第三十二話 夢の世界で
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落ちている。
光の無い世界を、ただ不思議な浮遊感を感じながら落ちている。
それはまるで水の中に沈んでいるような、或いは月のような弱い重力に引かれているかのようだ。
そういえばあの時も、こんな感じだった気がする。
結局は私の早合点だったんだけど、好きな人に告白して振られたと思い込んだ私が攫われたあの海。
それまで穏やかだった海から突然大きな波が襲ってきて、私は引き摺り込まれるように海へと落ちていった。
水の中から見る夕陽はとても歪んでいて、しかしとても美しかった。私の口から溢れ出る空気が気泡となって天に登っていく。
私は無意識に手を伸ばして、しかし私の身体は深く、深く沈んでいった。
その景色を思い出したその時、ずっと暗くて何も見えなかった闇の世界が一変し、あの時の光景へと変わっていた。
……私、あの時の死から逃れられていなかったんだね。
神様がどんな手違いで私をあの生まれ変わらせたのかは知らないけど、結局それは何かの間違いで、私をもう一度あの時と同じシチュエーションで死なせようとしているんだ。
だってほら、今見える景色は余りにもあの時と同じなんだ。歪む夕陽の美しさも、私の肺から溢れた空気たちが作り出す気泡の形も、この身が感じる水の冷たさも、息苦しさも全てが同じだ。
そう、そして意識がゆっくり遠のいていくこの感覚も、全く……、同じだからーー。
「……本当に、私がついてないとダメダメなんですから、アリス姉さんは。起きてください。そしてまた一緒に旅に出ましょう。確かにこの景色は美しいかもしれませんが、生きていればもっと、ずっとずっと綺麗な景色を見ることが出来るかもしれないんですよ?」
何故だろうか、聴き慣れた声が海の中なのに鮮明に響き渡る。
いや、それだけじゃない。ぼやっとしていた私の意識もまた鮮明になっていく。まるで寝起きの微睡から覚醒していくように。
……そうだ。私はレオに幻を見せられて、芹奈ちゃんを傷つけてしまった。傷は治してあげたけど、私の心は大きな罪悪感と自己嫌悪によって潰れてしまった。
でも、それが立ち止まる理由にはならない。死は決して償いにはなり得ないし、罪の無いカミラちゃんまで巻き込んでしまうことになる。
なのにどうして、私はこんなにもマイナス思考に陥っていたのだろう? 自分自身を追い詰めるように、嫌な考えだけが次々と浮かんできて、私は自分さえいなければいいという極端な思考しかできなくなってしまっていた。
「漸く元のアリス姉さんに戻ったんですね。ならお返しします。受け取ってください」
再び響くカミラちゃんの声と共に、まるで穴が空いたように空虚だった胸に何かが埋め込まれたような、そんな不思議な感触がした。
すると胸が途端に熱くなり、その熱はドクドクと脈打つように全身に広がっていった。
そして海の底へと落ちていくような浮遊感は消え、いつの間にか何もない真っ白な空間の中に立っていた。
まるで一日が一年分の長さになるというあの部屋を思い出す光景の中、ただ一人私を見つめている女の子がいる。
「カミラちゃん……。これは一体どうなってるの? まさかこれもレオの見せてる幻?」
「違いますよ、アリス姉さん。私は私、カミラです。レオが余りにも卑怯な手を使ってきましたので、慌ててアリス姉さんの身体を借りちゃいました」
少し申し訳なさそうに頬を掻く彼女の姿を見ていると、不思議と幻術を使われているのではないと分かった。
「私の身体を借りたって、どういうこと?」
「実はアリス姉さんにも内緒にしていたことがあるんです。何処で誰が聞いているか分からない状況では絶対に伝えられない吸血鬼の秘密が。なので今ここで説明することは出来ません」
「えっ、それはどういう……っ!?」
すると突然、意味が分からず首を傾げる私に向けてカミラちゃんが手を翳す。そして無詠唱で『アイスランス』を放った。
氷柱のように鋭く尖った極低温のそれは私の頬を掠め、遥か後方へと飛んでいった。な、何が起きたんだ一体……?
