第6話 新たな才女!? 青春の神様!?
朝のホームルームに間に合わせるため、僕と笹浪さんは第二校舎の空き教室を出た。
さっきまで泣いていた笹浪さんの目元は、まだ少しだけ赤い。それでも表情は落ち着きを取り戻しており、僕の半歩隣を歩いていた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「目、まだ赤いよ。保健室で冷やしたほうが――」
「なつめくんが心配してくれたから、もう大丈夫」
「僕にはそんな力ないよ」
「あるよ」
笹浪さんは小さく呟くと、僕の制服の袖を指先で摘まんだ。
先ほどまでは手を繋いでいたけれど、人目のある廊下では恥ずかしいらしい。
それでも完全に離れるつもりはないようで、僕が歩くたびに袖が僅かに引かれていた。
「ごめんね。朝から色々あって」
「なつめくんは謝らなくていい」
「でも、姫月さんとのことを先に話していれば、笹浪さんを驚かせずに済んだと思うから」
「……姫月さんとのこと」
笹浪さんの指に力が入る。
「仮なんだよね?」
「うん。神木さんを見返すための協力関係みたいなものだから」
「じゃあ、本当の恋人じゃない?」
「少なくとも、今のところは」
僕がそう答えると、笹浪さんは僅かに安堵したように息を吐いた。
「そっか」
「でも姫月さんには、すごく助けてもらったから。仮だからって失礼な態度は取りたくないんだ」
「……そういうところ」
「え?」
「何でもない」
笹浪さんは僕の袖を摘まんだまま、さらに距離を縮めた。
誰かに優しくしてもらったなら、その相手を大切にしたい。
僕としては、それだけの話だった。
廊下の曲がり角へ差しかかった時だった。
「わっ!」
「うわっ!」
勢いよく飛び出してきた人影と正面からぶつかり、僕たちは揃って床へ尻もちをついた。
反射的に相手へ手を伸ばそうとしたものの、こちらも体勢を崩していたため間に合わなかった。
「いたた……ごめん! また周り見てなかった!」
「い、いえ。僕も気づくのが遅くて……大丈夫ですか?」
顔を上げると、そこにいたのは軽井沢天音さんだった。
健康的な褐色の肌に、快活な笑顔。昨日と変わらないはずなのに、こうして近くで見ると、やはり同じ高校生とは思えないほど華やかだ。
「軽井沢さん、手を見せてもらえますか?」
「え?」
「床に手をついてましたよね。擦りむいてないか確認したほうがいいと思って」
僕は先に立ち上がると、軽井沢さんへ手を差し出した。
しかし、彼女はその手を取らず、僕の顔をじっと見つめている。
「……誰?」
「え?」
「いや、君、どこかで会ったことあるよね?」
軽井沢さんは床へ座り込んだまま、僕の顔を様々な角度から確認している。
「絶対に見覚えがあるんだけど……芸能人? モデル?」
「そ、そんなわけありません」
「声も聞いたことある気がするんだよなぁ」
まさか、忘れられているのだろうか。
僕は姫月さんと軽井沢さんから、三日間も告白の特訓を受けた。
声の出し方や立ち方を何度も指導され、軽井沢さんからは校庭を走らされたことまである。
それなのに、髪を切っただけで分からなくなるなんて。
やはり僕は、人の記憶へ残りにくい人間なのかもしれない。
「すみません。軽井沢さんにとっては、その程度の印象だったんですよね」
「え? ちょっと待って。なんでそんな傷ついた顔してるの?」
「いえ、大丈夫です。影が薄いことには慣れていますから」
「なつめくん」
頭上から、笹浪さんの静かな声が降ってくる。
「軽井沢さん。この人、影久なつめくんです」
「……え?」
軽井沢さんが僕を見る。
それから笹浪さんを見て、もう一度僕の顔へ視線を戻した。
「えええええっ!?」
廊下全体へ響くほどの大声だった。
「影久くん!? 本当に!?」
「はい。昨日までの影久です」
「昨日までって、今日から別人になったみたいな言い方しないでよ!」
