王弟マリファス
ウルテが湖に身を投げたという。
どうして。なぜ。
俺を愛してくれていたはずじゃないのか。
せっかく、二人の愛の結晶をこの世に生み出してくれたのに。
妃だって、キミを側妃に迎えることを賛成してくれていたのに。
どうして貴女は、俺を置いてたった一人で逝ってしまったんだ。
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通っていた貴族学院で初めて見たときから、俺はウルテに夢中だった。
愛らしく、賢いウルテ。
学院中の男が彼女に恋をしていたのではないかと思う。
けれど彼女は、高位貴族の令息にも大商会の御曹司にも、どんな男にも靡かなかった。
王族であるこの俺も例外ではなく、どんなに言葉を尽くして愛の言葉を告げてもウルテは首を縦に振ってはくれなかった。
ただ、俺は諦めてはいなかった。なぜなら、ウルテは他の家の令息にはきっぱりと断りを入れている。でも俺に対しては曖昧な笑顔で「わたくしでは第二王子殿下のお相手などとても務まりませんわ」とやんわり言うだけで明確に拒否をされてもいない。
わかっている。彼女は、俺を焦らしているのだ。
立場を使えば、婚約者のいない令嬢を強引に娶ることも不可能ではない。けれど今の時代、それをすると国民だけではなく貴族からも非難の声があがるだろうことは容易に想像がついた。
それに、俺たちは両想いだ。だからその可愛い戯れにのってやろうと、ウルテがどんなに焦らしても俺は寛容な心で受け止め続けていた。
俺が卒業するころには、さすがに素直になって腕の中に飛び込んでくるだろうことを期待して。
それなのに。
「待ってください、ティグリス家のイリヤ嬢と婚約!?」
「そうだ。お前がどこぞの伯爵家の令嬢に執心なのは知っているが、残念ながらその家との婚姻では王家に益がない。ティグリス家の令嬢がもっとも相応しい存在なのだよ」
父である国王の命令に、第二王子である俺が逆らうことなどできるはずがない。
それでもどうにかできないかとあがいている間に、ウルテはセルツェ公爵家の嫡男クロンと婚約をしてしまった。セルツェ家はティグリス家に次ぐ名家であり、ウルテの家とは少し家格に差がある。クロンはウルテに言い寄っていない数少ない令息であったと認識していたから、この婚約は少々予想外ではあった。
ただ、俺の知らないところで両家にとってなにかしらの益があったのだろう。俺は泣く泣くウルテを諦め、王命に従いイリヤ・ティグリスと婚約。そして王太子である兄が結婚したその二年後、俺はイリヤと結婚した。
「マリファスさまは、ウルテさまをいまだに想っていらっしゃるのですね」
初夜のベッドの上で、イリヤにそう言われたときには仰天した。イリヤとの婚約が決まってから、俺はイリヤに誠実に振る舞ってきたつもりだったからだ。
「い、いや、俺は」
「よいのですわ、マリファスさま。愛は尊いものです。なんら恥じることはございませんわ」
「イリヤ……。貴女はそれでいいのか?」
「私はマリファス第二王子殿下の妻です。殿下の幸せこそが、私の幸せですのよ」
──まさか、妻がここまで俺を想ってくれているとは。
嬉しい気持ちはあったが、それでも俺が愛するのはウルテだけだ。
「マリファスさまの想いが実ることを、このイリヤは心より願っておりますわ」
「ありがとう、イリヤ」
女性として愛することはできなくても、妻として大切にする。いや、俺の気持ちを理解してくれる彼女に対しての恩返しと言った方がいいだろうか。
イリヤとは、月に一回は必ず二人でお茶を飲む時間を持ち、色んなことを語り合った。
公務の悩みやウルテへの想いなど、他の誰にも話せなくてもイリヤにはなんでも話せた。
「ウルテがセルツェ公爵と夜を共にしていると考えるだけで、胸が張り裂けそうになるんだ」
「お可哀そうな殿下。王族の権威をもってしても人妻を、それも公爵夫人を好きにすることはできません。ですが、お互いの気持ちが同じであったならば話は違いましてよ?」
「……どういう意味だ?」
「ウルテ嬢がマリファスさまのお気持ちに応えられたなら。さすがに私との離縁は難しいとは思いますが側妃にお迎えすることはできると思いますわ」
「本当か!? ……いや、しかし」
正直、ウルテは俺のことを好いていないのではないかと思い始めていたところだった。夫とともに夜会へ出席していたウルテをじっと見つめても、ウルテは必ず顔を逸らしてしまうからだ。
「殿下はウルテさまのつれない態度を気に病んでいらっしゃるのですね?」
「気に病んでいるというか……」
「そんなの、しかたがないではありませんか」
「しかたがない?」
それは、どういう意味だ?
