第7話 才女達の集結
僕はそのまま椎名さんとともに、しばらく空き教室で過ごすことにした。
教室には、ページをめくる音と、窓から入り込む風がカーテンを揺らす音だけが響いている。
誰かと同じ空間にいながら、無理に会話を続ける必要がない。
その静かな時間は思っていた以上に心地よく、昨日負った傷を一時だけ忘れさせてくれた。
「影久なつめくん」
本へ視線を落としたまま、椎名さんが僕の名前を呼ぶ。
「あなたは、本を読む?」
「それなりには。多分、普通の人よりは読んでいると思います」
「どんな本?」
「推理小説や青春小説が多いですね。恋愛小説も、たまに読みます」
「恋愛小説も?」
椎名さんの青い瞳が、僅かにこちらへ向けられる。
「意外でしたか?」
「分からない。あなたのことを、まだ何も知らないから」
率直な言葉だった。
それでも、不快には感じなかった。
むしろ、僕のことを知ろうとしてくれているように聞こえた。
「僕も、椎名さんのことはほとんど知りません」
「なら、同じ」
「そうですね」
「でも、私は……」
椎名さんは言葉を切り、手元の本へ視線を落とした。
「あなたのことを、少し知りたいと思った」
「僕のことを?」
「嫌?」
「嫌ではありません。ただ、僕を知っても面白いことはないと思いますよ」
「それは私が決める」
椎名さんは淡々と言い切った。
「あなたは私の本を守ってくれた。私が大切にしていることにも気づいた。それだけでも、何もない人ではない」
僕としては、目の前で本が汚れそうになったから手を伸ばしただけだ。
けれど椎名さんにとっては、少し違う意味を持っていたらしい。
彼女は胸元に抱いていた文庫本を見つめると、意を決したように僕へ差し出した。
「この本、貸す」
「さっき僕が守った本ですよね?」
「そう」
「大切な本なのでは?」
「大切だから、貸したい」
僕は差し出された本を両手で受け取った。
表紙には、夕焼けの中で寄り添う男女の後ろ姿が描かれている。何度も読まれているのか、角は僅かに擦れていたが、丁寧に扱われていることが伝わってきた。
「どうして僕に?」
「……分からない」
椎名さんの指が、文庫本の表紙へ名残惜しそうに触れる。
「でも、あなたにも読んでほしいと思った。私が好きなものを、知ってほしい」
「分かりました。大切に読みます」
「絶対に?」
「絶対に」
「汚さない?」
「もちろんです。借りた時より綺麗にして返したいくらいです」
「どうして?」
「椎名さんが大切にしているものだからですよ」
僕が答えると、椎名さんは瞬きを忘れたように見つめてきた。
白い頬が、僅かに赤く染まっていく。
「椎名さん?」
「あなたは、そうやって誰にでも言うの?」
「何をですか?」
「大切にするって」
「借りたものなら、誰のものでも大切にしますよ」
「……そう」
椎名さんの表情から、僅かに光が消えた。
期待していた答えと違ったのだろうか。
「でも」
僕は文庫本を胸元へ抱える。
「椎名さんが初めて貸してくれた本ですから、特別に大切にします」
「特別?」
「はい。この本を見るたび、今日椎名さんと話したことを思い出すでしょうから」
その瞬間、椎名さんの瞳へ再び光が戻った。
「忘れない?」
「忘れませんよ」
「明日も?」
「もちろんです」
「ずっと?」
「この本を覚えている限りは」
椎名さんは俯き、制服の裾を強く握りしめた。
「そう」
短い返事だった。
けれど、彼女の耳は赤く染まっている。
「影久なつめくん」
「はい」
「その本、ほかの女の前では読まないで」
「どうしてですか?」
「二人だけの本だから」
僕が理由を尋ねるよりも早く、椎名さんは机から降りた。
「授業が始まる」
「あ、本当だ。椎名さんも戻らなくて大丈夫ですか?」
「戻る」
椎名さんは扉へ向かい、途中で一度だけ振り返った。
「返す時は、私に直接返して」
「当然です」
「誰にも預けないで。絶対に」
「分かりました」
僕が頷くと、椎名さんは僅かに満足そうな顔をし、そのまま空き教室を出ていった。
まるでそよ風のように現れ、そよ風のように去っていく。
ただ、手元に残された文庫本だけが、先ほどの出会いが現実だったことを教えてくれていた。
