『十二』
『12』
大万薬の調製書が納められたという中央薬師堂。その成り立ちや外観に関しては、歴史書などの文献に多少の記述があった。ただ、場所について記載された書は未だに一冊たりとも見つかっていなかった。
コルンジュ病が発症してから約一年が経過する中、中央薬師堂跡の発見は、この惨状からの 解放へと繋がる数少ない糸口になり得ると言え、皆がこぞって中央薬師堂に関する記述を求めて文献等を読み漁った。それでも当該文献の発見には至らず、最近では「そもそもそのような文献は存在していない」と結論付けた者が大多数を占めている。
そうした話に触れる中でデルソフィアは、文献が存在するか否かには重きを置かず、仮に中央薬師堂の場所を記した文献がなくとも、中央薬師堂そのものが存在したことは間違いがなく、だとするならば、そこへ辿り着く道が必ずある筈だと信じた。少し意外だったのは、文献の発見に固執しているように見えたアジュが、デルソフィアとルネルからの提案とはいえ、文献探しにひとまず区切りをつ王宮を飛び出して動き回ることを承知したことだ。
当てがあるわけではなく、無駄骨だったり徒労に終わることの繰り返しが容易に想像された。だが、その無駄や苦労を積み重ねなければ、闇に沈むこの局面を打開できないとデルソフィアは考えていた。そうした考えを、ルネルは何の抵抗もなく受け入れるだろうと思ったが、アジュがどう反応するかは分からなかった。故に、二つ返事で了承した姿を意外に感じたが、アジュもまた文献探しに手詰まり感を抱いていたのかもしれないと推察した。
三人が王宮を飛び出すことを決断する前に、アジュは中央薬師堂以外にもウォルバレスタ王国には四つの薬師堂があった話をした。それは、それぞれ東西南北を冠した薬師堂だったが、現存しているのは東薬師堂と北薬師堂だけ で、西薬師堂及び南薬師堂は跡地となってしまっている。
ただ、現存する二つの薬師堂も、跡地となっている二つの薬師堂も、中央薬師堂とは異なり、いずれも場所は明らかになっていた。それならばと、ルネルは、東西及び南北の薬師堂と薬師堂跡をそれぞれ結び、さらにその二つの線が交差する地が中央薬師堂があった場所なのではないかと指摘した。だが、アジュは首を振った。
東西及び南北をそれぞれ結ぶ二つの線が交差する地は無いのだという。厳密に言えばその地はあるが、それは東西の薬師堂と薬師堂跡を結んだ線を西薬師堂跡よりもさらに西へと延ばした地になるのだと説明した。つまり、南北の薬師堂と薬師堂跡は西薬師堂跡よりも西側に位置しており、東西及び南北を結んだだけでは二つの線は交わらない。
それでも、遥か西のその地を訪れた者は幾人もいた。彼らは皆、ただの草原であるその地に立ち、途方に暮れ、やがて足取り重く帰路につくこととなった。
こうしたアジュの話を受けた後、デルソフィアが東西南北の薬師堂及び薬師堂跡を実際に訪れるしかないと断言した。これに即応したルネルが頷いた。デルソフィアとルネルの視線を受け止めたアジュは、躊躇うことなく首肯してみせた。
王宮を飛び出してみることが決まると、次に、四つある薬師堂及び薬師堂跡うち、どこを最初の訪問地とするかを検討した。現存している薬師堂か、跡地となっている薬師か。この結論は、すぐに出た。
三人とも、跡地よりも現存する薬師堂の方が何かしらの手掛かりを得る可能性があるのではないかと考えていたからだ。現存している東薬師堂と北薬師堂のうち、王宮からの距離の近い東薬師堂を最初の訪問地とし、以降、北薬師堂、南薬師堂跡、西薬師堂跡の順で訪れることを決めた。南薬師堂跡と西薬師堂跡については、西薬師堂跡の方が距離は近いが、南薬師堂跡への訪問を一日で完結させるのは不可能であり、それならば遠征という形で西薬師堂跡と南薬師堂跡へ連続して訪問してはどうかと、ルネルが提案し、アジュの判断を仰いだ。
一日で往復が可能な東薬師堂や西薬師堂跡とは違い、数日間、王女が王宮を離れるのである。供する者の問題などを踏まえてのことだった。
だがアジュは、「供する者はいらないわ」と言った。
思わず眼を瞠ったデルソフィアとルネルに対してアジュは、「だって、あなたたち二人がいるじゃない」と微笑んだ。
その言葉にルネルが真っ先に跪き、それをたデルソフィアはやや遅れて倣った。即座に反応できないこうしたところは、まだまだずれているのだと痛感した。一方のアジュは、ルネルの前に屈み込むようにし、両肩に手を添えて立たせた。
