攻略された版を、消さない
入口の掲示板には、大きな矢印が右へ、右へと描いてある。
深い階層ほど強そうに見える色で、客を奥へ奥へ送り出す。そう設計したのは俺だ。客は矢印を見て、次の層へ進む。今日もそうなるはずだった。
「なあ、兄ちゃん」
受付の窓口に、常連の一人が肘をついた。六十過ぎの日焼けしたおじさんで、名前は田所さん。一週間のうちに三回は来る。背中に小さなリュック、手には使い込んだ木刀。
「昨日と同じ練習をしても、報酬はもらえるのか?」
「活動報酬は出ます。実際の活動量に応じて」
「じゃあ、昨日と同じ装備は?」
「それは、初回の一度だけです」
「ふむ」
田所さんは腕を組んだ。矢印の前を通り過ぎて、そのまま第三層の入口へ曲がっていく。
「今日は、第三層の橋で粘る。装備は要らん。ここの橋が気に入っとる」
雫が横から口を挟んだ。
「でも田所さん、昨日もそこでしたよ。第四層は?」
「怖い」
「怖い」
「あのでかい騎士が見えるだけで、足が震える。俺の仕事は橋で十分だ」
雫は黙った。俺も黙った。矢印は田所さんの背中を、まったく押していない。
田所さんは橋の欄干を木刀の先で軽く叩き、掌で撫でてから、リュックを足元に下ろした。水筒の蓋を開けて一口やり、こちらを振り返る。
「兄ちゃんも飲むか。麦茶だ」
「勤務中なので」
「麦茶だぞ」
「……いただきます」
雫が掲示板を見上げた。
「創真さん。この掲示、直しませんか。常連さんが、全員、深く行きたいわけじゃないのに」
「消すか」
「消すんじゃなくて、変えましょう」
雫は鉛筆を取り、第三層の橋の絵に、小さな旗を一本描き足した。
『今日はここまでも、立派な一日です』
その日から、「今日はここまで」という言葉が客の間で流行りはじめた。売店では、『ここまで饅頭』という菓子まで売れ始めた。
帰り際に、田所さんが胸を張った。
「兄ちゃん。今日は橋で三十分粘った。ここまでだ」
「お疲れさまでした」
「明日も来る。あ、それとな。橋の向こうの旗、もう少し低くしてくれ。膝が悪いもんで、見上げると首が痛い」
「……直します」
雫が手帳に『田所さん・旗の高さ・要調整』と書き込んだ。
翌日、旗の下に、小さな椅子が一脚増えていた。座面に『橋の見張り席』と、下手な字で書いてある。誰が置いたのか、聞くまでもなかった。雫が、椅子の脚にまだ付いていた釘の頭を、そっと打ち直した。
*
カナタの攻略が広まって、第六層から第十層に客が押し寄せた。
人気は嬉しい。ただ、混雑が出た。回転回廊の入口に列ができ、初めての客と攻略法を知っている客が、同じ廊下で肩をぶつけ合う。昨日は、チョークの線を見つけた客が、まだ線の引いていない客に「そこ、斜めですよ」と言いかけて、周りに止められていた。
「版を、分けましょう」
雫が言った。
「いまの回転迷宮は、カナタさんが攻略した記録つきの版です。これを消すと、攻略した人の記録が宙に浮きます」
「消さない」
答えは、図面を描く前に出ていた。
「はい。そのまま残して、新しい版を別の枠で出します」
図面を二枚並べた。旧版は旧版のまま、名前の下に小さく『第一版』と入れる。新版にはパンドラの新しい仕掛けを入れ、『第二版』とする。入口で分岐を作り、初級の客は第一版、上級の客は第二版へ流す。
「攻略された版を閉じるのは、攻略した人への不義理だ」
「それに、第一版が好きな客もいますし」
田所さんは、第一版しか通らない。橋が好きなのと同じ理由で、回転も好きらしい。
分岐を実際に客が歩いた日、混雑は半分に減った。入口の計数札を見ると、第一版と第二版は六対四。
第一版の入口では、田所さんが「俺は昔からこっちだ」と胸を張り、第二版の入口では、挑戦者たちが「今日こそ」と肩を回している。同じ廊下から、別々の笑い声が分かれていった。
*
パンドラが進化したのは、その二週間後だ。
躯体は源蔵が作った。樫の木箱をやめて、真鍮と鉄の枠で組んだ、歯車だらけの箱だ。
「……派手だな」
「箱が地味なままだと、中身が泣く」
承認を出すと、核の光がパンドラを包んだ。
古い木箱の蓋が開き、中から小さな歯車が、ちゃきん、ちゃきん、と飛び出す。木の脚が真鍮の脚に変わり、側面に金色の時計盤が浮かんだ。蓋の隙間から、目玉が二つ、ぎょろりと覗く。
「かわいい……けど、強そう」
雫が拍手した。
新しいパンドラは、蓋をぱくぱくさせながら廊下の奥へ駆けていった。そして、自分の仕掛けを、いそいそと設置し始めた。
罠の位置を、自分で決めている。
「これ、勝手に始めたぞ」
「創真さんが教えたんです。『分かっていても楽しい罠』を」
箱が廊下の途中で、わざとらしく蓋を少し開けた。中に赤い缶が見える。
「……あ、わたしのお菓子」
「罠に使ってる」
「だめー!」
雫が駆け出した。パンドラも駆け出した。追いかけっこは、廊下を三周した。
見ていた源蔵が鼻を鳴らした。
「あの箱、お前より、客の気持ちが分かってるかもしれんな」
「そうかもしれません」
廊下の突き当たりでは、第二版に挑む客が三人、箱の罠に足を取られて帰還座へ送られていった。送られながら、三人とも笑っていた。罠の置き場所は、客の足が一番止まりやすい曲がり角の一歩手前。俺は教えていない。
「……認めます。俺より上手い」
源蔵が目を細めた。
「ほめてませんよね」
「ほめてる。半分な」
箱が自分のことかと、蓋を傾けた。
その傾いた蓋の隙間から、赤い缶がもう一度、ちらりと光った。雫の足が、ぴたりと止まる。
「……あ、また使ってる」




