第2章 対話
その夜。
真司は、父のノートを開いていた。
古びたページには、数式や図が並んでいる。
天体の名前。
座標。
ブラックホール。
真司には、専門的な部分までは理解できない。
ページをめくる。
そこに、一人の名前があった。
――浅田正人。
「……誰だ?」
名前の横には、いくつかの天体についての記述がある。
恒星。
惑星。
衛星。
そして――
「ずれ」。
その下には、父の字で短く、
――座標の異常。
と書かれていた。
さらにページをめくる。
――ブラックホールの重力場による影響か。
その横には、いくつもの計算。
別のページには、
――磁場との関係?
とある。
だが、その後には、
――説明しきれない。
とだけ書かれていた。
「……父さんでも、分からなかったんだ」
真司はノートを見つめた。
父は答えを知っていたわけではない。
分からない現象を前に、可能性を一つずつ考えていたのだ。
さらにページをめくる。
そこには、少し長い文章が残されていた。
――もし、この現象が広がっているとしたら。
真司の目が止まる。
その下には、
――単なる観測上のずれではなくなる。
さらに、
――惑星や衛星そのものの位置に変化が生じれば、軌道にも影響する。
とある。
その先には、
――ブラックホールを介して、通常では考えられない領域との関係があるのか。
疑問符が付いている。
真司は眉を寄せた。
「……何だよ、それ」
さらに下を見る。
――証明できない。
それだけだった。
真司はノートを閉じた。
父が何かを発見したわけではない。
分からない現象を追い続け、その先に一つの可能性を考えただけなのだ。
それでも、気になった。
真司はパソコンを開いた。
AIとの対話画面を呼び出す。
『浅田正人が発表した、天体の位置が一時的にずれて見える現象について知ってる?』
すぐに回答が返ってきた。
『はい。恒星、惑星、衛星などが、本来の位置とは異なる場所に観測され、その後、元の位置に戻る現象として報告されています』
真司は少し驚いた。
「知ってるんだ」
続けて入力する。
『原因は?』
『現在のところ、完全に説明できる確立した理論はありません』
「……やっぱり」
真司は父のノートに目を向けた。
『ブラックホールの影響という説は?』
『可能性の一つとして検討されています。しかし、それだけでは現象を完全には説明できません』
『もし、現象の範囲が広がったら?』
少し間があった。
『観測範囲や頻度の拡大だけでなく、実際に天体の位置や軌道そのものに変化が確認されれば、単なる観測上の現象とは考えにくくなります』
真司は画面を見つめた。
「……宇宙そのものに、何か起きてるってことか」
『現時点では判断できません。さらなる観測が必要です』
「まあ、そうだよな」
真司は画面を閉じた。
AIは現象を知っている。
だが、原因までは分からない。
父も分からなかった。
真司はノートに目を落とした。
まだ先を読む気にはなれなかった。
まずは、自分で調べてみようと思った。
父が何を見て、どこまで考えたのか。
答えだけを追うのは違う気がした。
真司はパソコンに向き直った。
その夜、遅くまで資料を読み続けた。
*
翌日。
講義を終えた真司が資料をまとめていると、後ろから声がした。
「先生」
振り返ると、本城弥生が立っていた。
「どうした?」
「昨日の話、ちょっと気になって」
「意識の話?」
「はい」
弥生は少し考えてから言った。
「先生は、意識が進化の結果じゃなくて、進化に影響したって考えてるんですか?」
真司は少し黙った。
「うん。僕はそう考えてる」
「どうしてですか?」
真司は黒板を見る。
そこには、昨日の講義で書いた「意識」の文字が残っていた。
「生き物は、環境に適応するだけじゃなくて、知ろうとしたり、選んだり、何かを求めたりするだろ」
「はい」
「僕は、その『何かを求める』こと自体が、進化に影響したんじゃないかと思ってる」
弥生は少し考える。
「じゃあ、意識って最初からあったんですか?」
「そこが分からない」
「先生なのに?」
「先生だから考えてるんだよ」
弥生が笑った。
「またそれですか」
「うん。またそれ」
弥生も黒板を見る。
「でも……」
「ん?」
「意識が変わっていくなら、何か方向があるんじゃないですか?」
「方向?」
「はい」
弥生は少し考えながら続けた。
「昨日の自分と今日の自分って、少し違いますよね。でも、別の人になったわけじゃない」
真司は黙って聞いていた。
「だから、方向って、どこかに行くことじゃなくて……どう変わっていくか、なのかなって」
真司は黒板を見つめた。
意思。
意識。
進化。
そして――方向。
「……面白いな」
「何がですか?」
「いや」
真司は少し笑った。
「ちょっと、考えてみる」
「先生が?」
「うん」
弥生も笑った。
「じゃあ、また今度」
「ああ」
弥生が教室を出ていく。
真司は一人、黒板の前に残った。
そこには、
「意識」
という文字だけが残っていた。
真司はしばらく、その文字を見つめていた。
そして、ふと父のノートを思い出した。
――方向。
その言葉が、なぜか頭から離れなかった。




