなきごえが聞こえるのだ。過去に勇者であった尊大な獣は、今では獣らしく人を喰い散らかして生きている。
力がない者は主義主張を唱えることも出来ない。私だけではない、母もそうだった。あの弱い女は、一体何に泣いていたのか? 恐ろしい父か、それに喰われてしまった私か、それとも一人息子を守ることも出来ない母自身か。
勇者の息子として生まれたから、ただそれだけの理由で勇者になった――ただし、それはあくまでも父が理想とする勇者像だった。喰われてはたまらないから、父に逆らえる程の力を得るまでは尻尾を丸めて、大人しく言うことを聞いていた。
私にも立派な勇者になって欲しいと、母が言っていた。
勇者が何なのかはよくわからない。それでも懸命にそれを目指した。自分は、泣いてばかりいる彼女こそを守りたかったのだ。力が得られるまでは、父の傀儡にでも何にでもなる。その程度の覚悟はあった。しかし、その父を越えたと確信する頃には、母は家を棄てていた。
父へ反抗する理由もなくし、ただひたすら教え込まれた勇者像に沿って生きてきた。今更修正が利くものではない。
それが正しいかどうかではない。正直に言えば、老いさばらえた筈の父が怖いのだ。わんわんワンワンと喚くだけの醜い生き物であるのに、怖くて堪らない。
この手で首を撥ねてやったにも関わらず――否、実像を失ったからこそ、子どもの頃に受けた暴力を、脳が鮮明に映し出す。
空想の産物である筈のそいつは、今もずっと吠え続けている。そう、痛みに泣きわめく子どものような、耳をつんざく雑音を響せ続けている。
嗚呼、五月蠅くて堪らない。
なきごえは私に“負けてはならない”と訴えかける。そう、負けてはならないのだ。ここで敗北を喫すれば、あの獣がやって来る。母を、私を泣かせる、あの獣がやって来る。
『お前は、やっぱりあの人の子どもだよ』
何故、今になって母が最後に遺した言葉を思い出したのか。今正に負けようとしている私は、勇者などではなく、やはり醜い獣なのだろうか。
獣のなきごえが、すぐ傍から聞こえる。余りに酷く耳に障ったので、私はそれに向かって吠え返した。
「勝者、ネギの勇者ー、ジぃオーーっ!」
決着からやや遅れはしたが、実況者の口から勝敗が告げられたことをジオは聞いていた。間を空けたことがよかったのか、疎らながら彼を称賛する声や拍手が続く。
(勝ったけど、何と言うかまぁ、やりづらいな)
声には出さず、勝者である少年は観客を見渡していた。随分と渋い表情を浮かべている者がほとんどだ。
レティアに来たばかりのジオから見ても、黄金剣士の敗北がもたらした影響の大きさがよくわかる。観客のほとんどは、闘技場の現役チャンピオンの惨状を信じられずにいた。それでも、堂々と拳を掲げるネギの勇者の姿を見ては認めざるを得ない。
それは、勝ちを宣言した実況者にも言えることであった。
「えー、余りの事態にわたーしは実況の役割を忘れるところでありました。そもそも、ネギの勇者の前情報がなさ過ぎてですね……配当はどうですか、出ますか? あ、出ない?」
サラサラと言葉は続いているが、吟遊詩人の焦りが魔導器を通して会場へと伝わる。それと共に、大人たちはこれまでとはまた異なったどよめきを漏らしていた。実況席から様子が見渡せただけに、公平さ正確さを心がけるリバーハインドも苦い表情を浮かべてしまう。
「やっぱり、状況はまずそうだな」
所在なさげに、少年勇者は頬を掻く。実況をしていた青年の表情が見えてしまえば、何とも居た堪れない気持ちにもなった。
公営ギャンブルとして認められたレティア闘技場では、勿論賭け事が行われている。賭けそのものは誰も文句のないところであったが、払い出しの結果がいつまでも発表されないことはいただけない。
今回の賭けの対象は“ネギの勇者がどのくらい耐えられるか”であったのだから、試合そのものが無効ではなくとも、賭け試合としては不成立となっている。細かな事情などはジオも知らないことであるが、会場の雰囲気がよろしくないことだけはよくわかった。
「えー……残念ながら、ネギの勇者が勝つということを運営側が想定していなかったようで。これーは、払い戻しですかね。しばらくお待ちください――その間に、わたーしが見聞きしてきました英雄譚などはいかがです?」
途中からブーイングが起こるなかでも、嘆くことなくアナウンスを続けていた。
彼は雇われ実況者であるので、決着がついた今となってはこれ以上語る必要もない。だが旅から旅へ、人に語ることを生業とするこの青年は、娯楽提供者を自称しているから困ったものだ。沢山の人を前にすると、どうにもあの手この手で笑顔にしてやりたい想いに駆られてしまう。
「ああ、みなさん落ち着いてください。瓶などを投げると危険ですから!」
賭けの不成立に苛立つ観客に、リバーハインドは懸命に語りかける。どうしてこれ程にも熱心に言葉を紡ぐのか、ジオにはよくわからなかった。だが、彼の直向さは心を打つものがある。
(魔法の一発でもぶち込んで、静かにしてみせようか――却下だな、シャロじゃあるまいし。あの吟遊詩人が言葉だけで鎮めようとしているのだから無粋なことは……何だ?)
