第三章⑤
篠塚が錦景女子の夜の七時に被服部の部室に訪れたのは理由がある。部室棟の二階の窓から忍び込んだことについては特に理由はないんだけれど、それが今までの篠塚の登場パターンだったから、そうしたまでだ。夜、窓を開けて、部屋の女子を驚かせて、その女子の未来を少しだけ変化させる登場。ここ一年の篠塚は、研究とバンド活動の傍らそんな登場を、意図し意図せずとも、していたのだった。今回の場合は少し違うかもしれないが、篠塚の登場によって被服部の二人に今宵、小さな変化があったはず。篠塚がここにこなければ、篠塚と話すことはなかったのだから。とにかくしかし、出鼻を挫かれたというか、こちらが驚かせてしまったのは少し予想外だった。篠塚が錦景女子だった頃の被服部のカーテンは暗幕ではなかった。部屋には誰もいないと思ったから、だから登場シーンは微妙なものになってしまった。いや、いつだって登場シーンは、篠塚が思うより錦景女子たちのキャラクタが濃いせいで、未来に予測したようにはならないのが常なのだが、後で思い出して愉快にはなるのだが、微妙なものになるのだった。ゆとり教育は確実に、女子を個性的に仕上げているらしい。「ああ、とにかくさ、コーヒーを飲もうよ」
「……コーヒー・メーカなんてありませんよ、インスタントコーヒーだってありませんよ、缶コーヒーだってありませんよ、」被服部の部長のモチコトはソファに体重を預けた篠塚を睨み、早口で言った。「……っていうか、その、確認させて下さい、篠塚カノコさん、ですよね?」
「ええ、そうよ、篠塚カノコで問題ないわ、私のこと知ってくれているなんて嬉しいな、」篠塚は自分の髪の膨らみを手の平で触りながら言う。「あ、ここにコーヒーがないなら、マチソワに行かない? もちろん、コーヒーを飲みに」
「あ、あの、カノコさん、」モチコトにしがみついたままのリリコが聞く。「どうやって窓から? ここ、二階ですよ、あ、それにどうやって鍵を開けたんですか?」
「簡単なことよ、」そう、篠塚は簡単なことをして二階の窓まで来たのだ。それは教えられないことだから、まだ篠塚に対して鋭意警戒中の人生経験の少ない若い二人に微笑んで、誤魔化した。「あ、それで、コーヒーを飲みに行かない?」
「私たち、その、」モチコトはまだ警戒中、という感じの表情。「……もう、帰ろうと思ってたんですけど」
「ああ、そうなんだ、残念ね、」これは本心だった。「いろいろ話がしたいと思ったんだけどな」
「話?」モチコトは隣の可愛い彼女のことを一度見て聞く。「あの、私は、マチソワとか、いろんなところで篠塚さんのこと見かけたこともありますし、店長の散香や、軽音楽部の娘から、篠塚さんのいろんな話を聞いたことありますけど、でも、篠塚さんは、えっと、私たちのこと、知らないでしょ?」
「あなたたち二人が恋人同士だっていうことは知ってるけど」
「あ、えっと、」モチコトは一瞬瞳の動きが止めてから、強さを感じる目をしてリリコを抱き寄せた。「はい、そうですよ、この娘、リリコは私の恋人です、私たちが恋人だっていうのは錦景女子の常識です、な、なんなら、この場でキスしてあげてもいいですよ」
「何で?」いきなりモチコトがそんなことを言い出すから、篠塚は吹き出してしまった。「別に、私、二人の関係を疑ってるわけじゃないし、二人の関係にどうこういうつもりはないし、うん、私も女の子と付き合ってたことあるから、ええ、今も女性のことしか愛せない体よ、でも、何も変だって思わない、普通だって思っているわ、でも、関係をからかう女の子は最低だって、個人的には思うな、」そこまで言って、篠塚は苦笑した。「ああ、えっと、なんの話をしていたんだっけ? ああ、そうそう、二人と話がしたいっていうのはね、私、近いうちにボストンに行くから、少しセンチメンタリズムになっているわけなのよね、その思考回路の発端は意味不明だし、そんな状態は精神的にも肉体的にもよくないものだとは思うのだけれど、でも、そういう状態だから、最近の私の行動パターンなんだけれど、顔馴染みの女の子たちのところに行っておしゃべりをしているの、楽しくて未来のことを考えなくても済むからね、でも、ええ、本当に女の子たちとしゃべるのって楽しい、今日も軽音楽部に顔を出してきたの、とっても楽しくて、あの頃に戻りたいって思ったわ、錦景女子だった、あの頃に、年は取りたくないものね、時間を大切に生きてきたつもりなんだけど、もっと大切にすればよかったって後悔してるんだ、後悔しない人生なんて、ないと思うんだけど、」篠塚はそこまで言って被服部の二人に視線を向ける。「あ、警戒は解いてくれた?」
「コーラならありますよ、」リリコが壁際の小さな冷蔵庫からコーラの出して、グラスに注いでくれた。「はい、どうぞ」
「ありがとう、」篠塚はコーラを喉に通し、眉を潜めた。「うーん、炭酸がきついね」
「まだ新鮮ですからね」
リリコのそんな表現が、篠塚には可笑しかった。「あははっ、確かに、新鮮だわ」
「ボストンに、行くんですか?」モチコトが聞く。
「そう、オーバドクターを卒業して、ドクターになるの、ボストンで」
「あ、ボストンの大学にお勤めになられるんですか?」
「うん、もう、三十だから、決めたの」
「へぇ、」モチコトは遠い目をして中空を見る。「凄いですね、教授になるなんて」
「三十歳には見えませんとか、」篠塚は上目で見た。「言ってくれないの?」
「篠塚さんが三十路だっていうのは、」モチコトは優しく微笑んでくれた。警戒を解いてくれたみたいだ。「錦景女子の常識です」
「私はまだ二十九よ」篠塚は笑顔でモチコトを睨んだ。
「……あははっ、」モチコトは無礼を笑いで誤魔化し、そして聞く。「あ、それで、篠塚さん、一体、その、なんの用があって、ここに?」
「ああ、そうだったわ、そうよ、実はね、錦景女子の制服を貸してもらいたくって来たの」
「制服?」リリコは首を傾げる。
「なんでですか?」モチコトは聞く。
「四着用意出来る? 上だけ、スカートはいらないわ、」篠塚は自分のスカートを触る。彼女はいつも同じ格好だ。オーバドクターズのステージ衣装。黒いボタンがおへそ近くまであるポロシャツに、黒と赤のチェック柄のスカートだ。布を何枚も重ね合わせた、ひらひらのフリルの多い、奇抜なデザインのスカートだった。「このひらひらのスカートに、セーラ服、それが私たち、オーバドクターズのステージ衣装だったの」
「四着、ですか? えっと、用意出来ないことはないと思いますけど、オーバドクターズって三人組ではなかったでしたっけ?」
「錦景女子のときはもう一人いたの、今回はそいつも入れて四人」
「今回って?」モチコトが聞く。
「春の球宴の前夜祭、そのマチソワの金曜日の宴のステージに私たちは立つ、それで私たちは解散だ、」篠塚はモチコトにウインクした。「あ、まだ認可は貰ってないんだけどね」