軽井沢さんは僕の手を取り、勢いよく立ち上がった。
そのまま離すことなく、顔を近づけてくる。
「ちょっと待って。髪を切っただけ? 整形とかしてないよね?」
「してませんよ」
「眼鏡を外したとか?」
「元からかけていません」
「じゃあ、本当に今まで髪で隠れてただけ?」
「そうみたいです」
「もったいなさすぎるでしょ!」
軽井沢さんは僕の肩を掴み、何度も揺さぶった。
「なんで最初からこの顔を出してなかったの!?」
「目立ちたくなかったので……」
「ここまで隠れてたほうが才能だよ!」
軽井沢さんの勢いに圧倒されていると、笹浪さんが僕の腕を自分のほうへ引き寄せた。
「近いです」
「え?」
「顔が近い」
「あ、ごめんごめん。びっくりしちゃってさ」
軽井沢さんは手を離したものの、まだ信じられない様子で僕を眺めている。
やがて、僕の髪型と着慣れない制服の着こなしを見比べたあと、少し気まずそうに眉を下げた。
「もしかして、このイメチェンって……告白の結果が関係してる?」
「……まあ、色々ありまして」
「振られた、の?」
胸の奥へ、鋭い痛みが走った。
悪意がないことは分かっている。
姫月さんからも、軽井沢さんは嘘の告白へ関わっていないと聞いている。
それでも、神木さんたちによってつけられた傷は、まだ塞がっていなかった。
僕の表情から何かを察したのか、軽井沢さんの顔から笑みが消える。
「ごめん。今の、聞かないほうがよかったよね」
「軽井沢さんが謝る必要はありません」
「でも……」
「心配して聞いてくれたんですよね。だったら、嬉しいです」
僕は軽井沢さんへ笑いかけた。
「事情は、まだ上手く話せないんです。でも、気にかけてもらえただけで、少し楽になりました」
「影久くん……」
「それに、軽井沢さんと姫月さんが特訓に付き合ってくれたことは、無駄じゃありませんでした」
結果として告白は嘘だった。
それでも、二人が僕のために時間を使ってくれたことまで無意味だったとは思いたくない。
「誰かが僕を応援してくれることって、こんなに嬉しいんだって知れましたから」
軽井沢さんは目を丸くしたまま、黙り込んだ。
何かおかしなことを言っただろうか。
「軽井沢さん?」
「……ほんと、ずるいなぁ」
「え?」
「何でもない!」
軽井沢さんは自分の頬を両手で叩くと、いつもの明るい笑顔へ戻った。
「とにかく、何かあったら相談してよ。話を聞くくらいなら、いつでもできるから」
「いいんですか?」
「もちろん。私たち、もうただの知り合いじゃないでしょ?」
軽井沢さんは少し照れくさそうに、鼻の下を指で擦った。
「友達なんだからさ」
友達。
その言葉が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。
これまで僕には、友人と呼べる存在がほとんどいなかった。
笹浪さんが初めてできた友達で、それだけでも十分に幸せだと思っていた。
その僕に、また新しい友達ができた。
「ありがとうございます」
嬉しさを隠しきれず、自然と笑みが零れる。
「軽井沢さんみたいに明るくて、綺麗で、それに優しい人と友達になれるなんて思っていませんでした」
「き、綺麗!?」
「はい」
「そ、そこ即答するところ!?」
「軽井沢さんが綺麗なのは事実ですよね?」
「いや、まあ、言われることはあるけど……」
「それに、僕が落ち込んでいると気づいた時、すぐに謝ってくれました。軽井沢さんは、人の気持ちを考えられる優しい人だと思います」
僕は自分の気持ちを、そのまま言葉にしただけだった。
しかし、軽井沢さんの顔は見る見るうちに赤くなっていく。
「本当に、軽井沢さんと会えてよかったです」
「……っ!」
「これから、友達としてよろしくお願いします」
軽井沢さんは口を何度も開閉させた。
「わ、私も!」
「はい?」
