その香りに心酔わせて
飲まされた蠱香のせいか、体の奥から噎せかえるような香りが溢れ出す。
きつく抱きしめられて、相手の呼吸がだんだん荒くなるのに気づいていた。
臓腑からなにか酸っぱいものがせりあがってくる。柊はそれらをごくりと嚥下するように咽喉を鳴らしてから、悪寒にわななく体を鼓舞しながら主を見上げた。
紫の目が躊躇うように揺れている。
それがひどくおかしくて。
こんな骨だらけの体のどこに魅力があるのかさっぱり理解できない。
それでも、少しでも、触れ合っていたい。
だんだんと近づいてくる高い鼻梁が頬をくすぐると、柊は笑ってそっと瞼を閉じた。
お前に選択肢がないことはわかっているんだ
だけど、俺が、俺自身が、柊と言う人間が、男も女も両性をも越えて、俺が選ばれたんだと、そう思えて嬉しかったんだ。
なにかが砕ける音がする。心臓のあたりからひびが徐々に広がっていって、体を折り畳んだのは、自分のぬくもりであることをごまかそうとする逃避なのかもしれない。
「ヒイラギ……」
こんなときでも、お前の声は耳に心地いいよ。
黒斗真。
ごめんな。こんな面倒くさい体でごめんな。
でも、俺、嬉しかったんだ。
お前の環姫になりたかったよ。そう言ったら信じてくれるか。お前は優しいからきっと俺の願いも聞き届けてくれたんだろうな。
黒斗真。黒斗真。
俺、俺、ほんとうに嬉しいんだ。
もう二度と母さんと会えなくても。諦められるくらい。
俺、一瞬でも、なにかの気の迷いだとしても、俺、お前に愛されたよな?
「ヒイラギッ」
俺の名前を呼んでくれてありがとう。
お前に会えて、俺は、なんて幸せだっただろう。
「柊、少し我慢してくれ」
隆々とした腕が、壊れ物を扱うように柊の体をぎこちなく抱き上げた。ぐったりと身を預ける両性は、抵抗するようすもなく小さなうなずきを返すだけだ。
黒い、炎のような煙のようなものが立ち上ってきてふたりを包んだ。周囲から遮断され、一瞬ながら完全な無が訪れる。キィーンと高い音が鳴り響いたかと思うと、いずこから沸き出でたのか足元に水が広がり、深淵なる闇の水面に自分たちの姿が映し出されている。
「……ひっ……」
その、一切の支えを失ったかのような恐怖に堪らず悲鳴が漏れる。
心配そうに見つめる四匹の獣と、目が合って。
あっ、と思う間もなかった。主に抱かれたまま、ふたりの姿は水面に飲み込まれ、最後に白い髪の一房が小さく波立たせた後は、濃い霧もたちまち掻き消えて変わらぬ雪景色が残るばかりとなった。
一旦落ちた意識が浮上する感覚を捉えたとき、柊は「環姫」と囁く声を聞いた。
しばらくして、ぼんやりと虚ろな目に光を当てると、
「あら、お気づきになられました?」
と平淡な声に迎えられた。
褐色の肌に緑の瞳。典型的な北の民である。どこか見知った気がするのは、もしかしたら以前にも世話をしてくれた人なのかもしれない。
「ここは……」
言って、驚いた。声が出る。痛みも引いている。
「王宮ですわ。国主さまが戻られたので、あちらこちらで大騒ぎなんですよ」
「……そうですか」
「先ほどまで冬節さまがいらっしゃったのですけれど。お呼びいたしましょうか」
「い……いいえ」
女の口調から、たかが寝込んだ両性風情に構っている暇はないと言い渡されている感じがして、柊は慌てて断りを告げた。
ほら、もうこんなにも遠い。
体がいくら快方に向かっても、柊の心は重く沈む。そんな少年に追い討ちをかけるように、耳障りな声と音が平穏を破った。
「まったく期待はしていなかったがなあ!」
「大博打に勝ったような心地じゃわい!」
騒がしく近づいてくる男たちは、先触れもなく突然に部屋の扉を潜った。
体を強張らせながらも上半身を起き上がらせた柊に気づいた訪問者は、その巨躯を見せびらかすかのように乱暴に床を鳴らす。
