16章 疎通
翌日。
真司は、大学の研究室でパソコンを開いていた。
メールが一件届いている。
差出人は、浅田正人。
真司はメールを開いた。
『真司君。
借りていた正司のノートを返したい。
それと、最近観測されている天体の異常について、少し話しておきたいことがある。
時間があるときに、一度来てもらえないだろうか』
真司はメールを読み返した。
父のノート。
そして、天体の異常。
浅田がわざわざ自分に話したいということは、何か気になることでもあったのだろうか。
真司は少し考えてから、返信した。
*
数日後。
真司は浅田の研究室を訪れた。
扉をノックする。
「どうぞ」
中へ入ると、浅田がモニターの前にいた。
その近くには、見覚えのない女性が座っている。
「こんにちは」
女性が先に頭を下げた。
「こんにちは」
「真司君、紹介する。娘の舞だ」
「浅田舞です」
「間宮真司です」
「知ってます」
舞が少し笑った。
「……僕のことを?」
「はい」
真司が浅田を見る。
「娘さんがいるとは聞いてましたけど」
「ああ。海外から戻ってきたばかりでな」
舞が父を見る。
「お父さん、言ってないの?」
「何を?」
「私が会ってみたいって言ったこと」
「ああ」
浅田は平然と答えた。
「言ってない」
「なんで?」
「言ったら面白くないだろ」
「何が面白いの」
舞が呆れたように父を見る。
真司は思わず笑った。
「浅田先生、そういうことするんですね」
「たまにはな」
「すみません。父が勝手に」
「いえ。ちょっと驚きましたけど」
舞は真司を見る。
「会ってみたいって言ったのは、本当です」
「どうして僕に?」
「物理学者の息子さんが、哲学をやってるって聞いたので」
「それが?」
「なんか面白そうだなって」
真司は少し笑った。
「それで会ってみたいと?」
「はい。変ですか?」
「いや……初めて言われました」
「私も、そんな理由で人に会ってみたいと思ったのは初めてです」
舞が笑う。
浅田は机の上に置かれていた古いノートを手に取った。
「まあ、そのくらいにして」
「お父さんが始めたんでしょ」
「そうだったな」
浅田はノートを真司へ差し出した。
「真司君。まず、これを返しておく」
真司は受け取った。
父のノートだった。
「もういいんですか?」
「ああ。何度か読み直した」
「何か分かりました?」
「分かった、とは言えないな」
浅田はモニターへ目を向けた。
「ただ、気になることは増えた」
「気になること?」
「ああ」
浅田が画面を切り替えた。
「それが、今日呼んだもう一つの理由だ」
モニターに、遠い宇宙の観測画像が表示された。
*
「これは?」
「約五五〇〇光年先にあるブラックホールだ」
浅田が過去の観測データと最新のデータを重ねる。
「周辺を回っている天体の位置が、予測からズレている」
「ズレてる?」
「ああ。一つじゃない。複数だ」
浅田が画面を切り替えた。
「それだけじゃない。重力レンズによって生じる像にも異常が出ている」
真司は画面を見る。
数字や図が並んでいる。
詳しいところまでは分からない。
「観測機器の問題じゃないんですか?」
「最初は俺もそう考えた」
「違った?」
「ああ。複数の観測機関でも似た異常が確認されている」
舞が別の画像を表示した。
「それと、こっちも見てください」
「別のブラックホール?」
「はい。約一六〇〇光年先です」
以前の観測画像と、最近の画像が並ぶ。
「周辺ガスの放射光が、以前より数倍に広がって見えるんです」
「数倍?」
「はい。海外から届いたデータでも確認されています」
浅田が続ける。
「こっちは、つい最近になって変化がはっきりしてきた」
真司は二つの画像を見比べた。
「五五〇〇光年先と、一六〇〇光年先……」
「ああ」
「関係があるんですか?」
「分からない」
浅田は腕を組んだ。
「距離も場所も違う。今の段階で、同じ原因だとは言えない」
「じゃあ、どうして父のノートと?」
浅田は少し黙った。
「正司のノートを読み直していて、気になったんだ」
「何がですか?」
浅田は真司の手にあるノートを開いた。
「正司は、観測結果に説明のつかないズレが出たとき、それを単なる誤差として捨ててなかった」
ページをめくる。
数式。
図。
天体の名前。
計算途中の数字。
その間に、短い文章が残されている。
――座標の異常。
別のページ。
――ブラックホールの重力場による影響か。
さらに、その横には、
――磁場との関係?
