ほんとうに怖いのは
すぐにしゃがみ込んでしまいそうな体に鞭打って、柊はのろのろと足を動かした。前方から人の気配が近づいてくるのがわかった。騒がしい足音が冷たい床を通じて伝わってくる。
「…………」
飛び交う怒鳴るような声に、身の竦む思いがする。しかしそれらは存外明るく、笑いさえ聞こえてくるのが救いだった。それに。豪快な笑い声は、聞き違えるはずもない、愛しい主のものだ。
そうだ。あの人は、北の僻地に住むただの男ではない。短い間とは言え、ふたりきりで過ごした日々が今となっては絵空事のようにも感じてくる。憐れな両性が夢見た、儚い幻想のように。
それでも涙が止まらない。
「柊っ」
多くの人を従えて、柊の立つ廊下の端に現れた国主は威風堂々と、実に嬉しげに少年の名を呼ぶのだ。
一瞬、目が合った気がした。
しかし気のせいだった。
瘧を患ったかのように、その身はがくがくと上下に揺れ始める。
主はたったの一歩で、柊の横を抜けた。
――――環姫が自らその身を隠すとき、神さえその行方を追うことはできぬ。
俺。俺、環姫なんだ。ほんとうに、黒斗真の環姫になったんだ……。
いったい、それは柊にとって救いなのか、それとも。
右足を前に。続けて、左足を前に。前へ、少しずつでも前へ。
「…………うっ」
離れる。離れていくこの行程は、果たして前へ進むと言えるのだろうか。
小さな赤い舌を出して、握り締めた球体を舐めたとき、北の王宮は時を止めるがごとく、不気味なほど静まりかえり、やがて。
悲鳴が上がった。
細い体に戦慄が走る。それが合図だったかのように、歩みは速度を上げた。
黒斗真、泣くな。悲しいのは、きっと今だけ。ここはもう、俺しか存在しなかったあの雪原じゃあない。お前に相応しい人間が、きっとたくさんいるよ。きっと、選ぶのが大変なくらい。きっと、いつか環姫にした痩せっぽちの人間のことなんてすぐに忘れるくらい。
いつも不安を抱えていた心の臓が、皮肉にもその危惧が失われた今になって、かつてない痛みを柊にもたらす。
北の国主は、もう痩せた環姫を見つけだすことができない。
薄い背中を押すように、喧騒はますます大きく激しく、天に届くかのような咆哮が上がる。
柊は振り返らなかった。王宮を出るのにかなりの時間を要したが、誰ひとりとしてその存在に注意することもなく、北の環姫は静かに静かに姿を消したのだった。
「あっ、また赤くなってるぞ。ちゃんと布を被って外に出ないといけないだろ」
「……ごめん」
真っ白い腕を取られて、柊は笑った。
太陽が射すように降り注いでくる。陰鬱な空気こそないものの、景色を歪ませるほどの暑さはある意味凶器だ。少し外を走っただけで、いくつも浮かんだ汗の玉が転がるように滴り落ちてくる。
「せっかくきれいな肌をしているのにさ。もったいないだろ」
「はは。ありがと」
「柊。本気にしてないな? お前はどうしていつもそうなんだ」
憮然とした表情で嘆く男は、この国に来てから初めてできた友人だった。ある日、店先に吊られている色とりどりの絨毯に圧倒されて見入っていたとき、工房から出てきたのが彼だ。いつか町でいちばんの職人になるのだと笑った男は、典型的な南の民で、その明朗さが柊には眩しかった。
「なあ。明日休みが取れたんだ。今度砂漠の西のほうにできた泉は、ものすごく奇麗なんだってさ。見たこともない鳥がいるって言ってた。よかったら行かないか」
笑うと見える白い歯は、その褐色の肌に映えて清清しい。
南の人間は、柊の肌に驚かなかった。聞けば、国の外れの山岳地帯に住む人々は皆白い肌をしているらしく、交流も盛んだったため見慣れているということだった。
「陛下の環姫さまも、透き通るくらい白い肌をされているようだしな」
と笑われたとき、動揺を隠せなかった。
環姫さま。