「お、目覚めたか。この度はようやったのう」
「…………」
まだ完全に覚醒したわけではない。しかし、この声にも聞き覚えがある。縞を助けに行ったとき、あの館にいた兵の声によく似ている。
「これでようやく北の冬も、厳しいだけの生活から解放されるわ。どううまく立ち回ったか知らぬが、上々だ」
部屋の壁に跳ね返ってきそうな大声で笑うと、男は小さな皮袋を放ってきた。
「褒美だ。あと、特別に関所の札も用意したでな。母御の療養に南へ行くのもよかろう」
「…………」
柊は足元に投げられた袋をじっと見つめながら、男の口上を耳から耳へ流していた。それでも聞こえ入ってくるものを排除することはできなかった。
すでに後宮に美姫が集められているというようなことや、跡継ぎや、醜い政権争いのことや、そういった柊の世界からとても遠い話を。
しかし。
「まさか環姫にまでなるとはな、まったく恐れ入った。どんな手法を使ったのか伝授たまわりたいくらいじゃわ」
「陛下秘蔵の蟲を、たらふく飲んだと聞いたぞ」
下卑た物言いで笑われたときには、思わず疑問を返してしまっていた。
俺が。なんだって?
「お、俺は……俺は、環姫なんかじゃない……」
震える声で告げると、男たちは目を見交わして更ににやにやと嫌らしい笑いを浮かべてくる。
「蠱香の匂いをぷんぷんさせておいて、まだ言うか」
「惜しいことをした。まさかお前などにな。あれほどの質の蟲はのう、なかなか……」
大仰に嘆息する男を、不快に思うゆとりもない。
「まじこりって……だって、あれは……花を粉にしたものだと……」
頭のなかに、縞の母親の泣き声が轟く。思い出すたび、身が切られそうなくらい辛い慟哭だ。
「花じゃと?」
男は訝しげに首を捻る。その所作のひとつひとつがふざけているようだ。
「あれだ。市井で流行っておる惑わし香のことよ。厚かましくも蠱香の名で呼ばわっておるとはな」
「ほんとうに知らぬのか。蠱香とは蟲の卵のこと。熱で温められ、孵化する際にそのような香りを立てるのじゃ」
すぐに理解をすることはできなかった。
はあ、と自らの熱い息を嗅いで、すでに酔ってしまったかのように力が抜けていく。
「知っておるか。環姫が自らその身を隠すとき、神でさえもその行方を追うことはできないとな」
つまりは。この王宮から、北の国から去れと言っているのだ。
まだ体の節節が痛む。しかし、蟲を入れた身になにを遠慮することがあろう。未だ青白い顔で掛け布に埋もれる少年、やっと戻ってきたと思った主に環姫までついてきた。これから娘を王宮に差し出そうと画策している男たちにとって、柊の存在は目の上の瘤に等しい。早々に排除するに越したことはないのだ。
瞬きを忘れたようにうつむく両性に、男は苛立ちを隠しきれない動作でその腕を掴み寝台から引きずり出した。
「あっ……」
急に立ち上がれるはずもない。柊はそのままずるずると床に崩れた。
いつの間にか消えていたと思った女が戻ってきた。
なにかを男たちに差し出したが、そのまま柊に投げてくる。
「これはな、我らの情けじゃぞ。恐れおおくも陛下の血でつくられた紅玉じゃ。ありがたく思うことだな」
ころりと丸いただの赤い玉が、愛しい主の血と聞いて柊はぎゅっと手のひらに包み込んだ。
蹴られるように廊下に連れられて、一歩一歩、踏みしめるがごとく冷たい床に素足を這わせる。
「黒斗真」
呼べば、なぜか心のつながりを感じる。主の熱い感情が流れ込んでくる。
「柊がっ……」
遠くで、叫ぶような声が聞こえたのは、悲しい思い込みなんかじゃない。
手のひらから、甘い匂い。黒斗真の匂い。ぽたりぽたりと涙が頬を伝って落ちていく。
「さようなら」
北の環姫が初めて主に贈ったことばは、北の王宮の、日の射す庭に滲んで、やがて消えてしまった。