不思議な力
俺には不思議な力がある。そのせいか、よくわからない体験をしたことも多い。
ただし、頭のおかしい人間だと思われるのが関の山なので、この話はあまり人に話したことはない。
職場の同僚にも家族にも秘密にしているし、SNSなんかにそんなことを投稿してしまった日には『友達』の数は激減してしまうだろう。
だからこのことを知っているのは、俺の周りでもごく一部の人間だけなのである。
最初にこの『不思議な力』に気がついたのは、高校二年生になりたての春のことだった。
○
日本では年間に8万人近くの行方不明者が出るという話が、携帯電話のディスプレイに映っていた。曰く、その殆どは年内に戻ってくるのだけど、一部の人間は帰ってくることは無いらしい。
犯罪組織によるものなのか、宗教によるものなのか……理由はわかる由も無いが、俺の場合は運良く戻ってくることが出来た。
俺、久喜輝は、高校一年生の終業式を目前にして姿をくらましたのだそうだ。
「よう、今日も眠そうだな」
朝の騒がしい教室でその行方不明者の特集記事を読んで物思いに耽っていた俺は、声をかけられて携帯電話から顔をあげる。
隣の席に座る同級生の男は屈託なく笑い、俺が見ていたディスプレイを覗き込んできた。
「何だ? エロいサイトでも見てんの?」
「見てねえよ」
俺は咄嗟に携帯電話を引っ込める。隠したら気になってしまうのは人間の性だ。同級生の男は俺の隙をついて携帯電話を俺の手から奪い取る。
「なになに……。……あー」
「やめろって、赤田」
俺は素早く彼の手から携帯電話を奪い返す。同級生の男、赤田は、バツの悪そうな表情で頭を下げる。
「流石に、悪かった……。そりゃ、気になるよな……」
「いいよ、別に……。なんというか、減るもんじゃないし」
俺は奪い返した携帯電話を操作して、先程まで見ていた記事を閉じる。そしてディスプレイ上部に映っている現在時刻を見て、赤田に笑いかけた。
「それより、そろそろホームルーム始まるぞ」
「そうだな……って、あ、やべ。ちょ、隣のクラスのやつに教科書返してくるわ! 忘れてた~」
彼はそう言うとカバンを机に置いて中をまさぐり、数学の教科書を掴んで教室を駆け出ていった。
慌ただしい様子を横目に、俺は教室を見渡す。
殆どの生徒が席につき、周囲の級友と無駄話をしている。もしくは携帯電話を操作して何かを見ている。ありふれた、日常の光景。
俺は窓の外へと視線を移す。五月に差し掛かろうという時期故か、日々暖かくなっていく。つい最近まで冬だった気がするのは、……気のせいでは無いだろう。
「『忘れてた』ね。行方不明者の中には、記憶まで不明の人間は何人いるかな……」
俺には二月の末から四月の半ばまでの、行方不明になっていた時期の記憶が無い。
高校一年生の終業式が近づいてきた冬の日、二月某日。気がついたら俺は病院のベッドの上にいて、カレンダーは四月になっていた。何も覚えていないが『何か』があったのは事実なのだろう。その後病院での精密検査や、警察の事情聴取が行われたものの、真相が判明することは無かった。
わかったことと言えば――これも不思議な話なのだが――全くの健康体だったこと。そして、着ていた服はどこで作られたかわからない総天然素材のオーダーメイドだったということ。
警察の人間は早くもさじを投げ、重篤な解離性遁走でも患ったのではないかという判断となった。おかげで定期的に精神科でカウンセリングを受ける羽目になっている。
「セーフ、先生、まだ来てないみたいだな」
慌てた様子の赤田が隣の席に乱暴に座り込む。「焦らなくても、少し遅れるくらいなら大丈夫でしょ」と言う俺に、彼は「不真面目さんだな」と返してきたので、「不登校だったからね」と言ってやる。
笑って良いのか悪いのかの判断がつかなかったのか、赤田は引きつった笑顔もどきのような複雑な表情をしていた。
幸運なことに失踪期間は春休みと完全に被っていたこともあり、授業の遅れも殆ど無かった。
昨日までは別の教室で補講を受けていた俺も、今日からは同じ教室で授業を受けることになる。