目の前の青年は、自分もその「国主さまの環姫」なんだと言ったらどういう顔をするだろう。馬鹿にしたりはしないだろうから、変わらず笑ってくれるのだろうか。そんなことを想像しながら、もちろん柊は自分の身分を明かしてなどいない。
正直、柊はここへ到着するまでのことをあまり覚えていなかった。
草里先生に挨拶をして、犬ぞりを用意してもらって母と国を出た。たまに意識を取り戻す母と、最後にたくさん話をした。臥せっているのは母のほうなのに、泣く柊を優しく慰めてくれた強い人だった。
南で小さな部屋を借りて、太陽の光を受けた空気をいっぱいに吸い込んで、数か月後、眠るように逝ってしまった。手を握り締めながら、そのころには柊はもう泣かなかった。母は幸せそうに瞳を閉じ、恐らくはようやく父に会いに行ったのだろう。
もしも悔いることがあるならば。柊はひとつ嘘をついた。
母とお別れをしたあとは、主が迎えに来てくれるのだと。
「なあ、柊。聞いてるのか?」
「えっ」
顔を覗き込まれて、心臓が大きく跳ねる。
光線の加減で、黒い瞳が紫のように見えたのだ。
「どうした。ぼんやりして。具合でも悪いのか?」
「あ、ううん。ごめん。大丈夫だよ……」
「ならさ、明日。……どうかな」
「あ、……うん」
返事をしながらも、心はあの極寒の大地に飛んでいる。じりじりと肌を焼く太陽も、路傍の石を濡らす汗も、頬に張り付いた砂漠の砂も、すべてが嘘のように感じる。
「ええと、泉……?」
黒い影が、五つ。
その巨躯に櫛を滑らすと、満足げに目を細めた。
わかっている。柊が求めるのは、雪のなかの泉だ。あの乾いた丘陵には、最初からなにも見つからないことを北の環姫は知っていた。
「そうだね、じゃあ……」
それと同じくらい、この国で生きていく意味も理解している。
望むものが手に入らないと嘆くのは間違っている。経過はどうあれ、結局捨てたのは己なのだから。
今まで、心の底から欲しいと願ったのはたったのひとつだけ。失った今、どこにいてもなにをしても同じことだ。青年がいくら似たような肌で嬉しげに微笑んでも、柊を包み込むように腰を曲げて話しかけても、代わりになれるはずもない。
柊がうなずくのは、主を忘れたいと願うからではなかった。主を思いながら、与えられた命を繋げていきたいから。
しかし、柊は結局砂漠に出現した泉を見ることはなかった。
激しい売り買いが繰り広げられる市場から少し離れた道の脇、影を探してたたずむふたりの元へ、小さな老人が声をかける。
「環姫どの。ご息災でなによりでございます」
「………………あ、ど、どうせつさ……せ、せちあんさん……?」
驚愕に耐え、まずは名を呼んだ柊を褒めなければならない。
南の国、爽やかな風が吹き抜ける午後の一幕、小柄な老人が風景に溶けこまないままに、姿を消した環姫の元へ馳せ参じたというわけなのだが。
身を覆う暑苦しい格好も、目立つほど小柄な体も、異質さに拍車をかける。
なによりも柊を瞠目させたのは、その存在だ。
姿かたちを言うのではない。
数だ。老人は、鏡で映しているのかと錯覚するくらい酷似しているひとりを連れて、彼らは柊の前に現れた。
並んでみると、今さらながら気づく。
宰相である冬節と、あの洞窟に現れた謎の老人はそっくりだ。しかし、なぜ居場所が知れたのだろう。
「…………」
嫌な予感が脳裏をよぎる。
環姫ならば。そう、環姫ならば、主を初めとして主に関わるすべての人間に対してこの身は隠されているはずだ。
「俺は、もう、環姫ではなくなったのですか」
泣きながら言うのはおかしい。
紅玉はあとひと舐めふた舐めしたらなくなってしまう。死ぬのが恐いわけじゃない。主と離れた環姫など、なんの意義もない。だから柊が環姫であり続ける必要性はどこにも存在しないのだけれど、そういうことではないのだ。
環姫が恐れるもの。それは例えば、蟲の毒よりもずっと、ずっと。