「側に夫であるセルツェ公爵がいらっしゃるのですよ? 堂々と殿下の想いに応えるわけにはいきませんわ。殿下がウルテさまの辛いお気持ちを察してさしあげなくてどうするのです?」
──イリヤの言葉は、俺の目を一気に覚まさせてくれた。
俺は馬鹿だ。なぜ、ウルテを信じなかったんだ。
「ウルテさまはセルツェ公爵との間にお子をお二人もうけられました。ですが、もうそろそろ解放されたいと心の奥底では願っていらっしゃるのではないでしょうか」
「ああ、そうだな。ウルテ、可哀そうに……」
「セルツェ公爵がいると邪魔をされてしまいますわよね。私にお任せくださいな」
そして、セルツェ公爵領がひどい豪雨に見舞われた日。
「殿下。今、公爵は災害対策で留守にしているようですわ。この機を逃してはなりません」
「わかった。だがウルテは義理堅い女だ。なんと言えばいい?」
「そうですわね……。此度の災害は公爵による人災という噂が流れているから相談に乗る、とおっしゃるのがよろしいわ」
「そうしよう。なにもかもすまないな、イリヤ」
そして俺は公爵家に赴き、ようやくウルテを手に入れることができた。
──ウルテは俺と想いが通じ合った喜びを噛みしめるかのように、静かに目を閉じていた。その頬を濡らしていた涙は、きっと幸福感からの嬉し涙だったに違いない。
********
ウルテが亡くなってからもうどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
俺は公務もなにもやる気が起きず、すべてをイリヤに任せていた。
「殿下、お茶はいかがですか?」
「ああ、ありがとう……」
執事が淹れてくれた熱い紅茶を飲んでいた俺は、今さらながらふと思った。
俺とウルテの子は、どうなった?
「なぁ、ウルテが産んだ子どものことなんだが……」
「はい、妃殿下がお引き取りになると。もうセルツェ公爵家には使いを出されたそうです」
「そうか……。イリヤは本当にできた妻だ。彼女は今、どこにいる?」
「中庭で、お茶を飲まれているかと」
「わかった。中庭だな」
イリヤが俺のためにそこまでしてくれるのであれば、いつまでも閉じこもってなどいられない。
俺は紅茶のカップを置き、妻イリヤの元へ向かった。
◇
イリヤはいつも、野バラの生い茂る一角にテーブルを用意させ、お茶を飲んでいる。
その場所に向かって歩いていると、すぐにイリヤの澄んだ声が聞こえた。
「赤ん坊は、どうしているのかしら?」
「はい。ミルクをよく飲んで、すくすく成長しております。健康状態にはなんの問題もなく、魔力にも期待が持てるそうですよ」
「あら、それはよかったわ」
俺とウルテの子を案じてくれている。イリヤはなんて心の綺麗な女性なのだろう。
「イリ──」
「それにしても、あの女を片づけるまでにずいぶん時間がかかったわ」
「おめでとうございます、イリヤお嬢さま」
あの女? 誰のことだ?
息を殺し、こっそりと薔薇の陰からイリヤの様子を覗き見る。
「ありがとう、オードラ。お前だけよ、わたしが本音を話せるのは」
「恐縮です、お嬢さま」
──普段のお茶の席は大勢のメイドがいるのに、他にメイドは誰もいない。イリヤがティグリス家から連れて来たオードラだけが、かいがいしくイリヤの世話をしている。
「わたしもね、最初は王族からの求婚に戸惑うあまり、どうしていいのかわからないだけだと思っていたの。だって、男を焦らす、なんて古典的な手法をいまだに使う令嬢がいるとは思いもしなかったもの」
「まさか、気を引きたくてあのような振る舞いをなさっていたとは。このオードラも、お嬢さまからうかがうまで考えもしませんでしたわ」
「愚かよね。しかも、あの女が駆け引きを仕掛けていたのはマリファスではない、というところがまた笑えるのよね」
“あの女”とは? まさか、ウルテのことか?
「彼女が気を引きたかったのはセルツェ公爵だったのよ。でも彼は賢いわ。王族から言い寄られている令嬢に婚約を申し込むような愚は、おかさなかった」
「ウルテさまの駆け引きは、通用しなかった、ということでございますか」
「いいえ?」
イリヤが美しい笑みを浮かべた。
「そもそも駆け引きをすべきではなかったのよ」
駆け引きとはなんのことだ?
