第34章 人造の悲劇、運命の糸(1)
◇◇◇◆◆◆◆
この話は、今から遡ること6年前、【再歴267年「推定西暦2467年」】東欧地方、内陸部の紛争地域にて__
「パパ……? ママ……? どこに……いるの……? どうして……ここ……真っ暗なの……? 何も……見えない……よ……?」
緊急仮設病棟のベッドの上で、その少女は咽び泣きながら、両親の助けを求めていた。
部屋の照明は眩しいほどに明るく、周囲には医師も看護師も、国際医療スタッフまでもが取り囲んでは、少女の凄惨な様相に涙を滲ませる。
「……なんという悲劇だ! この娘の目は……もう……!」
隣国から派遣された中年男性の主治医、ロベルト=ヘレンズケラーは、暗く、虚ろに目の泳ぐ絶望の顔で、掠れ声で助けを求める少女を前に、力なく項垂れていた。
彼の目の前で横たわる幼き少女は、失った両目を分厚い包帯で覆い隠され、その布は真っ赤な鮮血が滲み出ている。
「いえ、先生……! 恐れながら……彼女はまだ……救いがあった方だとは思います……!
だって……ここに搬送された他の患者は……もう……!」
傍らで立ち尽くす若い新米の看護師が、同じく沈んだ表情で涙を滴らせたまま、震える声で主治医ロベルトに告げる。
「ねぇ……パパ……ママ……? 痛い……暗い……ここ……どこ……? 助けて………助けて……」
自分の身に何が起きたのか理解できず、少女は身体の弱り果てた、掠れた声で助けを求め続けている。
辺りを支配するは絶望の渦__
そんな潰れかけた人々の心を打ちのめすように、今度は若き女性医師が病室へ飛び入り、彼等に〘現実〙を伝達する。
「……先生……! たった今ですが……収容された危篤患者のうち……新たに28名の死亡が……確認されました……!
恐らくは……その中にこの少女の両親も………!」
「……そうか、なんとなく……そうなるとは思っていたよ。
もう……我々医師団が何をどう足掻こうが、結果は目に見えている……!
あの〘兵器〙だ……あれが人を殺しすぎた……!!」
次の瞬間__
主治医ロベルトは唐突に少女の元を離れ、憔悴しきった精神に操られるがまま、即座に病棟を立ち去った。
現実に堪えきれず、助手達の静止も耳に入らず、あてもなく駆け出していった。
__仮設病棟の廊下を通り過ぎていくも、視界のは全て酷い光景しか映らない。
辺り一帯は、重傷患者を乗せた無数のストレッチャーが、病棟に収まらず、命が尽きようとする人々を乗せるそれが、乱雑に散らばって置かれていた。
患者から流れ出る血で、足場は赤く染められている。
その周囲で、人手の少ない医療スタッフ達が、目を腫らし、倒れそうな表情のまま、すれ違って駆け抜けていく。
己の体力を犠牲に、限られた医療器具で、治療薬で、慰め程度の応急処置を必死に施す、その姿が至る所にあった。
だが、無惨にも__
彼等の努力を嘲笑う真の地獄が、その病棟を抜け出した外の市街地にこそ、無数に広がっていた。
天を見上げれば、灰色の大空__
地を見渡せば、焼け爛れて倒壊と瓦礫の回廊と化した、かつて繁華街であった大通り__
無数に横たわる、遺体、残骸、その大量の山と納体袋__
「ゔぅ……ぉあぁぁあぁ……!! あ"ぁあ"ぁぁ……!!」
ついに激情が溢れ出し、ロベルトは膝をついて泣き叫ぶ。
「……オイこらァ! そこのお前!! 無防備で市街を歩き回るな!! 死にたいのかァ!!?」
前方から、全身を迷彩色の特殊防護服で覆った男性兵士達が3人、その主治医の元に近づいてくる。
彼等は肌1つ一切の露出も許さず、黒く分厚い重装備服で覆われ、その者達の顔すら特殊マスクで分かりはしない。
「不用意に“中心街”へは近づくな! まだ【細菌兵器】の除染作業が全く進んでいない……!