※ ※ ※
昼休み。
午前中の授業が終わり、僕は昨日の約束を思い出した。
『明日、私のところに来て』
凛花さんからそう言われていた。
一年四組へ向かうため席を立とうとした時、廊下側から大きなざわめきが聞こえてきた。
「姫月さんだ」
「なんで一年二組に?」
「誰かに用事?」
教室にいた生徒たちの視線が、一斉に扉へ向かう。
そこに立っていたのは、姫月さんだった。
普段なら周囲を寄せつけない冷たい表情を浮かべているはずなのに、僕を見つけた瞬間、その顔が柔らかく綻ぶ。
「来たわよ、なつめくん」
「姫月さん」
僕が名前を呼んだだけで、周囲から黄色い悲鳴が上がった。
「名前で呼び合ってる!」
「今朝の噂、本当だったの?」
「姫月さんに彼氏ができたって……」
朝の昇降口での出来事は、すでに学校中へ広まり始めているらしい。
ただし、二人が仮交際であることを知っているのは、僕と姫月さん、そして笹浪さんだけだ。
周囲の生徒たちは、僕たちが本当に恋人同士になったのだと信じている。
「お昼、一緒に食べましょう」
「はい。あ、でも……」
凛花さんとの約束を思い出し、僕は返事を濁した。
その僅かな間を、姫月さんは見逃さなかった。
「何か予定があるの?」
「実は昨日、凛花さんから来てほしいと言われていて」
「立花さんから?」
姫月さんの笑顔が、僅かに固まった。
その瞬間、再び廊下が騒がしくなる。
「なつめくん、やっと見つけた」
人垣を割るようにして現れたのは、立花凛花さんだった。
青みがかった黒髪を揺らし、モデルらしい完璧な姿勢でこちらへ歩いてくる。
「なかなか来てくれないから、迎えに来ちゃった」
「すみません。今から行こうと思っていました」
「本当? 忘れてなかった?」
「忘れていませんよ。凛花さんとの約束ですから」
「……本当に、そういうところだよね」
凛花さんは頬を薄く赤らめ、嬉しそうに僕の肩へ手を置こうとした。
しかし、その手が触れるより先に、姫月さんが僕の腕へ抱きついた。
「なつめくんは、私と昼食を取るの」
「あれ?」
凛花さんが初めて姫月さんの存在に気づいたように、目を瞬かせる。
「姫月さんもいたんだ」
「最初からいたわ」
「ごめんね。なつめくんしか見えていなかったから」
二人とも微笑んでいる。
それなのに、教室の温度が急激に下がった気がした。
「それにしても、随分と距離が近いね」
凛花さんの視線が、姫月さんの絡めた腕へ向けられる。
「朝から噂にはなっていたけど……本当に付き合ってるの?」
「ええ」
姫月さんは迷うことなく答えた。
「なつめくんは、私の彼氏よ」
その言葉が教室へ響いた瞬間、凛花さんの笑顔が完全に固まった。
「……彼氏?」
「そうよ」
「昨日は、そんなこと一言も言ってなかったよね?」
「昨日、交際を始めたのだから当然でしょう」
「昨日……」
凛花さんの瞳が揺れた。
僕の髪を切り、服を選び、明日も会おうと約束した。
その同じ日に、僕が姫月さんと交際を始めたと知ったのだ。
「なつめくん」
「はい?」
「本当に、姫月さんと付き合ってるの?」
凛花さんの声には、いつもの余裕がなかった。
嘘を吐くわけにもいかず、僕は頷く。
「はい。昨日からです」
仮の交際であることは、姫月さんと決めた秘密だ。
笹浪さんには知られてしまったものの、これ以上話すつもりはなかった。
「そう……なんだ」
凛花さんは笑おうとした。
けれど、その口元は僅かに震えている。
「私が綺麗にした日に、別の女の彼氏になったんだ」
「凛花さん?」
「何でもないよ」
彼女は普段どおりの柔らかな微笑みを浮かべる。
しかし、僕の肩へ伸ばしかけた手は、強く握り締められていた。
「なんか、ここだけすごい人だかりじゃない?」
明るい声とともに、軽井沢天音さんが姿を現した。
その隣には、午前中に会った椎名小春さんまでいる。
「天音まで来たのね」
「三郷、そんな嫌そうな顔しないでよ」
天音さんは笑いながら、僕へ近づいてくる。
「影久くん、さっき話の途中で逃げちゃったからさ。昼休みに続きを――」
その言葉の途中で、天音さんの視線が僕と姫月さんの腕へ向けられた。
「あれ?」
