公爵クロン・セルツェ
妻が亡くなった。
屋敷の裏にある冷たい湖に身を投げたのだ。
五歳の息子と二歳の娘、そして生まれたばかりの赤ん坊を遺して。
なぜ妻はそんなことをしたのだろう。
真に愛する男の、側にいられることになったのに。
彼女にとっては、なによりも待ち望んだ瞬間だったのではないのか? まさか、土壇場で“彼”に拒否されたとでも? いいや、そんなはずはない。
むしろ、彼のほうが妻を熱望していたはずだ。
生まれた直後に一報を入れたときは、涙を流して喜んでいたと聞いた。
そう。
妻がいなくなったあと、揺りかごの中で静かに迎えを待っている赤ん坊は、この私、クロン・セルツェの血を引く子どもではない。
********
二つ下の妻、ウルテとは政略結婚だった。
とはいえ、私は彼女を学生の頃から知っていた。
その可憐な雰囲気にも、常に上位の成績を保っている賢さも図書館に入り浸り古文書とにらめっこをしている勤勉さも、得意の風魔法をさっそうと使いこなす姿もすべて好ましく思っていた。
思っていたけれど、ただそれだけだ。
婚約を申し込もうとは欠片も考えていなかった。
それは、ウルテが当時のマリファス第二王子殿下に熱烈な求婚を受けているのを知っていたからに他ならない。
さすがに“ちょっと好ましい”程度の女性に、王族の不興を買ってまで婚約を申し込む勇気はなかった。
しかしウルテはなぜかのらりくらりと求婚を躱しており、結局二人は第二王子殿下の卒業までに婚約を結ぶことはなかった。
伯爵家のウルテが、どうやって王族からの婚約申し込みを躱していたのかは知らない。
けれど、のちに第二王子殿下が我が国の筆頭公爵ティグリス家の三女イリヤさまと婚約をなさった。そのことから、王家がウルテの伯爵家と縁を繋ぐことによって得られる利はほとんどない、と判断されたのだと思う。
そして婚約者のいなかった私は父の盟友でもあったティグリス公爵の勧めもあり、ウルテに婚約を申し込んだ。それを伯爵家が受けてくれたのだ。
しかしマリファス殿下はある意味、一途な性格だったらしい。イリヤさまとご結婚なさったあとも、夜会などで会ったときにはじっとりとした粘着質な視線を遠慮なくウルテに向けていた。
私は素直に不快だったが、ウルテは不快というより恐怖に怯えたような顔をしていた。
それでも、王族から話しかけられたら応えないわけにはいかない。ウルテは指先を小刻みに震わせながらも懸命に愛想よく応じ、表面的には公爵夫人として完璧な振る舞いをしていたように思う。
「ウルテ。マリファス殿下に会うのが怖いなら、無理をしなくてもいいんだよ。体調不良ということにしておけばなんの問題もない」
「ありがとう、クロンさま。でも、いいのです。夜会のたびに仮病を使ってはいられませんし、なによりも貴方に恥をかかせたくありませんもの」
妻帯者であるマリファス殿下の所業は、貴族の間でも静かに話題となっていた。ウルテが仮病を使い続けたところで、周囲は「やっぱりあの視線が不愉快だったのだろう」と、さらりと察してくれたはずだ。
ウルテはもしかしたら、月日が経てば殿下も妻を大切にするだろう、と信じていたのかもしれない。
けれど彼の人は、兄である王太子が国王になり王弟という立場になっても、ウルテと私の間に長男ヴィルク、長女イェレニが生まれても、他人の妻に粘ついた眼差しを向けることを止めようとはしなかった。
