第1話 一郎センセに食べられちゃダメだからね?
3章開始です。
「やぁ! 優秀編集者サマ」
いきなり肩を叩かれ、茉理は慌てて振り返る。
そこにいたのは彼女が敬愛する編集長。
年齢的には初老に差し掛かっているが、無駄に若々しい。
身体を動かすのが趣味で、最近はヨガにハマっている。
随分と凝り性で絵や書を描いてみたり、若い頃はボクシングジムに通ったりもしたらしい。
「……何ですか? その、お世辞を通り越して嫌がらせのような呼び名は。もしかして新しいタイプのパワハラですか?」
立ち上がると編集長より頭一つ分高い茉理は、その真意を問うべく三白眼で上から見下ろす。すると彼は見る見る顔色を変えた。
「いやいやいやいや、そんな訳ないだろ? ……最近の一郎先生は随分と調子がいいなっていう、そういう話だって!」
怯えた顔で身振り手振りで取り繕う編集長がおかしくて、茉理もようやく白い歯を見せる。
実際彼女の手元にも初版の動向のデータが入ってきており、小さくガッツポーズした程だった。
「あのトリックスター役の研究者が出てきてから、話が盛り上がってきているしね」
「……まさか編集長さんも、アレ読んでるんですか?」
茉理は思わぬところにいた読者に驚きを隠せない。
ヨハンがトリックスター扱いなのが少々納得いかないが。
あれは好き勝手やってるだけだと、彼女は強く主張する。
「何ていうか、彼の作品ってどこか中毒性があるからね~。……邪魔烏賊先生も結構ノリノリだし」
邪魔烏賊というのは一郎の作品『DDDD』の作画を担当をしている絶大な人気を誇る絵師のことだ。
「この前も、こっちに顔出してくれた時にね、『もっと助手ちゃんを活躍させて欲しい』って言ってたよ? 苦境で歯を食いしばる彼女を描きたいんだって! あの人がわざわざリクエストするのって相当珍しいよ? だから先生に伝言よろしくね」
「……えぇぇぇ!?」
茉理は思わず腹の底からの拒絶の声を出してしまう。
――それだけはアカン!
あのドSメガネにそんなの伝えたら、絶対にモンスターの巣とかに置いてけぼりにされる!
「……まぁ、その、伝えたところで、あの天邪鬼な一郎センセがその通りにしてくれるかどうかは、また別問題ですし、ね?」
取り合えず茉理はこんな感じで回避を試みる。
「そうだなぁ、彼ってそういうところあるからなぁ」
茉理はほっと息を撫で下ろし、残念そうに呟く編集長の後ろ姿を見送って自分の席に座った。
例によって取っ散らかった机のモノを右から左、そして左から右へとやっていると、再び後ろから声がかかった。
「…………青井ちゃん?」
今の声で理解した茉理は、敢えて放置プレイに徹する。
「あの……青井さん? お願いです、ちょっとだけでいいんで、お時間よろしいでしょうか?」
「……そこまで卑屈にならなくても。……何ですか、達川先輩?」
茉理が苦笑いしながら振り返ると、達川が半泣きでスマホを突き出してきた。
ピンク色でキラキラとデコレーションされたスマホ。
女子力の結晶のようなそれを眩しそうに見つめる茉理に、彼は深々と頭を下げる。
「……お願いです。どうか呪いを解いて下さい」
彼女がなんのことやらと眉間に皴を寄せていると、彼が勝手に事情を語りだした。
どうやら茉理を揶揄ったあの日以降、どれだけ炎天下の街を徘徊しようともレアモンスターをゲット出来なくなったのだという。
「それだけじゃないんだよ! 今、ウチの先生ってば違うゲームにハマっててさ――」
取り敢えずレアガチャをコンプするまでは顔を見せなくていいって言われたそうだ。
このところ毎日、仕事の休み時間はひたすらガチャを繰り返し、腱鞘炎にまでなったらしい。
一応自社で出版した分の印税からの課金だし、レアモンスターをゲット出来なかった負い目もあって断り切れなかったとのこと。
「……えっと、……腱鞘炎の件に関しては私、ノータッチですケド?」
「それはちゃんとわかってるって。……とにかく、青井ちゃんの性癖のことは誰にも言ってないから。……だからもうホント許して下さい」
「だから、そもそもその性癖の話が誤解なんですって。……まぁ、とにかく呪いは解いときますね」
茉理は付き合ってられないと、パッパと軽くそれらしく手を振ってみせる。
「……どうですか? ちょっと軽くなったでしょ?」
「……あれ? うん! 驚くほどスッキリした! ホントに呪いを解いてくれたんだね? ありがとう! ホントありがとう!」
達川は感激を全身で表現し、茉理の右手を全力で握る。
茉理が痛みで顔をしかめるのも気にせず、握ったまま何度も上下に手を振った。
「もう二度と青井ちゃんの性癖には口出ししないから!」
達川のその大声での感謝の効果は絶大で、周りのパーテーションからギョッとしたような顔が次々に飛び出してきた。その全員が茉理の顔を見てニヤニヤし始める。
――ちくしょう、なんて懲りない男!
