第三章①
その日の雲から覗く、輝く月は少しだけその欠けた形を大きく見せていた。
二十九歳、独身、オーバドクターの篠塚カノコは錦景女子大学理学部准教授の内田と錦景市駅前の居酒屋、その暖簾の下がった狭いテーブル席で、酒を飲み、騒いでいた。内田は実験中にビーカでアルコールをあおるほどの無類の酒好きで、すでにビール瓶を十五本空にして、難しい漢字が四つの銘柄の酒を開けて、たった今飲み干したところだった。篠塚も酒に弱くはなくて、強い方だが、彼女には敵わない。
内田とは高校の時に、バンドを組んでいた。
大学に上がってからも篠塚はバンドを続けたが、内田は研究と酒の虜になり、ギターに触らなくなった。だからといって彼女と疎遠になることはなかった。二十歳になるまでは、恋人と呼べる関係だったからだ。二十歳になって恋人同士じゃなくなったのは、最初からそう決めていたからだ。女の子同士の恋は二十歳までって決めていたから、二人は過去にした約束を守り、友達になった。友達になってから、特に何も変わらなかった。同じ指輪を、同じ指にしなくなっただけで、同じ指輪を違う指にするようになったくらいだ。
二人とも二十九歳になってからも、定期的に飲んでいる。三日連続で飲み明かすこともあれば、半年空く時もある。どちらかが、どちらかに話したいことが出来たときに、繋がる。そういう都合のいい関係が大学院を卒業してから、三年以上続いている。
今回、連絡をしたのは、篠塚の方からだった。内田に話を聞いてもらいたくて、メールをしたのは、つい三時間前。二人とも、毎日会いたければ会いたい距離にそれぞれ住んでいる。
「今日はどうして?」そう聞いてくるのはいつだって、唐突で、内田の目はさっきまでとろんとしていたのに今はまるで違う。
「私、ボストンに行くわ、」篠塚は内田の目をまっすぐに見て言う。「研究者としてずっと呼ばれていたんだけど、昨日、決めたの、行こうって」
篠塚はフリーで研究論文を発表し続けていた。篠塚の家には研究をし続けることの出来る潤沢な資金があって、大学に就職せずに研究は続けていたのだ。バンド活動は、その息抜きだ。
「やっと、本当に、やっと決めたんだね、」内田は呆れた風に言う。「どんな心境の変化があって?」
「いや、別に、ただ、もう三十歳だなって思ったら、ちょっと居場所を変えるのもいいかなって思ったの、折口は結婚するし、井筒は映画を撮るって夏に中東に飛ぶ予定」
折口も井筒も二人ともオーバドクターズのメンバだ。
「え、本当?」内田は驚いている。「結婚? 映画?」
「知らなかった?」篠塚は笑った。「私も聞いて、びっくりしたよ、それでどうかな?」
「どうかなって、」内田は苦笑する。「もう決めたんでしょ? 他人が言ったことなんて、気にしないくせに」
「そうだけど、」篠塚は頬杖付いて、人差し指で冷たい日本酒の中の氷をかき混ぜた。「内田がどう思うのか、知りたかった」
内田はまっすぐな目をして言う。「篠塚が選んだ道に行けばいいって、私は思うよ」
それから瞳をとろんとさせて片手をあげて店員を通路を忙しく歩く店員を呼び止めた。「あ、お姉さん、ハイボールちょうだいっ!」
「内田にそう言われて、」篠塚は乙女チックな目をして言った。「嬉しい、ありがとう」
「なんだよぉ、」内田は呂律が回っていないフリをする。彼女は酔わないくせに、酔ったふりをして恥ずかしいことを言うのだ。「泊まりに来るのかぁ?」
篠塚は素面に微笑んで、そして額を触ってアンニュイな表情で息を吐く。「ああ、飲み過ぎちゃったかな、足下が、なんだか、不安定みたい、足に力が入らないみたい、立てないみたい」
内田は店員がテーブルに置いたばかりのハイボールを一気に飲み、篠塚から目を逸らして言う。「……私の部屋、今、ちょっと汚いんだけど」
「今だけじゃなくてずっとでしょ、」篠塚は吹き出して言う。そして、別に何も考えてはいないんだけれど、テーブルの上に置かれている内田の手を触り、自分の指と彼女の指を絡めた。そんなことをしながら、篠塚はにやついている。「ずっと、汚くて、ずっと、私が掃除してあげていたんだから」
「なんなのぉ?」内田は呂律を回さずに言う。「ねぇ、なぁに?」
「内田、お願いがあるんだ、」篠塚は内田の煌めく瞳を見る。「また、一緒に歌わない?」
「歌う?」内田は真顔に戻る。「え、冗談でしょ?」
「ううん、冗談じゃないよ、今、冗談を言うなんて詰まらないって分かるでしょ?」篠塚は内田の手を、手の平に挟んで言う。「私はもう一度、内田とロックンロールを歌いたい、響かせたい、踊りたい、錦景女子で一緒に、」篠塚は内田の指先にキスをした。「それで、オーバドクターズは解散だ」