ホームルームではそのようなことを若い女性の先生が説明する。クラスメイト達の反応は芳しいものでは無かったが、学級委員の藤谷という男だけはその重たい空気をかき消すように盛大に拍手をしていた。
そして、その日の体育で、俺は自分の持つ『不思議な力』を自覚することとなった。
暖かい日差しの中、学校指定のジャージに着替えた俺は校庭でひとり準備体操をしていた。
体育教師曰く、まだ体力測定をしていないのは自分だけなのだそうだ。
身の入らない軽いストレッチをしながら脇の方を見ると、クラスの人間たちがサッカーに興じている。俺の体力測定に時間を割いている間は自由練習を行うんだそうだ。
「さ、準備は良いか? まずは握力から測ろうか」
体育教師に握力計を渡されて、目を閉じ、握り込む。すると、教師から感嘆の声が飛び出てきた。驚いた俺は思わず力を抜いて、目を開く。
「す、すごいな。70キロか」
「へ? いや、そんなはずは……」
運動については平均より少しマシ程度の能力しか無かった俺の、昨年の握力は30キロ半ばほどだ。これは、覚えている。記憶喪失の人間の記憶の信憑性は低いかもしれないが、横にいる体育教師の反応を見るに、想像以上の数値であったことは事実のはずだ。
上昇したのだから素直に喜べばいいのかもしれないが、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
記憶を失っている内に、自分は何をしていたのだろうか。延々と筋力トレーニングに耽っていたのだろうか。……考えづらい。それに、二ヶ月やそこらでここまで鍛えられるものではない。
それであれば……記憶が間違っているのだろうか?
この体は、本当に自分のものなのであろうか?
行方不明前と後の人格が、同一のものであると示せる証拠は?
この記憶すら、本当に自分のものなのであろうか?
薄気味の悪い想像だけが脳裏にぐるぐると巡る。だが、俺はその疑問に答えを出さず、心を閉ざした。
「故障かもしれないですね。もう一度測ります。貸してください」
俺は体育教師から握力計をひったくり、その側面を二度ほど叩いてから今度は目を開けたままで握る。メモリを盗み見て、40キロのタイミングで止めた。
「42キロ、だな……。測定機材もそろそろ駄目ってことか……」
体育教師は少し落ち込む素振りを見せながらも、俺の記録を書き直していく。俺は愛想笑いを浮かべながら、その後の体力測定も手を抜いて過ごした。
現実の否定だった。自分の感覚や記憶に近い数字を、虚構の現実を作り上げる。
経験のある人は多いのではないだろうか。試験前にあえて勉強をせずに、低い点数を取る行為。
あれはセルフ・ハンディキャッピングというのだと、最近通うカウンセラーに聞いた。自分の自意識やプライドにそぐわない結果が出てしまう可能性がある状況に対して、自分から失敗するように自分を追い込み、『本当の実力ではない』と安堵するのである。
あの行為の本質は、自意識と現実のすり合わせだと思う。
そうであれば、俺の行動もきっとそれに近い行動だ。
自意識と現実をすり合わせる――それは、俺のように記憶を無くし、自己を確立できない人間にとっては救いのような手段だった。
それもこれも、記憶に空白の二ヶ月間が存在しているからである。
記憶を、取り戻さねばならない、と強く思った。
○
俺は放課後になるとすぐに、駅前の『加茂山クリニック』というメンタルクリニックへ赴いた。
高校時代の、特にこの時期の俺には相談相手というのがまともにおらず、記憶を取り戻したいと思っても頼れるのは結局の所カウンセラーであった。
クラスの中に知り合いがいないわけではないが、行方不明者になる前、一年生の頃に仲良くしていた藤谷という学級委員の男子や、新山という女子とは大きな揉め事を起こしてしまって以来、疎遠になっていた。
そのことについてはこの春に無事また同じクラスに戻ってこれた直後のタイミングに頭を下げて、謝罪した。許してくれたかはわからないところだが、どちらにせよ、一度信用を失ってしまった以上、以前のような付き合いには戻れないのだろう。
