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『四十』

『40』

 アジュはゆっくりと本を閉じた。

 ハル・ヨンウン日録--。何度も読み返し、いま掌中にあるこの本は、希望そのものとなった。

 病原菌と抗菌薬。相反するようなそれらを、ひとりの人間が創り出したという事実。そして、幸運は重なった。

 日録に記された、病原菌に感染した者たちが発症した症状はコルンジュ病に近いものがあった。特に、急進行する型と遅進行する型が混在していたことなどは、コルンジュ病に酷似している。

 畢竟、これらの記述は、コルンジュ病が人為的に引き起こされたという可能性、その確度を引き上げた。だが同時に、的確な抗菌薬を創製できればコルンジュ病を駆逐し、この惨劇を収束に向かわせることができるかもしれないという希望も紡いだ。

 ハル・ヨンウン日録を最初に読み終えた後、アジュは即座に内容をユウリに話した。

 「あんたには神の加護があるのかもしれない」

 ユウリは真剣な眼差しでそう評してくれたが、アジュ自身はそう思えなかった。むしろ、自身一人の力ではないことを痛感した。

 コルンジュ病に苦しむ老若男女、地位も立場も様々な皆の願いが、祈りが、叫びが、仮にちっぽけなものでも、微かなものでも、無数に連なり希望への途を繋いだのだ。もちろんユウリに悪気はないだろうが、僥倖や幸運などの言葉で片付けてしまってはいけない気がした。

 そしてもし、神の加護などというものがあるのならば、それは一人の者に向けられるのではなく、皆に須く降り注ぐべきものだと思う。神論者ではないが、神がいるのならばそうであってほしい。

 神に思いを馳せたからだろうか。ふとアジュの脳裏に、神を冠する神皇帝のことが浮かんだ。

 世界を統べるバルマドリー皇国の頂に君臨する者。王国の王女であるアジュにとっても、その存在は遥かに遠い彼方だ。生涯を通し、会うことがあるのかも定かではない。存在していることは知っているが、普段、その存在を意識することはない。

 いてもいなくても一緒……そんな無礼な思いすら抱く。特に、コルンジュ病の惨劇の只中にあっては、何一つ動きを見せない皇国への不信こそあれ、敬意や尊敬の念は皆無だと言えた。

 神皇帝、皇国、その類の言葉をアジュは思考の中から追い払った。無いものと思えば、心を捉われることはない。

 為すべき者は、今ここにある自分。それに同道してくれる者があれば、ただただ心強く、嬉しい。強要するものではない。

 だから、それは願いだった。強制力など皆無の、純真なる願いだった。

 ウォルバレスタへの帰国を決断したアジュは、ユウリに同行してほしい旨を伝えた。懇願の態にならぬよう、重く受け止められぬよう、淡々と願いを伝えるように努めたが、上手くできたかは定かではなかった。

 ユウリは真剣な表情を崩さずにアジュの言葉を聞いていた。アジュの願いをきちんと受け止めてくれていることは明白だった。

 アジュの話を聞いたユウリからの返答は即答だった。迷う素振りもなく、断られた。

 それが故にアジュの心を支配したのは、清々しさに似た感情だった。引きずる思いもなく、自然な笑みを浮かべられた。呼応するように、ユウリの顔にも笑みがあった。

 「あんたには、いつかまたどこかで会うような気がする。まあ、当てずっぽうだがな」

 不遜な笑みに変え、ユウリは言った。

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