「いくら王族と言えど無理やり婚約を結ぶことなどできないわ。マリファスに愛情を抱けないのなら、家を通して正式に断ればよかったのよ」
ウルテは、セルツェ公爵の気を引きたかっただけ? いや、でも、イリヤは。
「無駄な駆け引きを一生懸命やっている姿は滑稽だったわ。でも、まさかマリファスが婚約者候補者の取り下げをギリギリまでやらなかったとはね。そのせいでセルツェ家に婚約の打診ができなかった。まぁ、父が裏でなにかしていたのかもしれないわ。父はわたしをどうしても王子妃にしたかったようだから」
「……王弟殿下の婚約者に決定したことを告げられたときのお嬢さまの悲しいお顔、オードラは一生忘れません」
「私もよ。でも努力が実ったときは、あの女とセルツェ公爵の婚約を知らされたときをしのぐ勢いで泣いてしまったわ。もちろん、嬉し涙よ?」
努力が実った? いったい、どういう意味だ?
「あの女が愚かで本当によかった。マリファスにあんな目で見られているのに夜会を欠席しなかったのも、夫を嫉妬させたかったのでしょうね。そのせいで、夫から愛情がどんどん失われていることに気づきもしないのだから」
……嘘だ。ウルテが夜会に出席を続けたのは俺に会うためだと、イリヤが。
「マリファスが人妻になった自分に手を出してくるとは欠片も思っていなかったのね。だって彼女は知らないもの。それまでわたしがたーっぷり、マリファスが欲しがる都合のいい言葉を与えて獣の情欲を太らせ続けていたことを」
そんな、イリヤ。まさか、キミは。
「そこで初めて、彼女は焦った。だから宿った子どもを産むことに固執したのよ」
「なぜでございますか? お嬢さまのお話ですと、ウルテさまは夫であるセルツェ公爵を昔から愛していらしたのですよね? それなのに、意に沿わぬ相手の子を産むなど……」
「それは目的があったからよ」
目的? 俺への愛以外に、なにがあるというのだ?
「彼女は勉強熱心だったわ。古代魔法の文献も図書室でよく読んでいた。その中にね、あるのよ。近親者の命を使った、禁忌の魔法が」
「禁忌の、魔法でございますか?」
「ええ。花崗岩に魔法陣を刻んで、そこに生贄の近親者を捧げる。すると、時を戻すことができるの」
「まあ、なんと恐ろしい……」
嘘だ。ウルテは、あんなに泣いて喜んで。
──喜んでいた、のか?
「彼女、そのために子どもを産んだのよ。もう一つ言うとね、その魔法陣に血を垂らした人物は記憶を持ったまま時間を逆行できるの。……すべてをなかったことにするつもりだったのね、憎い男の血を引く子どもを使って」
「ではなぜ、自らお命を?」
「んー、よくわからないけど、セルツェ公爵に上手く説明できなかったのではないかしら? ほら、馬鹿な試し行動で信頼を失っていたようだから」
「お嬢さま、では王弟殿下にその禁忌魔法を使っていただくのはどうでしょう? そうしましたら、お嬢さまも最初からセルツェ公爵の元に嫁げるではありませんか」
俺は脂汗を流しながら、オードラの言葉に唇を歪めて嗤った。
そうだ。生まれた子を捧げて時を戻して、ウルテにまた子を産んでもらえばいい。首尾よく逆行できたら、この悪辣なイリヤとティグリス家は適当な理由をつけて滅ぼしてしまおう。
そうとなったら、俺とウルテの子を一刻も早く保護しなければ──。
「無理ね。魔法を発動するには膨大な魔力がいるのよ? それに、頭の中で術式を寸分狂わず展開しなければならないの。搾りかすほどの魔力しかない上に頭の悪いマリファスには千年経っても不可能だわ」
「まぁ、お嬢さまったら」
「それにマリファスは純愛だと思い込んでいるけれど、人妻を襲って子を宿させるなんて悪魔の所業よ。王家の恥でしかないわ。そうね、あと半月もしないうちに急な病に罹るのではないかしら?」
王族の“急な病”。その言葉が持つ意味は。
気づけば、足ががくがくと震えていた。
「そうだわ、オードラ。花籠とお菓子を用意してくれる? 午後はまたセルツェ家に様子伺いに行くわ。わたしが行くとね、子どもたちが大歓迎してくれるの。半分はセルツェ公爵……クロンさまの血を引く子どもたちだから、愛しくてしかたがないのよね」
「ふふ、セルツェ公爵もお嬢さまのお顔を見ると笑顔になっていらっしゃいますものね。では、お子さまがたがお好きなお菓子を準備しておきます」
「頼むわね」
イリヤの声が、遠くから聞こえる。
どうして、こんなことになったのだろう。
ウルテが俺を愛していなかった、という事実よりも、イリヤのあの優しい気遣いに溢れた言葉がすべて偽りであったことになによりも心を抉られている。
この痛みが持つ意味にもっと早く気づいていれば。
今より少しは、ましな未来が待っていたのだろうか。