そんな軽装で出歩けば助からん! この周囲で横たわっている連中と同じ末路を辿るぞ!!」
苛立って近づいた重装備の兵達は、徐に主治医の顎を右掌で乱暴につかみ取り、無理矢理に彼の視線を灰色の地面に向けさせた。
目を塞ぎたい光景が、嫌でも瞼に焼きつけられる。
人々の惨たらしい死屍累々が横たわったり、転がったり、散らばったり、そして積み上げられていた。
過半数の遺体は麻布や土砂袋が覆い被せられ、その姿を見えないよう処置をされていたが、その隙間から覗ける手首や足、頭皮の一部の様子は、まさに凄惨な変死体のそれ。
まるで有害物質が付着して、皮膚や繊維が焼け爛れたか、赤黒い血に塗れている。
布で覆い隠された全身がそうであろう。熱か酸かで溶かされたように、その原型は確実に留まっていない。
何故断定できるのか、それ程に言語での表現すら耐え難い光景を、この男はすでに、仮設の医療病棟で直面してしまっていたからだ。
そして無論、この都市全体に漂わせる悪臭の程は、図り知れるものではなかった__
「クソッ……! あの隣国が雇った過激武装集団の連中が、こんな新手の【遺伝子改造細菌兵器】をばら撒くなんざ、誰が予想していた……!?」
「奴等だって物資は困窮していたはずだ……!! あの殺戮兵器だって、裏で輸入してたに決まってるだろ!? どんな奴等の支援だ畜生共がァ!!」
この地獄で、今更の無益な議論を武装兵達が交わす中、医師ロベルトはただ、震える声と唇で奥底の本音を漏らす__
「何だこれは……!! 何が【細菌兵器】だ……!! どうして同じ人間に対してこんな事ができる……!?
何故……命を救うべき医師の我々が……! こんな地獄を見せられなければならない……!
もう医療病棟にさえ……助かる人など……もう……!」
武装兵達に取り押さえられたまま、泣き叫んで己の胸の悲痛を訴える他なかった。
__この小さな声が、叫びが、残酷にも一体誰に届くというのだろうか。
鈍った思考は、それを理解していたとしても、彼は叫ばずにはいられなかった。
「大人しくしろ! 黙って避難命令に従え!」と__
兵に取り押さえられる中、彼の後を追いかけるように、1人の女性の助手が、ロベルトを呼び止める。
「先生!! 先生!! お願いです!! 今すぐ……今すぐに病室に戻ってください!!
あの少女が……目を失った……女の子が……!」
「なっ……!? 何か起きた……のか……!?」
その女性の顔は蒼白としていた。尋常ではない非常事態が少女の身に降り掛かったのだと、即座に推測がつく。
武装兵達に手を振り解かれた彼は、即座に来た道を駆け出し、仮設病棟の、主治医を務める少女の部屋へと駆け戻っていった。
◆◆◆
__病室に飛び込むや否や、ロベルトの顔色は一瞬にして血の気が奪われた。
「……嫌だ! 死なせて……! 死にたいよぉ……! お願い放して……! もう生きたぐないのぉぉ………!!」
周囲の医師達が、必死に押さえようとする中__
光を失った少女は泣き喚いて暴れては、手元に拾ってしまった鉄鋏を喉に突き立て、抉ろうとしていた。
何度も突き刺した傷があり、深くはないが喉元と掌が赤い血で染められている。
「……やめなさい! お願いだからその刃物を置いてくれ……! 君が死ぬには若すぎる……!」
「嫌だ!! 放して!! ……どうしたら……いいの……!?
もう……パパもママも死んじゃったんでしょ……!?
私の親友も……! アニーもソニアも……! みんないなくなって……目も身体中も痛くて……何も見えなくなって!!
何で!? もう……生きてる意味……ないよ……! みんな……置いてかないで……! 私を独りにしないでよぉ!!
お願いだから……死なせてぇぇ!!」
これが、突如の悲劇に見舞われた幼い子供の、苦痛の叫びだった__
年端の行かない、まだ10歳にも満たない少女が、絶望に心を破壊され、自ら命を絶とうとしている。
「やめろォ!! やめてくれっ!! 頼む__!!」
ロベルトは堪らず少女の懐へ飛び込み、その藻掻き暴れる身体を抱きしめた__
「……や……! 放し……て……」
自らの冷えきった身体で、恐怖で震えの止まなぬ腕で、必死に自制を保ち、錯乱に陥った少女を、涙を流し抱擁する。
「あぁ……なんて辛いだろう……!! 苦しくてたまらないだろう……!! 君の苦しみは痛い程に伝わる……私が身代わりになりたくて仕方ない!!
でもね……君だけなんだ!! 命が助かった者は……君くらいしかいない……!!
我々大人はとんだ無能だ! 恨んでくれて構わない!!