そして、事件が起きた。
その日、私は領内で起きたがけ崩れの現場を視察に行っていた。屋敷からは、かなり離れた場所。妻ウルテは心配そうだったが、修復工事の責任者が先に現場に入っていたしなにも問題はないはずだった。
そう。
私も妻も、このときがけ崩れの二次被害が起こること以外、なにも心配してはいなかったのだ。
まさか、つのる劣情をもてあましたマリファス王弟殿下が私の不在を、そしてすぐには戻って来られない場所にいると知り、屋敷に押しかけてくるとは夢にも思ってもいなかった。
王弟は「領内のがけ崩れはセルツェ公爵が意図的に起こしたという噂が貴族の間に流れている」と言い、妻の動揺を誘ったらしい。
そして「力になる。そのための相談をしよう」と言葉巧みに妻を言いくるめ、私の書斎に二人きりで閉じ籠り、そこで妻を襲った。
しかも、王弟は悲鳴を聞かれないよう防音結界を張っていた。護衛たちは書斎に二人が入室するところまでは見ていたが、そのあとは妻の指示どおり二人が出て来るまだ待機していたのだという。
しばらくして、王弟だけが書斎から出てきたことに不審を抱いた護衛が中を覗いたところ、気を失っている妻を発見したのだという。
その一回で、妻は子を宿してしまった。
国王夫妻はさすがにこれは目を瞑れぬ、と極秘の堕胎を許可してくれたが、驚いたことに妻がそれを拒否した。
私は事件のあと、すぐに屋敷へ戻り王弟への怒りに震えながら傷ついた妻の側にずっといた。そして懐妊がわかったあとは何度も何度も「その子は諦めてくれ」と頼んだ。
「嫌、嫌です! この子はクロンさまとの子かもしれないではないですか!」
確かに、事件が起きる二日前に私は一時帰宅し、妻との時間を持っていた。だから私の子だと思いたい気持ちもわからなくはない。
だが王弟の子の可能性もある以上、私はどうしても諦めて欲しかった。万が一、王弟の子であってもおそらく当家で育てることになる。言うまでもなく、私にはその子を愛する自信などない。それなのに妻は、頑として首を縦に振らなかった。
「この子は愛する貴方との子です。絶対にあんな、恥知らずな悪魔の子ではありませんわ!」
ウルテは愛情深い女性だ。子供たちのことも本当に可愛がっている。生まれた子がなんであれ、きっと可愛がるに違いない。
けれど。
ここでウルテが私の頼みを聞いてくれなかったことで、私の中にウルテへの疑念が静かに積み重なっていった。
──そもそも、なぜウルテは王弟の言うことを鵜呑みにした? 私を信じていなかったのか? 私を信じていれば、屋敷内に招き入れることは拒めなかったにせよ二人きりで“相談”をする必要などなかったはずだ。
夜会の欠席をいくら進めても出席を続けたのは? 本当は王弟の熱い視線を浴びるのが嬉しかったのでは?
書斎には確かに、防音結界が張られた形跡があった。だが魔力封じの結界が張られていたわけではない。ウルテは風魔法が得意だ。結界のせいで声が外に聞こえなかったのなら、王弟を攻撃すべきだった。
百歩譲って王族に魔法を放つことが躊躇われたのなら、書斎の扉を吹き飛ばしてしまえば良かったのだ。そうすれば、護衛がすぐに気づいてくれた。
考えれば考えるほど、ウルテは“避けられるべき災厄をあえて避けなかった”としか思えなくなった。
それは王弟を受け入れたかったからではないのか? 本当は彼を愛していた?