いくつかの計算のあとに、
――説明しきれない。
とだけ書かれていた。
「これ……」
「正司自身も、答えは出せてない」
浅田は言った。
「以前なら、俺もそこで終わってた」
「今は違う?」
「ああ」
浅田はモニターを見る。
「実際に、説明しにくいものが増えてきたからな」
真司も画面へ目を向けた。
遠いブラックホール。
その周辺で起きている異常。
「だから、真司君にも聞いてみたかった」
「僕に?」
「正司のノートを全部読んだんだろ?」
「一応。でも、専門的なところは分かりません」
「物理の話を聞きたいわけじゃない」
浅田は真司を見る。
「真司君は、このノートを読んでどう思った?」
真司は黙った。
父のノート。
何度も読んだ。
それでも、父が最後に何を考えていたのかは分からない。
「……父は、宇宙を完成したものとして見てなかったんじゃないかと思います」
「完成したもの?」
「はい」
真司は言葉を探した。
「始まって、変化して、終わる」
舞も黙って聞いている。
「でも、終わったら全部なくなるとは考えていなかった」
「その先がある?」
舞が聞いた。
「たぶん」
「何があるんですか?」
「分かりません」
真司は苦笑した。
「そこまで書いてないですから」
「真司さん自身は?」
「僕?」
「どう考えてるんですか?」
真司は少し考えた。
「僕も、終わりが全部の終わりだとは思ってないです」
「どうして?」
「始まりがあるなら、その前にも何かあったんじゃないかって考えてしまうから」
「宇宙が始まる前に?」
「そう考えると、たぶん物理の話になるんですよね」
舞が少し首を傾げた。
「じゃあ、哲学だと?」
真司は父のノートへ目を落とした。
「そもそも、何をもって『始まった』と言うんだろうって考えます」
「何をもって?」
「時間が始まったからなのか。物質が生まれたからなのか。それとも、何もなかったところに何かが存在したからなのか」
舞は少し考えた。
「それって、違うんですか?」
「分かりません」
真司は笑った。
「だから考えるんです」
浅田が真司を見る。
「やっぱり正司とは違うな」
「父なら?」
「あいつなら、何が起きたのかを考える」
真司は少し考え、頷いた。
「僕は、その『何が起きた』を、なぜ始まりと呼ぶのかを考える」
「同じことを見てるのに?」
舞が聞いた。
「問い方が違うんだと思います」
真司はノートを開いた。
父が残した文字を見る。
「父は、宇宙がどう始まって、どう終わるのかを考えていた」
少し間を置く。
「僕が気になるのは、その始まりと終わりが、本当に別のものなのかってことです」
「別じゃない?」
「例えば、何かが終わったことで次が始まるなら」
真司は少し考えた。
「その終わりは、本当に終わりなのかなって」
舞は黙った。
浅田も何も言わない。
「……まあ、こんなことばかり考えてるから哲学なんでしょうけど」
舞が少し笑った。
「面白いですね」
「そうですか?」
「はい」
舞は正司のノートを見る。
「間宮先生とは違うのに、同じところを見てる感じがする」
真司もノートへ目を落とした。
「僕は、そういうつもりじゃなかったんですけどね」
浅田は少し笑った。
「親子ってのは、そんなものかもしれないな」
*
浅田は再びモニターへ目を向けた。
「今のところ、何が起きているのかは分からない」
「まだ観測を?」
「ああ」
「何か分かったら、僕にも教えてください」
「そのつもりだ」
舞が画面を見ながら言った。
「私も手伝うから」
「頼む」
真司が二人を見る。
「親子で研究って、なんかいいですね」
「そうですか?」
舞が振り返る。
「はい」
「私は、まだ慣れないですけど」
「そのうち慣れる」
浅田が言った。
「お父さんが先に言わないで」
真司が思わず笑った。
「何ですか?」
「いや。仲いいんだなと思って」
「そう見えます?」
「見えます」
「なら、たぶんそうです」
浅田は何も言わず、モニターへ目を戻した。
真司も画面を見る。
そこには、遠い宇宙から届いた光が映っていた。
五五〇〇年前。
一六〇〇年前。
今、その場所がどうなっているのか。
誰にも分からない。
ただ、過去から届いた光の中で、
何かが、これまでとは違い始めていた。