だから頼む! 君だけは生きてくれ……! 生きなれなかった……! 君の両親の! 親友達の!
死んでいった人々の! せめてもの希望になってくれ!!
君の傷ついた心と身体は……そう癒えるものではないだろう! 暗闇の中で……つらい日々が続く……!
だが私が責任を持って……! この命を懸けて! 君の心を救うと約束する……!!
私に君を守らせてくれ!! だから……この救われなかった彼等の……救いになってくれ……!」
優しく少女を抱きしめ、喉から滲む少女の血を、病衣服を、自らの涙を重ねて濡らしながら、その喉が枯れるまでロベルトは叫び続けた。
いつしか少女の、眼球を失ったその瞼から、血で赤く染まった涙の滝が溢れ出し、ロベルトの肩を濡らしていく__
「うぅ……ひぐっ……うぁ……あぁあ……あぁあぁああ!!
うぁあああ……! あぁあぁああああ…………!!」
少女は泣き叫んだ。
内から込み上がる激情を顕に、血と混じり合った赤い涙をありったけ流し、力の限り泣き続けた。
傷つけられた心と身体が震わせる凄まじい振動、それがロベルトの身体に通じて、鮮明に伝わっていく__
「残酷な大人だな……私は……! こんな非情な言葉……君のような少女に、無責任に吐いてしまうのだから……!
許しはいらない……! 私は君の人生に責任を持とう。私自身が君の目となり光となり、そして道標となって導こう……!」
泣き崩れる少女を前に、何の脈絡なく、一方的な誓いを述べ連ねてしまった。
馬鹿らしい戯言を吐いた自覚など、当然のようにあった。だが、言わざる負えなかった。
彼女を放ってはならない。その意志は強迫観念と化して、胸の内を縛っていく__
ベッド傍らにある机の上には、少女の「緊急用カルテ」が数ページに渡ってばら撒かれている。
彼はそこに、さりげなく視線ををやった。
『患者名:Sherry=☓☓☓☓☓☓☓☓』
1ページ目の項目表に、彼女の本名が記載されている。
誰かの血液が大量に付着され、姓名を含め、とても字を読み取れる代物ではなかった。
それでも、彼女の身元だけは、僅かな紙媒体に資料として残されていた事に、彼は思わず安堵する。
「シェリー……か。とても素敵な名前だ。両親からの愛が、名前から伝わってくるよ__ 」
「……パパと……ママの……愛……?」
ロベルトの優しい囁きに、体力の尽きた少女シェリーは、掠れた声で聞き返す。
気がつけば、彼女の背中は震えを和らげていた。
光の差さない暗闇の中、亡き両親の面影を探し求めるかの如く、その冷えた身体は、ロベルトの肩へと身を預ける。
滅びと絶望に覆われた世界で、1つの光に救われた医師と盲目の少女は、時を忘れて、医師の人々に見守られながら、しばらく互いに抱き合った__
◆◆◆
あの日から、約3年の月日が経過した__
少女を引き取って里親となり、遠く離れた地に移住したロベルト=へレンズケラーは、あくる日に市街地で自爆テロに巻き込まれ死亡した。
当然のように、ただ無惨に__
心優しき者の命を、神は容易く奪い去った。
事件捜査と治安悪化の影響はあったが、命日から3日が過ぎた日に、街郊外にある教会で彼の葬儀は執り行われた。
灰色の空から降り注ぐ大雨の中__
彼の遺骨を埋葬する際、参列した関係者達が目にしたのは、傘差しさえ忘れ墓石の前で座り込んでいた、1人の少女の痛ましい姿だった。
「……様ぁ……お義父様ぁ……! お義父様ぁあぁ……!」
かつての惨劇の地で、彼に命を救われ、後に養子として育てられた盲目の少女__
与えられた名は、シェリー=へレンズケラー__
彼女は全身を雨に晒されたまま、敬愛する義理の父の十字架を前に、力なく蹲り、ありったけの涙を閉ざされた瞼から流し嗚咽する。
彼女の置かれた境遇を知ってこそ、顔を揃えた周囲の関係者達は、誰も容易に声をかけることができなかった。
「可哀想に、あの【細菌兵器】の襲撃事件の唯一の生存者ですって。救われないわ……! 家族も友人も失って、目や心の治療までされていた義理の父まで他界されて……!