黙考していたネギの勇者であったが、前方から厭な波を感じ取れば直感的に臨戦態勢を取った。
微かな声が聞こえたのだ。
「落ち着いてくだ――何でしょう。魔力計に反応が……ジオさんが魔法を使っているのですか?」
吟遊詩人は訝しがり、舞台中央にいた緑の勇者を視線で追った。しかし、既にその場に彼の姿はない。先程と同様に緑の風が突き進んでいく様が視界の端に映るのみ。
直後、発生していた異音が大きさを増していたが、それでも観客の騒ぎにまみれて実況席まで届くことはなかった。
「てめぇ、何を考えてやがる!」
周りには脇目も振らずにジオは駆ける。人々は気づいていないが、この波は明らかに魔力が魔法に昇華される前触れだ。何より不可解なことは、それが前方の観客席の壁から届くということであった。
壁に張り付き項垂れる黄金剣士に向かって、ジオは駆ける。魔力の波も異音も、この人物が発生源である。
「決着がまだだって言うなら、いくらでもやってやる。だから――」
だから、会場の人を巻き込むな。このように続けようとしたが、思わぬ妨害に遭って呑み込まざるを得なくなった。
トリルがぴくりと動くとともに、闘技場では御法度の魔法が解き放たれる。巻き込むな、その言葉は既に遅い。魔力を帯びた白い煙が吹き出せば、会場全体へと一挙に広がりを見せていた。
「みなさん、落ち着いて! 高い魔力が検知されています。出口に近い人から、ゆっくり、ゆっくり移動してください!」
異常事態を察知した吟遊詩人が、パニックを悟られまいと努めて冷静にアナウンスを行っている。ここまでくれば、自分の焦りなど考えている余裕もない。会場全体から、先程とは異なる叫び声が届いてくるのだ。
その中に獣のなきごえが混ざっていることは、対面したジオ以外に聞き取れる者はいなかった。
「グリオ程ではないけど、強くなったね。大方の魔物にはもう負けないだろうけど、人間には気をつけるんだよ?」
「……どうして今更、人間なんだ?」
「ジオを前にして言うのは気が引けるけど、あいつらは勝つためなら何でもする種族だからね。今ジオが一番気をつけないといけないのは、人間なんだよ」
ふと、シャロとのやり取りを勇者は思い出す。もう少しで黄金剣士に辿り着こうかというところで、煙に視界を奪われてしまった。精霊とはもう少し魔法について語り合っておくべきだったかと、少年は少なからず後悔をしそうになってしまう。
(こういうことか、シャロ)
突然身体が鈍くなったかと思えば、あちらこちらで叫喚が上げられていた。見えずとも、この一帯が異常に包まれていることは理解出来る。
精神操作による意志薄弱――魔法への抵抗力が高いジオですら、随分な気怠さを感じ取っている。抵抗力のない者は一体どうなっているのか。そんなものは、勇者としては考えたくもなかった。
(奸計をめぐらすトリルのことだ、まだ何かあると見た方がいい)
最悪の場合、闘技場を訪れた人々を人質に取られる可能性もあった――シャロの言うとおり、人間こそがネギの勇者の天敵と呼べるのかもしれない。
視界不良で走ることは諦め、ただ真っ直ぐにジオは歩いた。なるべく早く辿り着かねばならない。
「――っ!?」
そろそろ頃合いであった。トリルがどうなっているか、それは依然としてわからない。だが何かがある。あると気づいたが、一足遅く、ジオは巨大な何かに殴り飛ばされていた。
グルルという人外の唸り声を耳にして、己の不覚を嘆いてみせる。
「くそっ……」
胸元を押さえながら、勇者は眼前に向かって睨みを利かせた。短いフレーズしか吐く余裕がない。突然強打された胸はたまたま装甲に覆われていたが、これが顔であれば気を失っていたかもしれない。らしからぬ汚い言葉を使いそうになるも、煙の向こうには届くかどうか。