だから現状、唯一、赤田という隣の席の男子くらいのものである。俺と教室で話しているのは。
「友達がいないのが原因だってことかい? 君の記憶が戻らないのは」
白衣を着た三十代くらいの男が俺の座るテーブルの対面でその無精髭を撫ぜる。彼は笑いジワのある目元により濃いシワでも刻もうかと微笑む。
「友達なら僕がいるじゃないか」
「加茂山先生はカウンセラーで、俺は患者ですが」
俺はアロマか何かの匂いの漂うカウンセリングルームで、しかめっ面を返した。
週に二回、カウンセリングの診察を入れている。それは、失った記憶に対する警察側のアプローチの一つだ。加茂山先生は警察も懇意にしているという実績のあるカウンセラーであり、普段は凶悪犯罪の被害者に対して救いの手を伸ばしているらしい。
今の彼の態度から、その敏腕ぶりは見えてこないが。
この日、丁度カウンセリングの予定を入れていたので、俺は自分の記憶について、相談しようと思ったのだ。そのための前振りとして「相談がある」と話したら「恋の悩みはクラスの友達にしたほうがいい」と返された。
そこで、「相談できる友達がいない」と言ったらこの様である。
「前から思っていましたが、加茂山先生、始めっから俺の対面に座り込んで話すし、易易と『友達』とほざくし、俺のこと、ちゃんとカウンセリングする気あります?」
これは聞いた話だが、カウンセラーは患者と話すとき、ストレスを与えないようにテーブルの対面には座らないらしい。それに、依存されてしまうのを避けるために、関係性の距離感をしっかり定めるんだとか。
しかし、加茂山先生はへらへらと笑いながら、テーブルに置いてあるコーヒーに手を伸ばした。
「断片的な知識はあるみたいだね。少しずれているが、そこまで調べたのならご褒美に教えてあげよう」
加茂山先生はコーヒーを口元に持っていって傾ける。マグカップの底面に描かれている何かのキャラクターの顔がちらりと覗く。
「そろそろ伝えようと思っていたが、君、何も患っていないんだよねえ。はじめから」
「は……?」
コト、とマグカップが木製のテーブルに置かれる硬い音が響く。それ以外は、水の流れる環境音が響くカウンセリングルームで、加茂山先生はたっぷりと時間を作って微笑んでから続けた。
「馬鹿にしないでくれ。こう見えても本気でこの仕事をやっているんだ。その人の心が『正しい位置』にあるかどうか、わかるつもりだ」
「じゃあ、なんで、ここまでカウンセリングを続けさせたんですか?」
「そりゃ、警察から任されてる案件は金にもなるし、僕も休憩代わりになるしね」
信じられない。確かにお金は警察から出てるとかで、俺からは払っていない。とはいえ、態々駅前のクリニックまで時間を作って通ってきたんだ。休憩代わりと言われるのはたまったものではない。それに……。
「休憩はいいとして……。じゃあ、俺の記憶は何なんですか? 忘れているのが『正しい位置』だとは思えないのですが」
「そうだね。正しくはない。だけど、原因は心じゃないんだよ。久喜くん。君の場合はね」
「心じゃないなら、脳ミソとか脳内物質とかの器質的な問題ですか? だったらさっさと脳神経外科やら心療内科やらに行ったほうがいいんじゃ……」
「そっちでもないね。原因は」
「だったら何が!」
つい、声が大きくなる。真面目にやっているようには見えない加茂山先生に対しての苛立ちではない。記憶がない不安を、ただぶつけてしまった。
俺は恥ずかしくなって加茂山先生から視線を外す。加茂山先生の方から、相変わらずの笑う声が聞こえた。
「ほら。今のやり取りはもったいぶる僕が悪いのに、君はすぐに反省している。心も性格も、これ以上なく健全だよ。だから、問題があるのはね、そうじゃないんだ」
加茂山先生の方へ視線を戻すと、彼はコーヒーに人差し指を浸していた。
……何をやっているんだ。
「春になったとはいえ、夜が近づくとまだまだ冷える。だからコーヒーも熱いほうがいい」