あの子、どうやって生きていくのかしら……?」
「無責任な発言はするもんじゃないよ……! お前さんは面倒見切れるのかい? このご時世、他所の子を守れる余裕を持った人間は、ほんの一握りさね!」
「……なんて凄惨な世の中なんだ。あんなに心優しかったへレンズケラー先生が、真っ先に殺されちまうんだから……
医者として優秀なだけでなく、正義感の強い人格者だって、周辺諸国でも本当に有名な御方だった……」
「でも、その生き様が自らの命を縮めたのよ。
命を救うのが医者の使命だと、兵士や民間人、敵味方隔たりなく治療していたから……
紛争の絶えない隣国から反感買って、その有力者達から命狙われていたって……命日の後に聞いたわ……!」
「ねぇ、あの女の子本当にどうなってしまうのよ……! もう身寄りも行く宛も無いんでしょう? あったとしても、受け入れられる福祉施設なんて、指で数えて幾つあるか……」
葬儀の参列者達は、そんなことを互いに話しては、暗闇の視界で泣き崩れ、全身を雨で冷やされた少女を、ただ遠目で眺めていた。
そうやって、上辺で彼女を思う言葉を並べては、誰もが救いの手を差し伸べられない免罪符を、探し求めるだけ__
建前だけの偽善など、何も少女の救いにならなかった、
「ねぇ、お義父様……? どこへ行ってしまわれたのですか?
実は……まだ近くにいたりするのでしょう? 目が見えないから……分からないですよ……
ねぇ……お義父様ァ……? どこへいったのですか? どちらへ逝ったら……
私はみんなに会えるのですか……?」
__次の瞬間、少女シェリーの右手には、どこに落ちていたのか、手触りで感触を調べたのか、先の尖った鋭利な小石を握られていた。
徐にそれを自身の喉の右縁、動脈の通った箇所へ突き立て、今にも己が喉を斬ろうとする。
「オイ!? あの子何をする気だ……!? 止めろ!!」
「ちょっと……!? やめなさい!? シェリー!!」
2秒遅れて、周囲の参列者達が静止しようと駆け出すも、その声は少女の意識に届いてはいなかった。
あの時のように__
彼女の精神は錯乱状態に陥っていた__
僅か8歳の歳で家族や親友を奪われた少女は、自殺を試みるも静止し命を救った彼を、愛慕の意味を込めて『お義父様』と呼び、愛していた。
それを唐突に奪われた今、少女の心を支配するのは、世界に対する絶望と失望と、決別の懇願__
「や……やめないか!? こんな所でそんな真似を……!」
「放してください。こんな世界、私が生きる意味は……」
押さえ掴まれた腕と、周囲の静止に意識を向けることなく、少女は無心に、喉を掻き斬ろうと抗った。
刹那__
いつしか耳にした義理の父ロベルトの、少女の心を一度救った言葉が、脳裏に迸る。
【君だけは生きてくれ……! 生きなれなかった……! 君の両親の! 親友達の!
死んでいった人々の! せめてもの希望になってくれ!!
この救われなかった街の、救いになってくれ__ 】
暗闇の視界で、シェリーは瞬時に正気を取り戻し、皮膚を容易に切り裂くだろう鋭利な小石を、右手から滑り落とす。
その記憶、亡き彼の言葉は__
年月を経て、自死の意に縛られたシェリーの心に光を灯し、再び命を救ったのだ。
「……お義父……様……?」
いつの間にか、シェリーは溢れる涙を流しながら、しばらく体を静止させていた。
今日を生きられなかった人々の希望になること__
この凄惨に満ちた苦境の中で、少女は忘れかけていた。
◆◆◆
そしてまた、月日は2年の歳月を経る。
【再歴272年「推定西暦2472年」】__
シェリーはこの時、イベリア半島の先端、旧ポルトガル領リスボン郊外にある『福祉施設』で暮らしていた。
ある昼下がり、田園地帯から少し外れた、山あいの煉瓦造りの建物、その中の植木と花壇が広がる中庭の長椅子で__
少女シェリーは静かに腰掛け、時間が止まったように、呆然と黄昏れていた。
自身の目を、光を、そして故郷と愛する人達を奪われ続けた少女の傷は、生涯を懸けようと、塞がれるものではなかった。
今は過去の、大切な誰かに愛されていた記憶が蘇っては、過呼吸を起こし、精神錯乱に陥った事も、1度や2度ではない。
__それでも、今日まで彼女が生きてこられたのは、
亡きロベルト医師の、遺された親戚や関係者達の努力と人情があってこそだった。
彼等にそれがなければ、少女に待っていたのは、追い詰められたが末の、悲惨な末路であったことだろう__
少女の心と人生は、より暗く深い崖淵に突き落とされてしまったが、何よりもその暗闇に微かな光を灯したのは、慈愛に溢れた医師ロベルト=へレンズケラーの存在であった。
「天国のお義父様……? 上からご覧になっていますか……?
