望んだのは自分のほう
「最後にお目にかかれて恐悦至極」
片方の老人が一歩前に進んで、優雅に一礼する。
「は、はい……」
最後、ということばが柊の心に影を落とす。どういう意味ですか、と問いたいのに咽喉になにかがつかえて出てこない。
「柊、誰?」
突然現れた異国のふたり連れに、絨毯職人の青年は訝しそうな目を向けた。
「あ……。あの、国の知り合いで……。ちょっと、話をするから、ごめん……」
詫びる気持ちもそこそこに、柊は北に残した主のことで頭がいっぱいだった。あの、手負いの野獣のようだった男のことが。
放心したように離れていく柊の腕を、青年は慌てて掴み寄せた。
「あのさ。明日、やっぱりだめか?」
「……ごめん」
泣きそうな顔で、断られる。青年は表情を一瞬曇らせたが、すぐ笑顔に変えて「じゃあ、またな」と言うほどには大人だった。
「うん」
また、と手を振った柊に安心したように、それでも老人たちを一瞥してから走り去っていった。
その背中が砂埃にかき消され、やがて見えなくなってしまうと、柊はゆっくりと視線を落とした。
「あの、冬節さま?」
「……お久しぶりでございます」
若者たちの姿を見守りながら、北の宰相は寂しげに微笑んだ。
「環姫さまにお伺いしたきことがあり、参上いたしました」
そう言って、丁寧に頭を垂れた。
質素な柊の部屋に移動して、冬節は開口一番に問うた。
「環姫さまは今後、どういったご希望がございますでしょうや」
「……どう、とは?」
「もし、蟲を飼われたままの生活でよろしいのであれば紅玉をお届けに上がりますし、環姫の任を拒否なさるのならば、ご意向に沿う所存にございますが」
「環姫……環姫って、やめることができるんですか」
「……はい」
あまりのことに、驚きを隠せない。思わず絶句してしまった柊を、老人は優しげに見やった。
「蟲を流すことになりますので、お体のほうはまた弱くなられますが、例えばあの青年……彼の環姫になってお暮らしになるのもよいでしょう。最高級の蟲を贈らせていただきますぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください……。蟲を流すって……そんな。どうやって……」
「…………」
「簡単な話ではないんでしょう? なぜ……なぜ俺なんかに」
「主はおっしゃいました」
きっぱりと告げた老人は、しかしなかなか次の文句を口にしない。
なにかに耐えるかのように、その拳は浮き立つ血管が白くなるほどに強く握り締められていた。
やがて、「北の国では」と言い落として、小さな環姫をまっすぐ見つめた。すると柊よりも更に小柄な老人は少し上向き加減になるのだが、その視線は孫を見るかのように温かく安らぎに溢れていた。包み込むような、大らかな慈悲を感じる。
「北の国では、蟲の卵を体内で孵化させる方法を取っております。幼虫は外気に触れるとすぐに死んでしまうのです。ですから、環姫さまにお渡しした蟲はただの死骸です。誤って孵った蟲を入れてお渡ししてしまったのです」
「え……じゃあ……?」
「はい。ほんとうに、申し訳ない。それと言うのもこやつが……」
ちらりと傍らの人物を咎めるように睨みつける。しかし当の本人は嬉しげに頬を緩ませ、そうしてその姿からは想像もつかないような高い声を発した。
「だってえ。久しぶりに冬節さまからご連絡いただけたと思ったら、蟲のご注文なのですもの。ワタクシ、嫉妬してしまいましたわあ。まさか陛下の環姫だとは思わなかったのですう」
「…………え?」
柊は、己が聞いたものを消化することができない。
見かけは確かに老人だ。しかし、その声は若い女のものでしかありえなかった。
冬節は聞きなれているのか、まったく動揺を示さないで説教まで始めてしまう。
「お主はっ! それでもわしの姿で環姫さまの御前に現れるとは何事かっ」
「冬節さまのお姿を借りるのは、ワタクシの精いっぱいの愛の証しなのですわあ」
言って、がばりと抱きつくさまはどう表現すればよいものか。瞬きも忘れて強張る柊に気づいて、冬節は照れ笑いを浮かべた。
「世知庵というのは、若い時分に住んだあばら屋でして……。幼名を節と言うのです。冬という字は恐れ多くも先代の王より授かったものでして」
「ワタクシなんか、節さまの時代からずっとずっとずうっとお慕い申し上げておりますのにい! なぜ受け入れてくださらないのですかああ……」
「黙っておれ、この化け物めが」
「ひいっ! あまりのおことば! ひどすぎますわ!」
