第3章 残響
父のノートを読んだ夜から、真司はAIとの対話を少し控えていた。
問いかければ、いくらでも答えが返ってくる。
けれど、今は自分で考えてみたかった。
父が何を考え、何を追っていたのか。
それを知ることの方が、気になっていた。
机の上には、父が残したノートがある。
ページを開く。
天体の座標。
ブラックホール。
磁場。
そして、説明できない現象。
ノートには、研究成果というより、思いついたことや途中の考えが多く残されていた。
実際の観測データや計算結果は、父が研究に使っていたパソコンに保存され、今も研究に使われている。
このノートは、父が考えたことを、そのまま残したものだった。
何度読んでも、分からないことの方が多い。
なぜ父は、この現象に興味を持ったのか。
その答えを知っているかもしれない人物が、一人だけいた。
父の研究仲間だった、浅田正人。
真司はスマートフォンを手に取った。
大学の研究者一覧を調べる。
名前があった。
現在も大学に籍を置いている。
「……まだいるのか」
電話をかけるまでに、少し時間がかかった。
*
翌日の午後。
大学構内にある研究室を訪ねると、白髪の増えた男が真司を迎えた。
「間宮真司君?」
「はい」
「……間宮正司の息子さんだね」
「そうです」
浅田正人。
父と長く研究を続けていた研究者だった。
真司にとっては、初めて会う人物だった。
「今日は、お父さんのことで?」
「はい」
真司は鞄からノートを取り出した。
机の上に置く。
浅田の視線が表紙に止まった。
「……まだ残っていたんだな」
「知っているんですか?」
「ああ。正司がよく持っていた」
真司はノートを開いた。
「父は、何を調べていたんですか?」
浅田は少し考えてから答えた。
「最初は、ブラックホールだよ」
「ブラックホール……」
「ああ。私は天体の観測をしていてね。そこで、妙な現象が見つかった」
浅田は椅子に座った。
「天体の位置が、時々ずれて見えるんだ」
「父のノートにありました」
「本来あるはずの位置とは違う場所に観測される」
「でも、しばらくすると?」
「元の位置に戻る」
真司は眉を寄せた。
「実際に天体が移動したわけではない?」
「少なくとも、最初はそう考えられていた」
浅田は続けた。
「観測機器の問題や、光の屈折なども疑った。だが、それだけでは説明できなかった」
「それで父が興味を持った」
「ああ」
浅田は頷いた。
「正司はブラックホールの影響ではないかと考えた」
「磁場ですか?」
「そう。ブラックホール周辺の磁場が、何らかの形で観測に影響しているんじゃないかと」
真司はノートをめくった。
そこには、磁場についての計算や図が残っている。
ただ、その多くには疑問符が付いていた。
「でも、説明できなかった?」
「全部はね」
浅田は苦笑した。
「正司は、仮説を立てるのは好きだった。でも、それが証明できるとは思っていなかった」
「かなり難しい?」
「かなりね」
浅田は少し間を置いた。
「特に、ブラックホールの向こう側については」
真司が顔を上げた。
「向こう側?」
「正司は、ブラックホールに入ったものが、ただ消えてなくなるとは限らないんじゃないかと考えていた」
真司はノートをめくる。
そこに、父の字があった。
――ブラックホールの向こう側は、本当に無なのか。
その下に、
――別の次元につながっている可能性。
真司の手が止まった。
「これ……」
「ああ」
浅田は頷いた。
「正司が考えていた仮説の一つだ」
「天体の位置がずれて見える現象と関係がある?」
「そう考えていた」
浅田は慎重に言葉を選んだ。
「もしブラックホールの影響で、別の次元との間に何らかの干渉が起きているなら、観測される天体の位置に異常が出てもおかしくないんじゃないか、と」
「でも……」
「証明された話じゃない」
浅田はすぐに付け加えた。
「正司自身も、立証できる可能性はかなり低いと言っていた」
「それでも調べていたんですね」
「研究者だからね」
浅田は少し笑った。
「可能性が低くても、面白い仮説なら追ってみる。それが正司だった」
真司はノートを見つめた。
「父は、この仮説をどうするつもりだったんですか?」
「正直、分からない」
浅田は答えた。
「ただ、一度こんなことを言っていた」
「何を?」
「仮説や仮定が立証できる可能性は、かなり低い。でも、哲学的な仮説としてなら、考えてみる価値があるかもしれない、と」
真司が顔を上げた。
「哲学的な仮説……」
「ああ」
浅田は少し笑った。
「そのとき、君の話をしていたよ」
「僕の?」
「君が哲学を専攻したことをね」
真司は黙った。
「『自分一人じゃ答えは出せないだろう。でも、息子と一緒に考えられたら面白いな』って」
真司の表情が止まった。
「……父が、そんなことを?」
「ああ」
浅田は頷いた。
「研究者としてじゃなく、父親として言っていたように聞こえたよ」
真司はノートに目を落とした。
父とは、研究の話をほとんどしたことがない。
自分が哲学を選んだことについても、深く話した記憶はなかった。
それなのに。
父は、自分と一緒に考えることを想像していた。
「……知らなかった」
真司は小さく呟いた。
浅田は何も言わなかった。
しばらくして、真司はノートを閉じた。
「ありがとうございました」
鞄にしまう。
立ち上がった真司に、浅田が声をかけた。
「真司君」
「はい?」
「正司の研究を読むなら、答えを探しすぎない方がいい」
「……どういう意味ですか?」
浅田は少し笑った。
「正司が残したのは、答えじゃない」
静かな声だった。
「問いだよ」
真司は何も言わず、頭を下げた。
*
大学を出る。
夕方の街を歩きながら、真司は父のことを考えていた。
ブラックホール。
天体の位置のずれ。
磁場。
別の次元。
どれも、まだ証明されていない。
父は答えを見つけたわけではなかった。
ただ、分からないものを追い続けていた。
そして、自分と一緒に考えられたら面白いと言っていた。
*
その夜。
真司は自宅で、父のノートを開いていた。
浅田から聞いた話を思い出しながら、ページをめくる。
研究の途中で思いついたこと。
まだ形になっていない仮説。
疑問。
構想。
どれも、父の頭の中にあったものの断片だった。
ページをめくっていく。
すると、最後の方に、これまで気づかなかった小さな書き込みがあった。
研究とは関係のない場所だった。
父の字で、短く書かれている。
――真司へ。
真司の手が止まった。
その下には、
――哲学の道に進んだな。
少し間を置いて、
――がんばれ。
それだけだった。
「……父さん」
真司は、その文字をしばらく見つめていた。
父から、こんな言葉をもらった記憶はなかった。
褒められたことも。
応援されたことも。
少なくとも、こんなふうに書き残してもらったことはない。
真司は指先で、文字の上をそっとなぞった。
「……今さらかよ」
小さく笑う。
けれど、その声は少しだけ震えていた。
ノートを閉じる。
父は答えを残したわけではない。
自分に何かを教えようとしたわけでもない。
ただ、自分が選んだ道を見ていた。
そして、遠くから応援していた。
真司は、もう一度ノートを開いた。
今度は研究者としての父ではなく――
父親としての正司が残したものとして、そのページを読み始めた。
ブラックホールについての仮説。
天体のずれ。
別の次元への干渉。
どれも、まだ答えにはなっていない。
真司自身が考えている「意識」の問題とは、今のところ別の話だった。
真司はノートを閉じた。
父が何を考えていたのか。
まだ、ほとんど分からない。
けれど――。
もう少しだけ、知りたかった。
机の上にノートを置く。
その表紙を、しばらく見つめていた。