「私ハ負ケナイっ!」
「ちっ――」
声に反応し、ジオは咄嗟に後ろへと飛びのいていた。ここで後退することは憚られたが、何せ彼の拳の倍以上の塊が迫ってきたのだ。先程より煙は薄らいだように感じられるが、まだ動いてはならない。用心のために魔力を高めながら、敵を見据える。
全身はシルエットだけでもオークを凌ぐ巨体であることが見て取れる。全容は未だ知れないが、顔らしきところに二つの光源があった――濃紺色のそれは、間違いなくウィッツ神の加護を受けた証。
「アンタ、その姿……」
突き動かされた拳に、足に、この僅かな空間のみ煙が散っていく。トリルらしきものを見て、緑の勇者はある英雄譚を想起する。自らの身体を変貌させ、救国する――ウィッツ神は獣を愛する神だともルファイドより聞かされている――現れた者は、噂に相応しい金色の獣であった。
オークを越える二足歩行の獣がジオへと歩み寄る。纏われていた黄色の鎧は窮屈であったのか、身に着けるのではなく、その身に取り込まれている。溜め込んだ魔力を放ち、鎧を煌かせるそれは“黄金”と呼ぶに相応しい。
冷たき濃紺の瞳を携えた相貌は、眉間から鼻にかけてが人間よりも伸長されている。鋭い牙を生やすそれは、人里へと降りて来たヤマイヌの化け物であった。
「コレガ、私ノ加護。アマリ人ニ見セタコトハナイ」
だから光栄に思えよ。獣と化しても皮肉気な台詞とともに、黄金色の化け物がジオへと迫った。勿論、シンボルである金色の大剣を振るいながらである。
(ヤバイっ、死ぬぞ!?)
咄嗟にジオは左腕を突き出していた。幸か不幸か、刃ではなく剣の腹にぶつかるに留まる。それでも、今度は自分が闘技場の端まで吹き飛ばされることを止めることは出来なかった。
「私ニ、負ケハ、ナイ」
大きく剣を薙ぎ、獣は咆えた。煙はいつしか晴れたものの、その頃には会場からは叫び声も失われていた。
この場に居た者、一人残らず消してしまえば、負けたという事実すら消失する。
煙を突き抜け、ネギの勇者が吹き飛ばされる様を見ていた人物が二人いた。
一人は元勇者を父に持つキリカであった。ハッキリとは見えずとも、彼女の瞳は何か大きなものがジオを追い詰めていることは捉えていた。
残る一人はリバーハインドだ。吟遊詩人は町から町を渡り歩く職業であれば、闘う力よりも、生き残るための抵抗力が求められる。また、実況席という離れたところに位置していることも幸いした。
「汚ねぇぞっ、黄金剣士っ!!」
煙がすっかり晴れる頃、吟遊詩人の青年は柄にもなく怒鳴った。闘技場を訪れていた老若男女、そのほぼ全てが頭を伏せて倒れ込んでいるのだ。起きている者は彼を含め十名に満たない。
職業柄、メジャーな神の加護は他の誰よりも知っていると自負している彼だ。会場全体を巻き込む魔法を放った者が、あの金色の獣であることは最早考えずともわかる。それ故に、目にした瞬間に実況も忘れて憤っていた――こんなものは、決してエンターテインメントではない。
「ウィッツ神は誓いの神だ、闘技場のルールを破ってまで勝とうだなんて、恥を知れ!」
「――――っ!!」
声に惹かれ、黄金色の獣は吼えた。吟遊詩人は声に魔力を乗せて語る、挑発を行うにこれ程適した存在もない。注意を引きつけて全力で逃げる、しかるべき後に救助を求める、それが彼の算段だった。
「あ、おい、待て。こっちだ!」
しかし計算は外れる。魔力すらも解き放って全力を示した黄金剣士は、リバーハインド程度の力に誘われることはない。
「何だ、オマエはっ!?」
むしろ、同じく優れた勇者の子である赤毛の少女の方が、標的として機能してしまう。精神操作を受け付けない人物はいずれにせよ真っ先に消すのであるから、より近い方が狙い易い。或いはそのような理由で、黄金色の獣は客席を目指した。