そう言いながら、彼はすっかり冷めているマグカップを中心にして、人差し指についたコーヒーでテーブルに円を描いていく。
「はあ……」
児戯の如き行いに咎める気力も起きず、俺は彼の指を目で追う。
「君は暖かいコーヒーと冷たいコーヒー、どっち派?」
「そもそもコーヒー、苦手です」
俺の目の前に置かれているのは紙コップに入った冷たいお茶。受付で飲み物を聞かれて、コーヒーはやめてくれと頼んでいるからだ。
加茂山先生は「そうかそうか」と苦笑する。そして、マグカップを囲んでコーヒーの線による円の様な文様を描き上げると、マグカップに手をかざした。
「まだまだ子供だね。まあ、大人になったら熱いコーヒーの味もわかるさ」
直後、オレンジ色の淡い光がコーヒーの先からほとばしる。光は数秒で消えて、彼はマグカップを手にとった。持ち上げられたマグカップからは、白い湯気がたなびいていた。
俺は思わず立ち上がる。
「え……?」
さっきまで冷めていたはずだ。見間違えか? 一体何が起こった。
「……は、は。面白かったですよ。マジックできるんですね」
俺はそう結論づけた。どうやったかはわからないが、一杯食わされたのだろう。
加茂山先生はゆっくりとコーヒーを口に持っていき、すする。それから笑う。
「マジック……ね。手品ではなく、魔法という意味であれば、あっているよ」
おふざけが長いな。……からかわれている。
俺はため息をついてから、再び席に座る。
「もう勘弁してください。……それで、魔法と見紛う様な先生の手品と俺の記憶にどんな関係性があるんですか」
俺は苦笑しながら加茂山先生をにらみつける。
「まさか、脳神経外科ではなく、神社や教会にでも行けと?」
「いや、生憎僕には『力』のある宗教家の知り合いはいないのでね」
加茂山先生は急に立ち上がり、俺の反応出来ない速さで詰め寄ってきた。そして、びっくりしている俺の脇を掴んで立ち上がらせ、カウンセリングルームの中央に敷かれている絨毯の上に立たせた。
「ちょっと、急に何を……」
「記憶を取り戻したいだろう? じっとしていなさいね」
そして彼は屈み込み、俺の足元にある絨毯に両手を触れる。すると絨毯が先程のコーヒーの線と同じくオレンジ色に光り出した。
同時に、俺の胸元に強い痛み。胸を抑えてひざまずいていると、気がつけば絨毯の光は消え去っていた。
それから、加茂山先生は何もなかったかのごとく、テーブル再び座る。
「なんですか、今の……」
何もなかったかのごとく、絨毯の光と同様に消えてしまった胸元の痛みと、何もなかったことには出来ない頭の中の混乱を抱いた俺は、絨毯の上から慌てて離れてから、遠巻きに加茂山先生の様子を見る。
短く切った前髪から覗く額に、脂汗が浮いていた。
「今日、君は意図的に魔法を使ったね。記憶を失ってからははじめてのことだろうな。だから、魔力の残り香があった。それに解呪の魔法陣を反応させてみたんだ。残念ながら、効果は薄かったみたいだがね」
「魔力? 解呪? どういうことだ?」
急な話についていけない。
俺の混乱は傍目から見てもわかりやすかったのだろう。加茂山先生は笑顔で右手の指を三本立てた。
「久喜くん。君は混乱しているね。だから、単純化しよう。今回覚えるのは三つだけだ。一つは、今日でカウンセリングは終わりであるということ。二つは、僕じゃ力になれなかったみたいだということ。最後に……『君にもある』この力と出来事は、なるべく隠しておくこと」
その後、カウンセリングの時間が終わったとか何とかという理由で、よくわからないまま俺は加茂山クリニックを追い出されてしまった。
今にして思えば。ここからである。俺にもあの時の加茂山先生がコーヒーを温めたような『不思議な力』に近いものを持っていると気づくことになったのは。
学生という立場を卒業し、社会に出た今も、度々思い出す。だけど肝心の記憶は、未だに取り戻せていないこともここに記しておきたい。
そして、もう一つ。
高校生の頃の俺はこの日から、妙な夢を見ることが多くなったのだ。