第30章 背景
六畳一間の古びたアパート。
真司は、パソコンの前で煙草を吸っていた。
机の上には、冷めた珈琲。
その横では、灰皿から吸い殻が溢れかけている。
画面には、書きかけの論文が表示されていた。
――意識と進化の関係について。
真司は一文を読み返し、消した。
「……違うな」
煙草を灰皿に押しつける。
少し考えて、また一本取り出した。
火をつける。
真司がずっと考えてきたこと。
進化の結果として、意識が複雑化したのではない。
意識の複雑化が、進化をもたらしたのではないか。
ならば――
最初の意識は、どこにあったのか。
生命が生まれたときなのか。
それとも、その前から存在していたのか。
真司は煙を吐いた。
「……生命からって、決める必要あるのか」
キーボードに手を置く。
数行書く。
読み返す。
また消した。
真司は机の端にあったノートを引き寄せた。
ペンを取る。
――老化。
その下に、
――エントロピー。
さらに、
――保存則。
三つの言葉を眺める。
どれも違う。
老化は、生命に起きる現象。
エントロピーは、人間が自然の振る舞いを理解するために定義した概念。
保存則も、自然を観測し、人間が法則として表したものだ。
だが――
人間が「老化」と呼ぶ前から、生物は老いていた。
エントロピーという概念が生まれる前から、宇宙では変化が起きていた。
保存則が数式で表される前から、自然は一定の規則に従っていた。
人間が作ったのは、現象そのものではない。
観測して、名前をつけた。
そして、その規則を数式で表した。
真司は煙草をくわえたまま、ノートを眺めた。
「……頭の中の理論を数式にした人って、天才だな」
自分には無理だ。
真司は小さく笑って、煙を吐いた。
だから、自分は哲学をやっているのかもしれない。
真司はノートに一本の線を引いた。
老化。
エントロピー。
保存則。
その下に、
――法則。
と書く。
「……いや」
すぐに横線を引いた。
法則という言葉も、人間がつけたものだ。
では、その前にあるものは何なのか。
老化には、変化がある。
エントロピーにも、変化する向きがある。
だが、保存則は少し違う。
変化しても、保たれるものがある。
「変わるものと、変わらないもの……」
真司は煙草の灰を落とした。
人間は、それぞれを別のものとして定義している。
だが、本当に別々なのだろうか。
もっと根本にある何かが、それぞれ違う形で現れているだけだとしたら。
何が変わるのか。
何が変わらないのか。
どう変化するのか。
真司はノートに書いた。
――方向。
「……方向?」
少し違う。
進む向きだけではない。
変わることも。
変わらないことも。
その両方を含んだ、もっと根本的なもの。
真司は二文字を書き足した。
――方向性。
ペンが止まった。
「……方向性、か」
しばらく、その文字を眺める。
そして、その下に書いた。
――物質にも、方向性がある?
物質に意思があるとは思わない。
何かを考えているとも思わない。
だが、意思と意識は同じではない。
意識が生命とともに突然生まれたと決める理由もない。
真司は椅子にもたれた。
意識。
進化。
方向性。
三つの言葉が頭の中に並ぶ。
知りたい。
生きたい。
動きたい。
選びたい。
人間の意識は、常に何かへ向かう。
では、その複雑さを一つずつ取り除いていったら。
感情。
記憶。
認識。
意思。
最後に残るものは、何なのか。
真司はパソコンへ向き直った。
新しい一文を打ち込む。
――人間が自然法則と呼ぶものは、自然そのものではない。
続ける。
――自然に存在する規則性を、人間が認識し、分類し、定義した概念である。
さらに書いた。
――ならば、異なる法則として認識されているものの背後に、それらを成立させる、より根源的な性質が存在する可能性はないだろうか。
指が止まる。
ノートを見る。
――方向性。
真司は、その言葉を論文に加えた。
――仮に、それを「方向性」と呼ぶ。
続けて、一文。
――意識とは、方向性が複雑化したものではないか。
「…………」
真司は画面を見つめた。
一度読み返す。
もう一度。
「……飛びすぎだな」
苦笑して、その一文を削除した。
画面から文字が消える。
真司は煙草を灰皿に押しつけた。
吸い殻が一つ、縁から机へ落ちる。
「……あ」
拾って戻す。
そして、ノートへ目を落とした。
――物質にも、方向性がある?
真司はペンを取った。
消そうとして――
やめた。
代わりに、その一文を丸で囲んだ。
*
舞のパソコンに、メールの受信を知らせる通知が表示された。
昨夜、海外の研究者たちに送ったメール。
その一つに、返信が来ていた。
舞はすぐに開いた。
短い文章とともに、いくつかのファイルが添付されている。
撮影時刻。
観測地点。
使用した機材。
そして、画像データ。
舞は一つ目を開いた。
「……あった」
月だった。
昨夜、自分がスマートフォンで撮影したものとは比べものにならないほど鮮明だった。
舞は画像を拡大する。
月面の地形まで確認できる。
続けて、別のファイルを開いた。
同じ時間帯。
別の場所から撮影された画像。
そこにも、月が映っている。
舞はスマートフォンを手に取った。
父へ電話をかける。
「お父さん」
『どうした』
「返信、来た」
『海外からか?』
「うん。画像もある」
『月面は?』
「見える」
少し間があった。
『送ってくれ』
「分かった」
舞は受け取ったデータを父へ転送した。
*
正人は、観測施設のモニターに二つの画像を表示した。
一つは、国内で見つかった昨夜の観測記録。
もう一つは、舞から届いた海外のデータ。
撮影地点も、使用された機材も違う。
だが、記録された時刻はほぼ一致している。
正人は画像の向きと大きさを合わせた。
月面図を開く。
隣にいた職員が画面を覗き込んだ。
「……やっぱり、月に見えますね」
「ああ」
正人は一点を指した。
「静かの海」
指を動かす。
「雨の海もある」
「昔からそう呼ばれている場所ですね」
「ああ」
海外の画像も確認する。
静かの海。
雨の海。
その周囲に広がる地形。
大きな特徴は一致していた。
「じゃあ、やっぱり月なんですか?」
「そう見える」
正人は短く答えた。
だが、手を止めなかった。
画像をさらに拡大する。
月面図と照らし合わせながら、一つずつ確認していく。
やがて、手が止まった。
「……待て」
「どうしました?」
「ここ」
正人が指した先に、小さなクレーターがあった。
普段の月面画像では、はっきりと確認できる。
昨夜の画像へ戻る。
同じ場所。
だが――
ない。
「解像度の問題じゃないですか?」
「俺もそう思った」
正人は舞から届いた海外の画像を開いた。
撮影地点も違う。
機材も違う。
同じ場所を拡大する。
職員が黙った。
やはり、ない。
「……こっちにもないですね」
「ああ」
正人は別の場所を調べた。
一つ。
また一つ。
大部分は一致している。
だが、細かな地形には、わずかな違いがある。
こちらにはある。
昨夜の月にはない。
逆に、普段の月面には見当たらない痕跡が、昨夜の画像には残っている。
正人は二つの観測記録を並べた。
静かの海がある。
雨の海もある。
見慣れた月面だった。
ほとんど同じ。
それなのに――
同じではない。
正人は、しばらく二つの画像を見比べた。
「……こちらの月とは、違うのか」