茉理は怒りに震えながら無言で立ち上がり、ポーズを取った。
「……え? ……ねぇ、ウソだよね? ……今度は何? ……ま、まさか、レアガチャが出ない呪いなんて――」
「あ~あ、タッチ先輩言っちゃったね。……今のヤツって、ネットではシャレにならないって評判の呪いなんだよ? 本人が言ったことがそのまま掛かっちゃうんヤツ」
被せるような声の主は編集部一の美貌を誇る若きエース編集者。
「え? そんなのあるの? ……うわ、どうしよ?」
その言葉に達川は顔面蒼白になり、泣きそうな顔で何かを叫びながら部屋を飛び出していった。
「いや~タッチ先輩ってば、やっぱイジリ甲斐があるわ~」
彼女は手にしていた書類の束で自分の肩をトントンと叩きながら、達川の出て行った方向を一瞥する。
女性としての最上級の造形美を有するのは誰かと聞かれれば、茉理は真っ先に目の前の彼女だと答えるだろう。
出るところは出て、引っ込むところは引っ込む。
背は高くないが、腰の位置が高いので足は長い。
そして誰もが振り向く美形。そのうえで仕事は完璧。
後輩の面倒見はいい。編集長からの信頼は絶大。
その名も吉川百合。
「合わせてくれてありがとうございます。助かりました」
「ふふん。茉理ちゃんも結構ヤれるようになったじゃん。……一郎センセがいい感じで肩の力を抜いてくれたのかな?」
「……そうでしょうか?」
「うん。一郎センセって人間嫌いのクセに、人を見る目だけはあるからね?」
吉川の意外な高評価に茉理は驚く。
編集長といい、吉川先輩といい、茉理が尊敬する優秀な人間に限って、あんな一郎を買っていることが疑問で仕方ない。
「それよりさ、ねぇ、久しぶりにどう?」
先輩が胸ポケットからスマホを取り出してマイクに見立てて笑顔を見せる。
それを意味するのは二人っきりのカラオケ大会。
「もちろんお供します!」
茉理はいわゆる流行曲は詳しくないが、同じアニソン好きの吉川となら思う存分歌えるので、彼女と行くカラオケが大好きだった。
実は吉川は茉理の趣味に合わせているだけでアニソン以外も歌えるし、そのことは茉理だって承知している。
それだけに彼女の中で、吉川百合という銘柄は知り合ってから毎日毎日ストップ高を更新し続けているのだ。
「今から一郎センセのところに行きますけれど、絶対に五時までには帰ってきますから!」
そう告げると茉理は慌ててカバンの中に書類やら何からを放り込んでいく。
「……あらあら、ちょっと嫉妬しちゃうわね」
吉川の珍しいどこか冷めたような声に驚いて顔を跳ね上げると、婀娜っぽい笑みを浮かべた彼女が流し目で茉理を見つめていた。
「……え? 先輩があの人の何に嫉妬するって言うんですか?」
茉理からしてみれば吉川は全ての部分で一郎にコールド勝ちしている。
「だって、ホラ、茉理ちゃんって最近一郎センセと仲良さそうじゃない? ……私と遊びに行っても一郎センセの話ばっかりだし。今日だって通い妻しちゃってるし」
「か……通い妻って! 全くの誤解ですってば! センセはホラ、私の担当だから!」
「他に担当している先生もいるでしょ? でも通い妻は一郎センセだけよね?」
「それは、……そう、あのセンセが一番手が掛かるというか、ダメダメだから放っておけないというか」
さすがに茉理としても「異世界に取材旅行に行ってるもので……」とは言えない。
今まで築いた吉川との信頼関係が崩れてしまう。
「えぇ? 彼ってそんな感じだったかなぁ? まぁ、そういうことにしておきましょう。……でも絶対に一郎センセに食べられちゃダメだからね?」
言葉の意味を正確に汲み取った茉理は、顔を真っ赤にする。
「……だっ、大丈夫ッス! あんなヒョロヒョロメガネなんて返り討ちッス!」
何を言っていいか分からずオロオロした茉理は、取り合えず体育会系のノリで力こぶを作ってみせた。
それを見て吉川は大笑いする。
「うん。それなら安心ね。……じゃあ今夜の酒池肉林を楽しみにしているわ」
吉川は背伸びして茉理の頬を撫でるようにキスすると、軽やかな足取りで部屋を出て行った。