「私も、影久くんと友達になれて嬉しいから!」
叫ぶように言い残し、軽井沢さんは突然走り出した。
「ちょっと軽井沢さん! 廊下は走ったら危ないですよ!」
「ごめん! でも今は無理!」
「何が無理なんでしょう……」
あっという間に遠ざかる背中を見送りながら、僕は首を傾げた。
もしかすると、ホームルームに遅れそうだったのかもしれない。
「なんで僕から逃げるように行ってしまったんだろう」
「なつめくんのせい」
隣から低い声が聞こえた。
「僕のせい?」
「何でもない」
笹浪さんは不満そうに頬を膨らませている。
「ごめん。僕、何か嫌なことした?」
「私以外の女の人に、あんなこと言わないで」
「あんなこと?」
「綺麗とか、優しいとか、会えてよかったとか」
「でも、本当に思ったことだから」
「だから嫌なの」
笹浪さんは僕の袖を強く引っ張った。
「私にも言って」
「笹浪さんにも?」
「うん」
僕は少し考えた。
軽井沢さんに伝えたのと同じ言葉では、笹浪さんに対して抱いている感謝を表現しきれない。
「笹浪さんは、僕にとって特別だよ」
「特別……?」
「僕が一人だった時、最初に友達になってくれたから」
笹浪さんの瞳が大きく見開かれる。
「だから、ほかの誰かと比べられないくらい大切だよ」
「……やっぱり、なつめくんのせい」
「今度は何が?」
「心臓がおかしくなるの」
笹浪さんは僕の腕へ額を押しつけた。
具合が悪くなったのだろうか。
「保健室に行く?」
「行かない。なつめくんがいれば治る」
「僕、薬じゃないよ」
「薬より効く」
冗談にしては真剣な声だった。
僕はよく分からないまま、彼女の歩調に合わせて教室へ向かった。
※ ※ ※
一年二組の教室が近づくにつれ、足取りが重くなっていった。
昨日、神木さんから嘘の告白を受けた。
その場には彼女の友人もいた。
もしかすると、僕が浮かれて告白を受け入れたことは、すでにクラス中へ広まっているかもしれない。
教室の前へ到着したものの、扉へ伸ばした手が途中で止まった。
指先が震えている。
扉の向こうから聞こえる笑い声が、昨日の嘲笑と重なった。
僕が入った瞬間、全員がこちらを見て笑い出すのではないか。
そう考えただけで、息が苦しくなる。
「なつめくん」
笹浪さんが僕の手へ、自分の手を重ねた。
「大丈夫?」
「……うん」
「大丈夫じゃない顔してる」
「でも、入らないわけにはいかないから」
僕は無理に口角を上げた。
きっと、不格好な作り笑いだったと思う。
それでも今は、笑っていなければ心が崩れてしまいそうだった。
「何かあったら、私がいるから」
「ありがとう」
「ずっと隣にいる」
「心強いよ」
僕は一度深く息を吸い、教室の扉を開けた。
中へ入った瞬間、複数の視線がこちらへ集まる。
笑われる。
そう覚悟した。
けれど、予想していた嘲笑は聞こえてこなかった。
クラスメイトたちは、普段どおり友人同士で話している。
誰も僕が昨日傷つけられたことなど知らないようだった。
神木さんたちは、まだ誰にも話していないらしい。
ほっと息を吐いたのも束の間、今度は別の理由で教室がざわつき始めた。
「ねえ、あの人誰?」
「一年二組にあんな人いた?」
「転校生じゃない?」
一人の女子生徒が僕の前へやってくる。
「ねえ、君、転校生?」
「いえ、違います」
「じゃあ、誰かに用事があるの?」
「このクラスの生徒なんですけど……」
「えっ?」
女子生徒が驚いた直後、別の生徒が僕の顔を見て声を上げた。
「あ! もしかして、姫月さんと付き合ってるって噂の人?」
「もう噂になってるんですか?」
「今朝、昇降口で腕組んでたでしょ!」
「姫月さんが笑ってたって、本当?」
「どっちから告白したの?」
「名前は?」
瞬く間にクラスメイトたちへ囲まれた。
普段は僕が教室へ入っても、誰一人として気づかない。