そして生まれた子を見たとき、私はさらなる絶望に見舞われることになる。
赤い髪に紫の目の私にも銀の髪に青い目の妻にも似ていない、王弟の黒髪に王族特有の黄金の瞳を持った赤ん坊。
このおぞましい生き物を息子と娘の記憶に残したくなくて、私は産後間もないウルテと赤ん坊を離れに押し込んでおくよう命じた。
「旦那さま、奥さまがお話ししたいことがあると」
「そうか。そのうち聞くから焦らずゆっくり身体を休めるように伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
「旦那さま。その、奥さまがどうしても話を聞いて欲しいとおっしゃっていますが」
「悪いが、崩れた道路の復興費用の予算会議が入っているんだ。手紙を書いておいてくれれば空いている時間に読むと言っておいてくれ」
「承知いたしました」
──“子を諦めてくれ”という私の必死な願いはきかなかったくせに、“話を聞いて欲しい”と自分の願いだけ主張してくるウルテ。この時点で、彼女への愛は私の中から綺麗さっぱり無くなっていた。
「本日、十三時に赤ん坊を引き取りに王宮から使いが参ります」
「そうか。丁重におもてなしをしてくれ」
「かしこまりました。奥さまへのご連絡はいかがなさいますか?」
「そうだな、その件も詳しい話を使いの者がするとおっしゃっていた。ウルテと話をしなければならないな。二十分後にそちらへ行くと伝えておいてくれ」
「お伝えしておきます」
──王弟妃から『生後三か月経ったら貴公の妻が生んだ女児を渡すように』と使いが来たときには驚いたが、持っていた手紙の内容にはもっと驚いた。もちろん、両方の件に関して異論はない旨をすでに返信している。
あのかたはとても賢い女性だ。なにか考えがあってのことだろう。赤ん坊にもウルテにとっても悪いようにはならないだろうが、悪いようになったとしてももう私には関係ない。
「あの、本当によろしいのですか……?」
私の命を受け、足早に立ち去る執事の背を見送っていたメイド長が、心配そうな顔をしている。私は軽く首を横に振ってみせた。
「母親はもう必要ない」
「……」
メイド長は無言で項垂れている。妻と結婚したときは、とても喜んでくれた。妻が嫁いできてからはよく仕えてくれていたから、思い入れがあるのかもしれない。
逆に、若いメイドなどは冷めた眼差しをしている。我が家の料理人と結婚が決まっているこのメイドは、婚約者ととても仲がいい。他の男への愛を胸に秘めながら、公爵夫人の座に納まっていた妻が気に入らないのだろう。
「さぁ、急いで仕事を片づけて面倒なことをすべて終わらせたら、子どもたちを構ってやらないと」
「お坊ちゃまとお嬢さまのお好きなお菓子をご用意しておきます」
「うん、ありがとう」
ウルテは、本当に哀れな女だ。
無駄な駆け引きなどせず、素直に王弟の腕の中に飛びこんでいれば自ら命を絶つこともなかっただろうに。
********
湖に浮かぶ、妻の華奢な身体。
使用人たちの悲鳴や叫び声を聞きながら、私は長い銀の髪が水面にたゆたうのを、ただぼんやりと見つめていた。
「……どうしてなんだ? せっかく、王弟殿下の側妃になれるはずだったのに」
──王弟妃の寄越した手紙の内容は『公爵夫人ウルテを長年ひそかに想い合っていた我が夫マリファスの側妃に召し上げる』というものだった。
やはりそうだったのか、と特に驚きはしなかった。
だから王弟妃からの手紙を、愛してもいない男の子を二人も生んでくれた労いの気持ちをこめながらウルテに渡した。
それなのに。
『ど、どうして、どうしてこんな……!』
『? キミはずっと、王弟殿下を愛していたのだろう? 学生時代、どうして求婚を拒んでいたのか知らないが、ようやく望みが叶ったじゃないか』
『誤解です! 違うんです! わたくしは──!』
よくわからないが、なぜ私がそう思ったか、いや気づいたかを事細かに説明をした。
妻は『違う、いや、そんな、あぁどうして……やっぱりわたくしが……間違っていたのね……』と真っ青な顔で呟いていたが、そんな顔も何一つ私の心に響かなかった。
そして本邸に戻った十分後、妻が湖に身を投げたことを知った。
「……キミは、最後までよくわからない人だったな」
──逃げる選択肢がいくつもあったのに逃げようとせず、戦う手段があったのに戦おうとしなかったかと思えば、いきなりこの世界から逃げ出してしまう。
価値観の違い、というものだろうか。
それともなにか、思っていることがあったのなら口にしてくれれば良かったのに。
といっても、私も疑念を問い詰めることをしなかった。訊いていたらなにかが変わっていたのかもしれない。けれど、それをしなかったということは私の妻への愛はその程度のものだったのだろう。
「これがキミの選択なら尊重するよ。さようなら、ウルテ」
私は使用人たちに指示を出したあと、湖に背を向けた。
母親がいなくなったことを子どもたちに知らせないといけない。
しばらくは悲しむだろうが、しっかりと寄り添って二人の心を癒してやらなければ。
それが父親としての、私の使命であり義務でもある。