次に、密着している姫月さんを見つめる。
「二人って、どういう関係?」
「恋人よ」
姫月さんは、二度目も迷わなかった。
天音さんの表情から、笑みが消える。
「恋人……?」
「昨日から交際しているわ」
「昨日からって……」
天音さんは僕を見つめた。
朝に友達になれて嬉しいと言い、顔を赤くして走り去った少女と同一人物とは思えないほど、弱々しい顔だった。
「そっか。影久くん、彼女できたんだ」
「天音さんには、まだ話していなくてすみません」
「なんで謝るの?」
天音さんは無理に笑った。
「友達なんだから、影久くんに彼女ができたら喜ばないとね」
友達。
その言葉を口にした時だけ、彼女の声が震えた。
「おめでとう、影久くん」
「ありがとうございます」
僕が素直に礼を伝えると、天音さんの表情がさらに曇った。
なぜそんな顔をするのか、僕には分からなかった。
「影久なつめくん」
今度は椎名さんが僕の前へ出る。
「小説の話をする」
「まだ読めていないので、感想は少し待ってください」
「分かった。なら、一緒に読む」
椎名さんはそれだけ言うと、僕の手元にある文庫本へ触れようとした。
姫月さんは僕を自分の側へ引き寄せ、椎名さんの指から遠ざける。
「なつめくんは、私と昼食を取るの」
「あなたは誰?」
椎名さんが無機質な瞳を姫月さんへ向ける。
「なつめくんの恋人よ」
「恋人」
椎名さんは、その言葉を理解するために時間が必要であるかのように繰り返した。
「影久なつめくん。本当?」
「はい」
「……そう」
椎名さんの瞳から、ゆっくりと光が消えていく。
今朝僕へ大切な本を貸し、二人だけの本だと言っていた少女。
その僕に、すでに恋人がいたと知ったのだ。
「恋人がいるなら、私に特別だと言ったのは何だったの?」
「本が特別だという意味です」
「私ではなくて?」
「椎名さんも、大切な本を貸してくれた大切な友達です」
「友達……」
椎名さんは胸元を押さえた。
「私は、友達になりたかったわけではないかもしれない」
「椎名さん?」
「今、分かった」
何が分かったのかを尋ねるより先に、人垣の隙間から笹浪さんが現れた。
僕の周囲に集まる少女たちを一人ずつ確認し、その表情を暗くする。
「なつめくん」
「笹浪さん」
「いつの間に、こんなに敵を増やしたの?」
「敵って……皆さん、僕のことを助けてくれた人たちだよ」
「なつめくんにとっては、そうなんだろうね」
笹浪さんは寂しそうに呟く。
「私にとっては、全員敵だけど」
彼女だけは、僕たちの交際が仮であることを知っている。
それでも、姫月さんが僕の恋人として堂々と振る舞う姿を見るのは、耐え難いものがあるらしい。
「あなたたち」
姫月さんが、一歩前へ出た。
教室を満たしていた喧騒が、一瞬にして静まる。
「人の彼氏へ、彼女の目の前で堂々と言い寄るなんて、恥ずかしくないの?」
その言葉に、周囲から大きなどよめきが上がった。
「本当に彼氏なんだ!」
「姫月さんが自分から言った……」
「昨日まで誰も影久のこと知らなかったのに」
姫月さんは僕の手を強く握ると、他の少女たちへ見せつけるように指を絡ませた。
「行くわよ、なつめくん」
「あ、でも凛花さんとの約束が……」
「恋人との昼食よりも、立花さんとの約束を優先するの?」
姫月さんの瞳に、不安が浮かんでいる。
その顔を見て、僕は彼女をこれ以上傷つけたくないと思った。
「すみません、凛花さん。今日は姫月さんと昼食を取ります」
「……うん」
凛花さんは笑顔で頷いた。
「彼女がいるなら、仕方ないよね」
言葉とは裏腹に、自分の腕へ爪を立てている。
「でも、昨日の約束はなくなってないから」
「また今度、必ず伺います」
「必ず?」
「はい。凛花さんにはお世話になりましたから」
「そっか」
凛花さんの笑顔に、僅かな光が戻る。
「それなら、待ってる。どれだけ時間がかかっても」
僕はほかの少女たちにも頭を下げ、姫月さんと教室を出た。
取り残された天音さんは、自分の胸元を押さえていた。
「友達なら、応援しないと……」
そう言い聞かせるたびに、胸の痛みは強くなっていく。
椎名さんは、僕が持っている文庫本が消えた廊下を、無表情で見つめ続けている。