それなのに今は、女子生徒だけでなく男子まで僕を見に集まっている。
「ちょ、ちょっと待ってください。一度に聞かれても……」
「本当にこのクラスの人なの?」
「影久です。影久なつめ」
「影久!?」
僕の名前を聞いた瞬間、周囲から驚きの声が上がる。
「嘘でしょ!?」
「あの前髪長かった影久?」
「顔、全然見えなかったもんな」
「こんな顔だったのかよ……」
好奇の視線にさらされ、逃げ出したい気持ちになった。
すると、笹浪さんが人垣を押し退け、僕の腕へしがみつく。
「なつめくん、困ってる」
「笹浪さん?」
「近づかないで」
普段の彼女からは考えられないほど強い声だった。
「え、笹浪さんって影久と仲よかったの?」
「毎日一緒にいる」
「もしかして笹浪さんも影久のこと――」
「おーい、お前ら。ホームルーム始めるぞ」
その時、担任が教室へ入ってきた。
僕を囲んでいた生徒たちは、不満そうな声を漏らしながら自分の席へ戻っていく。
僕もようやく解放され、自分の席へ腰を下ろした。
教壇へ立った先生が出席簿を開き、何気なく教室を見渡す。
そして、僕のところで視線を止めた。
「……誰だ、お前」
「先生までですか」
「いや、すまん。来客かと思った」
「影久です」
「影久……影久なつめか!?」
先生の驚きに、教室中から笑い声が上がった。
嘲笑ではない。
純粋に、先生の反応を面白がっている声だった。
それでも昨日のことを思い出し、一瞬だけ体が強張る。
そんな僕へ、隣の笹浪さんが机の下から手を伸ばし、小指を絡めてきた。
大丈夫。
言葉にはしなかったものの、彼女の指からそう伝わってくる気がした。
僕は小さく息を吐き、絡められた指を握り返した。
教室の後方では、神木さんとその友人たちがこちらを見ていた。
友人の一人が、信じられないように僕を指さしている。
「ねえ、あれ本当に影久?」
「……そうみたい」
神木さんは短く答えた。
昨日まで僕を見下していた瞳が、今日は落ち着きなく揺れている。
僕と目が合うと、彼女は気まずそうに視線を逸らした。
けれど、すぐにまたこちらを見た。
まるで自分が捨てたはずのものに、思いがけない価値があったと初めて気づいたような顔だった。
※ ※ ※
ホームルームが終わり、一限目の授業まで終わったところで、再び僕の席へ人が集まり始めた。
髪を切った理由。
姫月さんとの関係。
昨日まで顔を隠していた理由。
次から次へと質問され、頭が混乱する。
僕は休み時間の終了を待つことができず、隙を見て教室から抜け出した。
「少しだけ、一人になろう……」
いつも笹浪さんと使っている第二校舎の空き教室へ行けば、彼女が追ってくるかもしれない。
今の笹浪さんを嫌っているわけではない。
ただ、考えを整理する時間が欲しかった。
そのため僕は、普段使っていない別の空き教室へ向かった。
扉を開けると、カーテンの隙間から差し込む朝日が、静かな教室を照らしていた。
「ここなら、少し休めそうだ」
誰もいないと思い、窓際の席へ腰を下ろそうとする。
「どうしちゃったんだ、僕の学校生活……」
髪を切っただけで、昨日まで誰にも見向きもされなかった僕が、突然注目を集めるようになった。
姫月さんとは仮交際を始め、笹浪さんからは特別だと訴えられ、軽井沢さんには友達だと言ってもらえた。
少し前の僕なら、きっと夢だと思っただろう。
「誰?」
不意に、美しく澄んだ声が聞こえた。
「え?」
誰もいないと思っていたため、思わず肩を跳ねさせる。
声がした教室の奥へ視線を向けると、窓際の机に一人の女子生徒が腰かけていた。
腰まで届く白銀の髪。
透き通るように白い肌。
少女は陽光を浴びながら、一冊の小説を読んでいた。
人形のように整った顔立ちには大きな感情がなく、青みがかった瞳だけが静かに僕を映している。
「見ない顔だね」
少女は本へ栞を挟み、ゆっくりと閉じた。