ここは静かです……
空気が綺麗で、戦争の音も……人が争う怒声も……何も聞こえないので、心が安らぎます……
それでも……どうして……私は寂しくて……
景色が見られなくなった前も……後も……あの優しくて愛する人達に囲まれた日々を思い出すと……
ごめんなさい……私……私………!」
静かな中庭に1人、シェリーは再び涙した。
この空白の2年間、少女シェリーの心の奥底に刻まれていたのは、孤独と空虚という銃創であった。
幼いながら独りそれを抱え、死に別れた家族を思い続け、傷と向き合う悲痛の日々__
そんな少女の人生は、唐突に、意外な形で変革を迎える。
「………シェリー? 独りにしてごめんなさい! 気分はどうかしら? 外の空気で、少しは落ち着いたかしら?
……ねぇ、実は貴女宛に、一通のお手紙と……こんなものが送られてきたんだけど……?」
1人の女性介護士が、何やら困惑した様相で駆け寄った。
1人になった途端に泣き出したと知られれば、余計な心配を掛けてしまうと、シェリーは慌てて頬の涙を拭う__
「え……? あ、はい……大丈……夫……です」
無理をしてでも平然を装った返答をするや否や、何故この介護士が困った様子を見せたのか、即座に理解ができた。
(……え? 動物の……足音……? 匂い……?)
視力を失ってより早5年__
残された感覚である聴力と嗅覚が自然と研ぎ澄まされ、彼女はその2つだけで、周囲の環境、状況、危険を察知する術を会得していた。
実際、シェリーの背後に近づくそれが何なのか__
その正体、大凡の見当はついている__
「あの、落ち着いてね……!? あなたの背後から、1匹の大型犬が……どんどん近づいて……」
恐れながら見つめる女性介護士の視線の先__
そこから5,6歩離れた地点には、確かに1匹の、大柄かつ白い毛色の洋犬が、少女の座る長椅子を目掛け、ゆっくりと歩み寄っている。
(え? 大型犬? 怖い……噛まれる! どこから来るの?
大きいの? どんな犬種なの? どんな様子なの?
睨んでいるの? 牙を見せているの? 襲ってくるの?
いや……怖いよ……! 誰か……助けて………!!)
その姿が見えないシェリーは、その知らせを聞くや否や、即座に身を震わせて硬直し、怯えてしまった。
人を襲う獰猛な野犬か__
或いは人食い狼か__
飢えて荒れ狂う狂犬か__
悍ましい存在の幻影が、彼女の脳裏に浮かび上がっては、それが拭われなかった。
しかし、その恐怖心は、物の瞬時に解けていった__
その近づく大型犬とやらは、襲う気配どころか、威嚇や唸りの1つさえ全く見せない。
それどころか、彼女の膝辺りに着いた際、その純白の大型犬は、優しくその香りを嗅いでは、そっと頭を大腿部に乗せて、触れさせようとする。
「私に、挨拶をしてくれてるの? 優しいね__ 」
安心したシェリーは口元を緩めて微笑み、両手を慎重に近づけて、洋犬の額と頬をそっと撫で下ろす。
その手触りは美しく、高級な毛皮と例えていい程に整えられていた。野生のそれではありえない。
人の手で、大切に育てられた象徴の毛並みであった。
【………クゥン♪】
人に触れられるのが好きなのか、シェリーに甘え、寄り添うように、洋犬は愛らしい声を上げ、少女の袖に額を擦る。
「ごめんなさい、全然怖くなかったわシェリー__!
とても優しい子だわ! 大きいけど、とても白い毛並みとか整えられて綺麗よね__!
あっそうだわ! この子と一緒に、貴女宛に手紙が届いてるのよ。点字で記されているから、ゆっくり読んでみて?