号泣しはじめたのはよいのだが、その姿はあくまでも老人のまま。忌々しく舌打ちをした宰相と、まったく同じ顔で泣くものだから対応に困った。
「あの、この人は……」
「ワタクシ? ワタクシは延珠亭の店主よっ。公孫樹と言うの。せいぜい覚えておくことねっ」
「なんじゃ、その態度は! 環姫さまに向かって無礼千万!」
「なによう! 冬節さま、どうしてこの子ばっかり構うのですかあ……! ああーん」
「は、あ、あのう……」
柊はただ魂を抜かれたようにふたりを眺めている。
そんな状況を見かねたのか、冬節は不本意そうな顔をしつつもそっと店主に耳打ちをする。するとたちまち泣き止んでおとなしくなるのだから現金なものだ。嘘泣きかと怪しむほど、その顔は晴れやかに皺をつくった。
ようやく静かになった場にひとつ、嘆息して、真剣な眼差しを柊に向ける。
柊も慌てて居住まいを正した。
「環姫さま。……いえ。柊どの」
「は、はいっ……」
冬節はじっと環姫を見やる。目の端が垂れて、思いをどこか遠くに馳せているような、そんな顔をする。
「……ああ。懐かしいですなあ。わしは陛下に、いつか大切に思う方ができたら飲ませてくださいと卵をお渡ししたのですよ」
「……」
「しかし、陛下はもうとっくに決めておられたのです。心の底から愛する人ができたとき、蟲を燃やしてしまおうと」
「なぜ……なぜですか……」
「生涯、自分と添うのは可哀想だとおっしゃってなあ……。ですから、柊どのを諦めるために、すべての蟲に火をおつけになったのです」
「え……」
柊は、あの夜なんと言った? 主に向かって、泣き叫びながら、なにを訴えた?
「それなのに、気がついたらあなたさまに無理やり蟲を飲ませて、環姫にしてしまったと泣きながらお戻りになられたのですよ」
「…………」
「甘露水がお好きなようでした、とお教えすると子どものように喜ばれて……」
くしゃり、と老人の顔が歪んだ。嗚咽を必死に抑えているようでもある。
「……環姫さま。陛下をお許しください。あの寂しい方を、どうかお許しくだされ。どうか、どうか……」
深く低頭するその先に、彼はなにを見ているのだろう。
白い髪は主を思い起こさせる。狗と狼のあとでは、さすがに櫛は使えなかった。ぎこちなく指を入れて梳いてやったけれど。
気持ちよさげに細められる瞳、緩やかに開く唇。
ああ。
俺は。俺は……。
「あの人は、もう俺を諦めてしまったんですね」
ぽつりと呟けば、冬節ははっとしたように顔を上げた。
「……はい。そうでなくば、我らが環姫さまを見つけ出すことはできませなんだ」
「俺が、俺が悪いんです。あの夜、諦めちゃいけないと、そう言ったのは俺なんです……」
「……柊どの、それは……」
「だから、俺も諦めません」
「……」
まさか、と老人の目が大きく見開かれる。「環姫さま、それでは……」
そこへ、ずっと黙っていた延珠亭店主と名乗った女が老人の姿で語りだした。
「あの方は、とっても弱くってねえ。狂った心は治らないの。どうしたって奥の底辺にこびりついているんだから。これからも激情のままに、ひどいことをされるかもしれない。でも蟲が入っているからすぐに元通り。どう? 生き地獄よ。陛下だってそれがわかっているから諦めようとしたんじゃないの。……ねえ、それでも主の元へ戻るの?」
探るように見つめられる。
しかし柊は、青白い顔でしっかとうなずいた。
「…………もし、必要としてくれるなら、俺は、戻りたいです……」
言うと、延珠亭の女は笑った。
「ほらね。あんただって人のことは言えない。愛のかたちなんて生き物と同じ数だけあるんだから」
「……そうですね」
柊も破顔する。今見ると、眼前のふたりはちっとも似ていない。時折悪戯げに光る、踊るように動かす店主の目は、恋をする女のものだ。
「延珠亭って、なんの店なんですか」
いつか訪れた、塔のような建物を思い出す。
「ええ? そうねえ。しいて言うなら、蟲屋かしら」
「蟲……蟲って……?」
「薬みたいなものよ。うまく使えば体にいいし、悪用すれば命を落とすってね」
それは。
それは、人の心も同じだ。
よかれと思ってしたことが、相手をひどく傷つけることもある。
柊は首に下げた銀の筒を手に握り締めた。中にあるのは蟲の死骸が灰になったものでしかない。しかし、これは柊が真に彼の主の環姫になりたいと望んだ象徴なのだ。
未練があるのは柊のほう。より環姫に執着するのは、狂った主などではない。頬に残る涙の筋をごしごしこすっている、痩せっぽちの両性なのだから。