「跪かないで。立って、同じ目線で話をしたいの。…これからもずっと、そうしてほしいの」
ややぎこちない口調だったが、眼差しには真剣味が帯びていた。
「アジュ様のお気持ち、よくわかりました」と言い、ルネルは微笑みながら一つ大きく頷いた。
眼差しを交差させるアジュとルネルの姿は、上辺ではなく、心奥で通じ合っている者同士のそれに見え、デルソフィアは少し不思議な気持ちになったが、女同士のこと故に、そういうものなのかもしれないと思った。
「本当は敬語もやめてほしいんだけど、それはまあ、追々ね」そう付け加え、アジュは外出するための着替えへと席を外した。
ややあって、奥の部屋から側仕女のオルセーラが現れ、デルソフィアたちのもとへ歩み寄ってきた。
「アジュ様は、まもなく来られます」と言い、さらに続けた。「本来なら私も同行いたしたいのですが、アジュ様に止められました。確かに私は、身の回りのお世話をさせていただく以外、何の取り柄もございません。同行しても足手纏いになるだけ、と自身を納得させました。くれぐれも、アジュ様のこと、よろしくお願いいたします」
オルセーラは深々と頭を下げ、それをなかなか上げようとはしなかった。デルソフィアとルネルは思わず顔を見合わせ、次いでルネルが頭を上げてくれるよう促した。それでようやく頭を上げたオルセーラの表情には不安が満ちていた。
長年、側仕が常に傍にあるという暮らしを経験してきたデルソフィアは、オルセーラの心情を慮ることができた。改めて、側仕や側仕女が主に向ける思いの強さを痛感し、同時にある一人の姿が脳裡に鮮烈に浮かび上がった。
誰よりも、その消息を知りたいと願った。だが、新たなる道へ踏み出した時、その願いを心奥へ閉じ込めた。自身の利を排除できぬ者は、大義に向かう資格はないと判断したためだ。
しかしながら、共に過ごした時を無にはできない。共に過ごした時の重さが、濃さが、強さが、心奥に拵えた自戒の檻を越え、願いを引き摺り出そうとしてくる。それでも、そんな脆弱な自戒の檻を持つ自身を不甲斐ないとは思わなかった。
「ハーネス、どこにいても構わない。無事で、無事でいてくれ」デルソフィアは眼を閉じ、そう願うことを今だけは己に許した。
「何故、こんなことに…」
呟く程度で響いた言葉で、デルソフィアは我に返った。眼を開けると、声の主であったオルセーラは両手で顔を覆っていた。
主に同行できないという非日常の事態に陥り、気持ちが行き場を失い彷徨った末の行動だ と、デルソフィアは判断した。凛とし、冷静さを纏っている--そんな印象を先日の初見の際、オルセーラに対して抱いていたが、身内では不安や恐怖が波立ち、不安定に揺れ惑っていたのだろう。
それ程までにコルンジュ病は…。
デルソフィアは両の拳を握りしめていた。拳が痛みを覚えた時だった。それは、奥の部屋の方から聞こえた。
「これは、怠惰になった人間に対する神の罰なのよ。だから、どんなにつらくても向き合い続けていくのが贖罪なの」
先刻までの穏やかさは消えていたが、かといって厳しさや険しさを纏っているわけでもない。まさに無の表情で、奥の部屋からアジュが現れた。
達観している--アジュの姿を目の当たりにして、デルソフィアはそう感じた。自身と同い年だというアジュが、そこに至るまでに重ねた経験に想いを馳せると、心がとくんと跳ね、疼いた。
それは憐憫の情ではなかったが、その正体を断定することはできなかった。ただ、達観した態でいる眼前のアジュが、人生の終着地に立つ者の姿ではないということは断言できた。
笑い、泣き、怒り、悲しみ、迷い、希望を抱き、夢へと歩む。そんなアジュの姿を見てみたいと思った。
そう思うと同時にデルソフィアは口を開いていた。
「それは違う。あなたも含めたこの国の者たちが日々闘っているのは、贖罪のためなどではない。自身の回りにいる者たちの幸せを願っているからだ。
十年先も百年先も、千年先の未来においても、この街は、この国は、平穏で幸せに満ちた地でなければならない。それは決して脅かされてはならないものだ。それを脅かすものがコルンジュ病であるから、皆が今、闘っている。
今日を必死に生きている民たちは、何も罪など犯していない。民たちを先導している王君一族も、そしてあなただって、もちろんそうなんだ。




