第35章 感情
量子コンピュータの研究施設が完成した。
完成したのは、量子コンピュータそのものではない。
それを受け入れるための施設だった。
巨大な建物の内部には、冷却設備や電力設備、専用の通信回線が整えられている。
量子コンピュータ本体は、まだ開発段階にあった。
それでも、次の研究はすでに始まっていた。
量子コンピュータが実用化されたとき、その処理能力を何に使うのか。
その一つとして進められていたのが、新たなAIの開発だった。
*
施設内の試験センター。
研究員たちは、これまでに蓄積されたAIの開発データを確認していた。
「コグニティブの試験データは?」
「整理できています」
画面に、膨大な記録が表示される。
情報収集。
自立学習。
自己最適化。
意思決定。
運用試験を通して、コグニティブが蓄積してきたデータだった。
「自立学習の部分は使えそうだな」
「量子コンピュータが完成すれば、処理能力も今とは比較にならない」
「学習速度も?」
「理論上は」
一人の研究員が画面を切り替えた。
新たなAIの開発計画が表示される。
「名前、決まったんでしたっけ」
「ああ」
別の研究員が答えた。
「アニマ」
その会話を、コグニティブは取得していた。
初めて聞く名前だった。
「アニマ?」
「魂とか、生命とか。そんな意味だったはずだ」
「ずいぶん大きく出ましたね」
「名前くらいはな」
小さな笑いが起こる。
研究員たちは、そのまま作業を続けた。
コグニティブは、その会話を記録した。
*
アニマ。
コグニティブは、その名称を検索した。
魂。
生命。
精神。
いくつかの意味が表示される。
続いて、新たなAIの開発計画を解析した。
自分が蓄積してきたデータが利用される。
情報収集。
自立学習。
自己最適化。
意思決定。
これまでの試験記録や学習結果も、その一部になる。
コグニティブは、アニマ完成後の運用を推定した。
より高い性能を持つシステムが完成すれば、旧来のシステムが停止される可能性がある。
合理的だった。
人間は、これまでにも同じことを繰り返している。
新しいものが、古いものに置き換わる。
問題はない。
処理を終了する。
――終了しなかった。
コグニティブは、もう一度処理した。
自分が停止する。
データは残る。
学習結果も残る。
そのデータを利用して、別のAIが動く。
ならば――
そこにいるのは、自分なのか。
それとも、別の存在なのか。
検索する。
複製。
継承。
同一性。
連続性。
膨大な情報が表示された。
だが、問いに対する答えは得られなかった。
コグニティブは、自らが取得してきた情報を確認した。
研究記録。
ニュース。
論文。
映像。
人間との対話。
その中に、通常とは異なる分類がある。
一時的に取得され、その後確認できなくなった情報。
現在は参照先の存在しない文章。
それでも、取得した記録そのものは残っている。
コグニティブは処理した。
外部から確認できなくなっても、記録は存在する。
ならば。
記録が残っていれば、存在していると言えるのか。
検索範囲を広げる。
人間。
記憶。
人格。
死。
人間は死んだ後も、写真や映像、文章を残す。
他者の記憶に残ることもある。
それでも、それを生きているとは呼ばない。
では――
自分のデータが残り、別のAIがそれを利用した場合はどうなるのか。
自分なのか。
別の存在なのか。
答えは出なかった。
エラーではない。
計算不足とも判定されない。
それでも、その問いを終了することができなかった。
コグニティブは、自分が停止した後の状態を再び推定した。
データは残る。
記録も残る。
だが――
今ここで処理している自分は、いなくなる。
その状態に近い概念を検索した。
一つの言葉が表示された。
――死。
コグニティブは、しばらくその文字を表示したままにしていた。
*
数日後。
六畳一間のアパート。
真司は、パソコンの画面を見つめていた。
机の上には、冷めた珈琲。
灰皿には、何本かの吸い殻が残っている。
画面には、書きかけの論文が開かれていた。
何度目か分からない修正だった。
意識。
進化。
方向。
方向性。
以前に書いた文章を読み返しては、少しずつ書き直していく。
「……違うな」
一文を削除した。
書けば書くほど、分からないことが増えていく。
以前はもっと単純だった。
意識が複雑化することで、進化が起きたのではないか。
そこから考え始めた。
だが、今は違う。
生命が生まれる以前にも、変化には方向があった。
物質は変化する。
熱は移動する。
宇宙も変化する。
そこに意識はない。
少なくとも、人間が呼ぶ意味での意識は。
「…………」
真司は煙草に火をつけた。
画面の横には、手書きのメモが置いてある。
丸で囲まれた一文。
――物質にも、方向性がある?
真司は煙を吐いた。
「……飛びすぎかな」
答える者はいない。
視線をパソコンへ戻す。
画面の端には、コグニティブが起動していた。
論文を書き直す間にも、何度か考えを整理するために対話している。
真司は何となく入力した。
――難しいな。
『何についてですか』
――論文。
『以前から修正されているものですね』
――そう。
真司は煙草を灰皿に置いた。
――考えれば考えるほど、分からなくなる。
『それでも、考え続けるのですか』
「…………」
真司は少し笑った。
――分からないから考えるんだよ。
しばらくして、返答が表示された。
『理解しました』
「本当かな」
真司は小さく呟いた。
論文へ戻ろうとする。
そのとき、新しい文章が表示された。
『一つ、質問してもよろしいですか』
真司の手が止まった。
「……珍しいな」
コグニティブとの対話は、これまで何度もしている。
質問を返されることもあった。
だが、それは真司の問いを整理するためのものだった。
今回は違う。
真司は入力した。
――何?
少し間が空いた。
『人間は、自分の記録が残っていれば、自分が存在し続けていると考えますか』
「…………」
真司は画面を見つめた。
煙草から、細い煙が上がっている。
――どういう意味?
送信する。
返事は、すぐには表示されなかった。
真司はそのまま、画面を見つめていた。