「く、来るな! 来るな!」
キリカは必死に叫ぶ。オークよりも大きな獣、そんなものは見たことがない。更にはそれが一路己へと向かってくるとあれば、小さな彼女としては恐慌状態に陥ることも責められない。
(パパ……)
きつく閉じられた瞳の奥に、父の姿が浮かぶ。口数は少ないが、頼れる人物だ。だが、この場にはいない。この少女に、父親以外の頼れる人物などいたであろうか? いたのであれば、とうにキリカは父の悪事を止めるようにお願いしていた筈だ。
「誰か、だれか――」
少女の細い腕には気を失ったラフィーネがいる。正気を保っている人物が狙われている、そんなことを知りもしないキリカは一人で逃げることも出来ず、呼ぶ相手もいないながら涙を溢して助けを求めた。
「半端ニデモ抵抗デキルノハ、悲劇ダ」
どう見ても人間ではないそれは、器用にも人語を発声する。図体に似合わず、軽々と舞台と客席を隔てる壁を飛び越えていた。
「勇者ノ子トシテ生マレタコトヲ、恨ムンダナ」
観客席の最前列に陣取る赤毛の少女へ、大きく鋭い爪が構えられる。これが振り下ろされれば、柔らかい少女など一瞬で切り裂かれる――否、それ以前に圧倒的な力で叩き潰されてしまう。
この後に起こるごく当たり前の光景を、現実を含めてキリカは視た。視たとなっては、観念する他ない。
「……恨む? あたしは、父を恨んだことなんかない」
人外の力が襲い来るなかで、少女は手の甲で涙を拭った。半端と呼ぶなら呼べ、とキリカは声には出さずに吐き捨てる。彼女もまた、勇者となるべく生まれた存在だ。命を躊躇なく奪おうとする者へは、敢然と立ち向かえ――父ならそう怒ってくれる筈だ。
「セイゼイ、好キニ吠エテイロ」
「オマエなんか、怖くないぞっ!」
問答をする気のない獣は、目一杯の力で叫ぶキリカへと爪を振るった。町の英雄、拳奴ラザロなど取るに足らない相手である。命こそ助かりはしたが、あの人間が自分へ報復など出来ようもない――この獣はよく回る頭で先々までを見据えていた。
しかし、どうにも腑に落ちないことがあった。先程まで怯えきっていた少女が、恨んだことはないと言った。勇者の子に生まれてよかったなどと、思えたことはない。更には死の迫るなかで、何故こうも気丈に振る舞うことが出来るのか。不可解甚だしい。
「オカシイゾ……」
そう、おかしい。理解が出来ない。どうして未だに目の前の少女は健在なのか。それは、加護による強化と共に、視覚に制限が与えられた彼ならではの疑問であった。
「オマエなんか、怖くないんだ。だって、だって――」
緊張が解けたキリカの瞳から、雫が零れる。心底安心したのだから、涙くらい流れようものだ。
「オカシイゾ、貴様、何故生キテイルっ!」
飛びつき爪で切り裂くことは不発に終わった。不可視の壁に阻まれたヤマイヌは、自然の法則に従って落下を始める。不可解だと嘆くこの声は、キリカではなく、落下地点に向かって叫ばれている。
白と黒、輪郭のみの世界に囚われた彼には見えていなかった。観察眼鋭い少女には見えていた。二人を隔てるもの――鮮やかな緑色の光が、彼女を護るように現れていた。
高純度の魔力が任意の一点で爆ぜた結果、緑のインクをぶちまけたような、不定形の光の壁となって獣を再び舞台へと引き摺り下ろす。
少女には視えていた。頼れる者などいなかった、というのはつい最近までの話だ。今、自分には頼れる勇者がいる。
「ジオーーーっ!」
目の前で広がる優しい光、それと同色の全身鎧を着込んだ少年が舞台の場外から獣を迎え討つ。
キリカは彼の名を呼び、声の限りネギの勇者へ応援を送り続けた。