ポカンと口を開けてカミラちゃんを見て、そして気付いた。彼女の目が私を見ていないことに。
「相変わらず無詠唱でとんでもないもん放ってきやがるなカミラは。怒らせると怖いのは男より女の方だとはよく言うが、こりゃマジだな」
「相変わらず口が達者ですねレオさん。そのベラベラとよく回る舌を引っこ抜かれたくなかったら、さっさとアリス姉さんの心から出て行って貰えませんか?」
「レオって、まさか……!?」
慌てて振り向くと、そこには見たことがない魔族の姿があった。私と同等くらいの低い背丈なのに、体重は倍くらいありそうな程に太った男。
極彩色の服を着た彼の顔は真っ白に塗られていて、目元には青色のメイクが施されていてかなり不気味だ。
そして目立つ大きく赤い鼻と真っ赤な口紅。この姿は正にサーカスで登場するピエロそのものだ。
この人がレオって、私が知っている姿が『擬態』したものだとは聞いていたけど、あまりにも印象が違いすぎて現実感がない。
「ったく、折角殺したはずの心が完全に元通りとはな。ご主人様でさえ知らない吸血鬼の秘術、それとも"血の契約"に隠された条文が存在していた……? 何れにせよ、俺が一番危惧した事態になっちまったって訳だ。こりゃ特別手当出してもらわねーと割りに合わないぜ」
なるほど、姿形は全然違うけど、その仕草や口調、声はレオそのものだ。彼が本来のレオの姿なのかは分からないけど、中身が同じなのは間違いないみたいだ。
「この状態で勝機があるとでも思っているんですか? それとも私が貴方を生かして返す程、甘い性格をしているとでも?」
カミラちゃんが発する殺気は、まるで真冬の猛吹雪のように冷たく肌を刺す。その顔に表情は無く、彼女の怒りが極限に達していることは容易に想像できる。
私があの日、カミラちゃんを怒らせてしまった時の状態を何倍にも強烈にした感じ。味方のはずなのに、正直言って私もビビってちびりそうなんですけど……。
「ハッ、逆に言うがお前らに勝ち目があるとでも? "世界眼"を持たないお前らが?」
レオはその紅い脣を吊り上げ、歯茎を剥き出しにしてニタニタ笑う。なんかもう、商人姿のレオとは印象が違いすぎてちょっと気持ち悪くなってきた。
だけど一つ気になることを言っていた。"世界眼"は勇者固有のスキルで、ゲームのステータス画面のように相手の情報を読み取る能力だったはず。
それを持っていないから勝ち目がない? それはなんだか納得いかないんだよね。確かに戦闘において情報は、戦況をひっくり返す程に重要なものだとは分かってる。
だけど、それがないからって勝ち目がないなんて馬鹿げた話があるのか? 何か秘密があるのか、ただのハッタリなのか、どうにも奴の考えが読めない。
「それは、やってみなければ分かりませんよ」
カミラちゃんはそう言って次々と無詠唱で魔法を放っていく。一つ一つが直撃すればAランク冒険者であろうと無事では済まない程の威力を持つそれらの魔法は、しかし全てが簡単に消滅させられてしまう。
「『虚数空間』。残念だが、これにかかればお前の魔法は全くの無力だ。そしてお前はこの魔法が使えない」
レオは『虚数空間』を維持したまま、更に別の魔法を発動させた。
「『夢堕とし』。醒めることなき永遠の眠りにつくんだな、吸血鬼」
「カミラちゃん!?」
その瞬間、突然カミラちゃんの身体から力が抜けてその場に倒れ込む。たった一言、詠唱すらせずに放たれた謎の魔法一撃で吸血鬼を無力化するなんて、一介の魔族に出来るはずがない。
「レオ……、貴方は一体何者なの?」
彼はその問いに応えることはなく、今度は私へ向かって手を翳す。
「カミラも言っていたんだが、誰にでも絶対に言えない秘密の一つや二つあるもんだ。俺だって当然ある。そういうわけだからよ、諦めて何も知らないまま死んでくれ。『夢堕とし』」
そして、カミラちゃんを一瞬で昏倒させた必殺の魔法が放たれた。