「何年生?」
「あの、僕は一年生です」
「一年生?」
彼女は机から降りると、僕の前まで歩いてきた。
感情の薄い瞳で、僕の顔をじっと観察している。
「あ、あなたは……」
僕は彼女を知っていた。
椎名小春さん。
姫月さん、軽井沢さん、立花さんに並び、『五人の才女』と称されている少女の一人。
一年生でありながら、入学直後の実力試験で上級生を含む全校上位の成績を収めたという才女だ。
授業以外では滅多に人前へ姿を現さず、誰かと親しく話すこともない。
白い髪と浮世離れした容姿から、『白銀の賢姫』と呼ぶ者までいる。
「私を知っているの?」
「有名ですから」
「そう」
椎名さんは興味を失ったように答え、本を開こうとした。
その時、机の端に置かれていた紙パックの飲み物が傾いた。
「危ない」
僕は反射的に手を伸ばし、倒れる直前で紙パックを掴んだ。
中身はまだ入っていたらしく、少しでも遅ければ小説へ零れていたはずだ。
「よかった。大切な本が汚れるところでしたね」
「……どうして分かったの?」
「何がですか?」
「これが大切な本だって」
椎名さんは、僕の手元にある小説を見つめている。
「何度も読まれているみたいなのに、傷まないよう丁寧に扱われていますから。それに、栞も手作りですよね」
本から覗いている栞には、不格好な花の刺繍が施されていた。
椎名さん自身が作ったものなのか、それとも誰かから贈られたものなのかは分からない。
ただ、大切にしていることだけは伝わってきた。
「勝手に触ってすみません」
僕は紙パックを倒れにくい場所へ置き、小説を彼女へ返した。
「でも、汚れなくてよかったです」
椎名さんは本を受け取らなかった。
僕の顔を、瞬きもせず見つめている。
「椎名さん?」
「あなた、名前は?」
「影久なつめです」
「影久、なつめ」
確かめるように、彼女は僕の名前を口にした。
「覚えた」
「ありがとうございます?」
「お礼を言われることではない」
椎名さんはようやく本を受け取ると、胸元へ強く抱きしめた。
「ここは、私しか来ない場所だった」
「すみません。すぐ出ていきます」
邪魔をしてしまったらしい。
僕が扉へ向かおうとすると、制服の裾を掴まれた。
「待って」
「え?」
「出ていけとは言ってない」
椎名さんは僕の裾を掴んだまま、僅かに俯いた。
「静かにできるなら、いてもいい」
「本を読む邪魔になりませんか?」
「あなたは、うるさくなさそうだから」
「それなら、少しだけお邪魔します」
僕が近くの席へ腰を下ろすと、椎名さんも元いた窓際の机へ戻った。
再び小説を開いたものの、先ほどから一度もページが進んでいない。
「影久なつめ」
「はい?」
「明日も、ここへ来る?」
「分かりません。今日はたまたま来ただけなので」
「そう」
短い返事だった。
けれど、その横顔がほんの僅かに曇った気がした。
「でも、椎名さんが迷惑でなければ、また来てもいいですか?」
彼女はすぐには答えなかった。
長い睫毛を伏せ、本の表紙を指先で撫でる。
「好きにすればいい」
「ありがとうございます」
「ただし」
椎名さんの青い瞳が、真っ直ぐに僕を捉えた。
「ほかの人には、この場所を教えないで」
「分かりました。二人だけの秘密ですね」
「……二人だけ」
その言葉を呟いた椎名さんの頬が、僅かに赤く染まる。
しかし僕は、窓から差し込む朝日のせいだと思っていた。
恋の神様など、もう信じていない。
それでも、青春の神様とやらは、傷ついたばかりの僕へ休息を与えるつもりなどないらしい。
僕の知らないところで、新たな少女の心にも、小さくて重い何かが芽生え始めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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