「恋人がいるのに、二人だけの秘密を作った」
その事実を、どのように受け止めればいいのか分からないようだった。
凛花さんは、僕の髪に触れた自分の指を見下ろす。
「私が見つけたのに」
正確には、以前から僕を知っていた。
それでも、隠れていた顔を表へ出し、服を選び、新しい僕を作ったのは自分だという思いがあった。
「私が格好よくしたのに、姫月さんのものになったんだ」
柔らかな微笑みを浮かべながら、彼女の瞳から光だけが消えていた。
笹浪さんは、僕たちの交際が仮だと知っている。
けれど、その秘密があるからこそ、余計に苦しかった。
「本物じゃないのに」
小さく呟く。
「どうして、本物みたいな顔をしてるの……?」
そして、その一連の光景を、教室の後方から神木さんが見つめていた。
「嘘でしょ……」
昨日まで自分を好きだと言っていた僕が、学校中の憧れである姫月さんの恋人になっている。
そのうえ、ほかの才女たちまで僕を求めて教室へ集まってきた。
「姫月さんが、なんで影久なんかと……」
神木さんの友人が、信じられない様子で呟く。
すると、近くにいた男子生徒が眉を顰めた。
「影久なんかって言い方、失礼じゃね?」
「え?」
「今日話したけど、普通にいい奴だったぞ。先生の荷物も手伝ってたし」
別の女子生徒も頷く。
「私もハンカチを拾ってもらった。すごく優しかったよ」
「見た目も格好いいし、姫月さんが好きになるのも分かるかも」
昨日までなら、誰も僕を庇うことはなかった。
教室の背景として扱われていた僕に対する周囲の印象が、少しずつ変わり始めている。
「……何よ、それ」
神木さんは唇を噛んだ。
自分が価値などないと切り捨てた相手を、周囲が次々と認め始めている。
その現実を受け入れられないように、机の下で拳を握り締めていた。
※ ※ ※
姫月さんに手を引かれ、僕たちは第二校舎の渡り廊下まで移動した。
「ようやく、二人になれたわね」
「大変なことになりましたね。まさか皆さんが一度に来るなんて」
「それは私の台詞よ」
姫月さんは僕を睨む。
「なつめくん。いつの間に、立花さんや天音だけでなく、椎名小春とまで親しくなったの?」
「たまたま空き教室で会って、本を貸してもらっただけです」
「その本を、なぜ抱き締めるように持っているの?」
「椎名さんの大切な本だからですよ」
「彼女のものだから、大切なの?」
「人から借りたものは大切に扱うべきでしょう?」
「そうではなくて……」
姫月さんは何かを言いかけ、諦めたように額へ手を当てた。
「本当に、無自覚なのね」
「何がですか?」
「何でもないわ」
姫月さんは僕の胸元へ額を押しつけた。
「ただ、これ以上敵が増えるのは困る」
「皆さんは敵ではありませんよ」
「私にとっては敵なの」
彼女の腕が、僕の背中へ回される。
「なつめくんは、もう私のものなのに」
「今は誰もいませんけど、仮交際ですよね?」
周囲に人がいないことを確認し、小さな声で答える。
姫月さんの腕に、さらに力が込められた。
「そうやって、すぐに逃げ道を作るのね」
「逃げ道というわけでは……」
「立花さんたちは、私たちが本当に付き合っていると思っている」
「そうですね」
「私まで、本物だと思ってはいけないの?」
声が震えていた。
誰よりも強く、冷たいと思っていた彼女が、僕の返事を恐れている。
「姫月さん」
「冗談よ」
彼女はすぐに顔を上げ、いつもの平静な表情を作った。
「まだ、私たちの仮交際は始まったばかりだもの」
「そうですね」
「あなたは恋人が何をするものなのか、何も理解していない」
「それは認めます」
「だから、私が教えてあげる」
姫月さんは僕の手へ指を絡ませた。
「今度の休日、私とデートしなさい」
「デートですか?」
「ええ。周囲に交際を信じ込ませるためには、必要なことよ」
「なるほど」
「それに」
姫月さんは僕だけへ向けて、甘く微笑んだ。
「あなたを、もっと私の恋人らしくしたいから」
それが仮交際の演技のためだけに告げられた言葉ではないことに、僕だけが気づいていなかった。
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