第15章 予感
浅田正人は、空港の到着ロビーにいた。
人の流れを眺めていると、大きなキャリーケースを引いた女性が見えた。
「お父さん」
「舞か」
正人は手を上げた。
「久しぶり」
「ああ。おかえり」
「ただいま」
正人は舞の足元を見る。
「荷物、それだけか?」
「うん」
「向こうに何年いたと思ってるんだ」
「持って帰るようなもの、そんなになかったから」
「そうなのか?」
「生活用品くらいだったし、ほとんど友達にあげてきたわ」
「ずいぶん身軽だな」
「研究のデータは持って帰ってきたよ」
「それは持って帰るのか」
「当たり前でしょ」
舞は笑った。
「それが一番大事なんだから」
「お前らしいな」
二人は並んで空港を出た。
*
車に乗り込む。
正人がエンジンをかけた。
「向こうの生活はどうだった?」
「普通だよ」
「普通って?」
「大学行って、研究して、帰ってきて。たまに友達とご飯食べたり」
「ちゃんと食べてたのか?」
「食べてたよ」
「自炊は?」
「それは……まあ」
正人が横目で見る。
「なんだ、その間は」
「忙しいときは簡単なもので済ませてた」
「やっぱりな」
「お父さんだって似たようなものでしょ」
「俺はいいんだ」
「何がいいの」
舞が笑った。
しばらく車を走らせる。
「向こうで、いい人はいたか?」
正人が何気なく聞いた。
「いい人?」
「友達とか」
「いたよ」
「そうか」
「でも、研究の話になると止まらない人ばっかりだった」
「研究者だからな」
「お父さんもだけどね」
「俺はそこまでじゃない」
「自覚ないんだ」
舞が笑う。
少しして、窓の外を見ながら言った。
「……心配してた?」
「何が?」
「私のこと」
「そりゃ心配するだろ」
「だったら、もう少し電話してくれてもよかったのに」
「忙しいと思ってな」
「そういうところだよ、お父さん」
「何がだ?」
「心配してるくせに、言わないところ」
正人は苦笑した。
「お前は昔からよく喋るな」
「お父さんが喋らないからでしょ」
二人の間に、また笑いが起きた。
*
自宅に着いた頃には、日が傾いていた。
舞は玄関に入ると、家の中を見回した。
「何も変わってないね」
「そうか?」
「うん」
「お前の部屋も、そのままだぞ」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、荷物置いてくる」
舞はキャリーケースを引いて、廊下の奥へ向かった。
*
夕食を終えたあと。
舞はリビングで珈琲を飲んでいた。
正人は向かいでノートパソコンを開いている。
「帰ってきた娘より研究?」
「少し確認してるだけだ」
「少しくらい休んだら?」
「お前に言われたくない」
「それもそうか」
舞は笑った。
その視線が、机の端で止まった。
古びた一冊のノート。
正人が昨夜まで読んでいたものだった。
「それ、何?」
「ああ。昔の研究仲間のものだ」
「研究ノート?」
「ああ」
舞は何気なく表紙を見た。
そこに書かれた名前を見て、動きが止まる。
――間宮正司。
「……え?」
「どうした?」
「これ、間宮正司の?」
「ああ」
「本物?」
「本物だよ」
舞は父を見る。
「なんで、お父さんが持ってるの?」
「借りてる」
「誰から?」
「正司の息子だ」
「息子さん?」
「ああ」
舞はもう一度、表紙を見る。
「お父さん、間宮正司と知り合いだったの?」
「昔、一緒に研究してた」
「……聞いてない」
「話してなかったか?」
「聞いてないよ」
舞は呆れたように父を見る。
「私、この人の論文、学生の頃かなり読んでたんだけど」
「そうなのか?」
「物理を目指した頃の、目標の一人だよ」
今度は正人が驚いた。
「正司が?」
「うん」
舞は古びた表紙を見る。
「観測結果がおかしかったら、無理に既存の理論へ合わせない。まず、なんで違うのかを考える」
「そういう奴だったな」
「だから好きだった」
舞は少し笑った。
「こういう研究者になれたら面白いだろうなって思ってた」
「知らなかったな」
「私も、お父さんが一緒に研究してたなんて知らなかった」
舞はノートに手を伸ばした。
「見てもいい?」
「ああ」
表紙を開く。
数式。
図。
天体の名前。
計算途中の数字。
その間には、短い文章がいくつも書き込まれていた。
仮説。
思いついたアイデア。
疑問。
途中で消された計算。
別の可能性を書き足した跡。
「……面白い」
「何が?」
「考えてる途中が、そのまま残ってる」
「正司は、気になったことは何でも書いてたからな」
舞はページをめくった。
完成された論文とは違う。
思いついて、考える。
計算する。
違えば消す。
また別の可能性を考える。
その跡が残っている。
舞はさらにページをめくった。
数式の横に、短い文字があった。
――意識。
「……意識?」
「俺も、そこは気になった」
「何を考えてたんだろう」
「分からん。思いついただけかもしれない」
「そっか」
舞は少し眺めてから、またページをめくった。
やがて、その手が止まる。
余白に、研究とは関係のなさそうな文字があった。
――真司
がんばれ
「……これ、誰?」
「正司の息子だ」
「息子さん?」
「ああ。真司君」
舞は二行の文字を見る。
「何してる人?」
「哲学だ。大学で講義してる」
「哲学?」
舞が顔を上げた。
「物理学者の息子が、哲学か」
「ああ」
舞は少し笑った。
「なんか面白そう」
「そうか?」
「うん。どんなこと考えてるんだろう」
「会ってみるか?」
「いいの?」
「ああ。このノートも真司君から借りたものだからな」
舞は少し考え、頷いた。
「じゃあ、会ってみたい」
「分かった。連絡してみる」
「お願い」
舞はもう一度、ノートへ目を落とした。
――真司
がんばれ
少し眺めてから、次のページをめくった。
*
その頃。
大学の廊下を歩いていた真司が、不意にくしゃみをした。
「……くしゅん」
真司は鼻をすすった。
「風邪かな」
そのまま、講義室へ向かった。