何故か、これは貴女しか読んではいけないらしいの…… 」
介護士はそう言うと、茶色の封筒から、折りたたまれた手紙らしき用紙を取り出すと、盲目のシェリーの傍まで歩み寄り、そっと右手にそれを握らせた。
「手紙……ですか? 私宛に一体何を……?」
意図が掴めず、シェリーは思わず首を傾げる。
その用紙は、裏から小さな凹凸の点字が、手前へ突き出すように印字され、共通語の英語表記で、こう記されていた。
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親愛なる名医のロベルトの娘、
シェリー=へレンズケラーに捧ぐ__
貴女の目の事と、これまでの身に降り掛かった事情は、亡き我等の盟友ロベルトから伺っております。
貴女様の治療の完遂は、彼の長年の悲願でもありました。
しかし残酷にも、余程の技術発達と設備が整えられた環境でないと、その目の治療は叶いません。
それでも、短くて数年は掛かるでしょう__
ですが、私達の元であれば、その可能性も、環境も、人員も、全てをご用意させて頂いております。
そして、大変恐縮ではありますが、身体の不自由で苦しむ人々を救うため、僭越ながら我々の科学技術の象徴__
《ギルソード》の臨床試験に、どうかご協力頂けませんでしょうか__
現在は〈軍事使用〉としての運営が中心ですが、
いずれこの科学技術は、〈医療福祉〉としての技術発達により、人々の心と身体を救うと断言します。
その先駆けとして、貴女様には《ギルソード使い》となって頂き、どうか未来の子供達や人々のために、お役立て頂きたいのです。
どうか貴女様のご決断次第で、こちら宛にお返事を下されば、2か月後にそちらの施設にて御迎えに上がります。
__そして、私共からの細やかながらの贈り物として、シェリー様の元へ、1匹の「使い」の洋犬をお届けしました。
名前は〈セイバー〉、「騎士の剣」を意味します__
犬種の血統は、ホワイトスイスシェパード__
かつて旧西暦時代より、山岳救助犬として、人々の命を救った実績のある犬種ですが、
これは、我が国にて【総合介助犬】としての特殊訓練を受けているため、必ずやシェリー様の生涯のパートナーとして、お側に仕える忠犬となるでしょう。
セイバーは、貴女様に差し上げます。
最後に、シェリー様からのご返信を頂いた後に、2ヶ月後にお迎え致します。
良きお返事と、勇敢なるご決断をお待ちしております。
〈新都市国家マリューレイズ〉__
軍事治安維持組織〈戴冠の女王軍〉福祉技術責任者、少佐__
レヴェリー=シュリーマンより__
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「………科学技術? ギル……ソード? お義父様の悲願? 一体……どういう事なの……?」
手紙を読み終えるなり、シェリーは頭が混乱してしまう。
突拍子もなく突きつけられた事実と情報量の過多が故に、その反応を見せるのが通常である。
だがシェリーは、頭では生理が追いつかなかったものの、心の奥底で、大きな衝動が突き動かされるのを感じていた。
死に別れた大切な人々の魂が、自身が生きるために、背中をそっと押し出してくれるような、そんな感覚を__
情報を整理する時間が必要だが、この手紙に対する返答は決まっているかもしれない。
自身の人生に、大きな変革を齎す決断だろう__
シェリーはそう思いながら、後に生涯のパートナーとなるであろう、純白の忠犬セイバーの心地良い毛並みを、
しばらくの間、撫で続けていた。
《登場人物紹介(追加分)》
・シェリー=ヘレンズケラー(8歳→11歳→13歳)
……紛争地帯の都市で細菌兵器のテロに見舞われ、家族友人と死別し、自身の目をも細菌汚染により奪われた少女。
病棟で自死を試みるも、国境から派遣された国際医師ロベルトに静止され、後に彼の養子となる。
だがロベルトが自爆テロにより死亡後、リスボン郊外の介護施設で身を潜めるように暮らしていたが、〈新都市国家マリューレイズ〉と名乗る集団からの手紙と、彼等から送られた「介助犬セイバー」との出会いが、少女の運命を大きく左右する。
・ロベルト=ヘレンズケラー(48歳→享年51歳)
……国境を超えて紛争地域を渡り歩く医師団の主任。細菌兵器で壊滅した街から、唯一の生存者であるシェリーの命を救い、養子に迎え入れる。その3年後、少女が11歳の時に自爆テロに巻き込まれ非業の死を遂げる。
関係者からの話では、救える命は敵味方隔たりなく医療を施す事を信念として貫き、それ故に周辺諸国の軍人や閣僚から目の敵にされていた。
・セイバー(?歳)
……〈新都市国家マリューレイズ〉から少女シェリーの元へ送られてきた、【総合介助犬】と呼ばれる特殊訓練を受けた大型の洋犬。
犬種は純白な毛色のホワイトスイスシェパード__
後にシェリーの生涯のパートナーとなる忠犬。




