初デート
時間通りに丘ノ下南駅に行くと、すでに古野見有紗は来ていた。駅前の時計の前でスマホを睨んでいる。
ベージュ色の長袖のニットに黒いスカート、ブーツ。さすがに学年で1、2を争う美少女と謳われる古野見有紗だ。
今も駅に入っていく男たちが彼女に視線を貼り付けていた。
古野見有紗が顔を上げる。俺を見て満面の笑顔になった。
むっ、おかしい。こんなはずではなかったのだが。
俺の服装はパジャマ代わりに着ているスウェットの上下にサンダルという完璧なスタイル。わざわざ、パジャマに着替え直したのだ。
ここまでやる気のない格好でこられたら顔を引きつらせて、目を合わせないはずじゃないか。
いや、まだ距離があるからな。古野見有紗から、俺の服がよく見えないのだろう。
普通の女子が初デートに着古したスウェットの上下を着てこられて我慢できるはずがない。いくら世情に疎い俺でもそれくらいわかる。
なに、そんな恰好で来てるのよ、とかキレるはず。そしてデートは取りやめになるはずなんだ。
だが、古野見有紗は笑顔を崩さず。いや、少し笑顔を抑えようとして、失敗しているような。
「時間ちょうどじゃない。さすが理系男子」
「理系かどうかは関係ない。俺が数学を愛しているからだ」
「じゃ、行こうか。夢丘中央でいい?」
「いや、ちょっと待て」
夢丘中央駅は俺たちの通う夢丘中央北高等学校の1つ手前の駅で、夢丘市でもっとも栄えている。さすがの俺もそんな場所をパジャマでうろつくほど強靭なハートはしていない。
というか古野見有紗の目は節穴なのか? いや、正気なのか? 一緒に歩いてる男がパジャマでいいのか?
「映画観て。『ユメ丘』でパフェ食べて。最後、『夢地下』、ブラブラして。そんな感じで考えてるんだけど」
「待てと言うのに。俺の服装が気にらないのか?」
古野見有紗が首を傾げる。
「オシャレとはさすがに言えないけど。まあ、あんたなら、しょうがないんじゃない?」
失礼な。
いくら俺でもパジャマで出歩くようなことはしない。
いや、むしろ、家にいるときでも服装はきちんとしているぞ。
「知り合いに出くわすかもしれないぞ。いいのか? 見られるぞ」
くたびれたスウェットを着た男と繁華街を歩いてるところをな。
いや、1周まわってニートの兄、とか思われるかもしれんが。
「じゃあ、野山野市の方に行ってみる? いちおう、あっちにも映画館あるし。野山野なら誰にも会わないでしょ」
「お、おう」
狙いが外れたせいか。いつも以上に古野見有紗に主導権を握られている気がする。まさか、スウェットをさらっと受け入れるとは。完璧な計画だと思ったのに。
悪魔は細部に宿る、だな。
ホームへ移動。いつも乗る方とは反対側だ。
すぐに電車が来た。
電車はガラガラだった。反対方面ならともかく、野山野市方面は寂れてるからな。目的の野山野市も駅前が多少、栄えてるくらいだし。
「そこでいいんじゃない」
古野見有紗が俺の腕をつかんで導く。
俺はされるがままに彼女の隣に座った。
ダメだ。パジャマという引け目のせいか抗えない。
「あんたが遅刻しなくて良かったわよ。次、2時までないんだからね」
「あ、ああ、こんな格好ですまんな」
つい、謝ってしまった。
くそう、完全に裏目に出ているじゃないか。
「別に気にしないってば」
「ふ、普段は、ちゃんとしているんだぞ。だが、今日は……」
「あんたのことだから、どうせ数学に集中しててギリギリになっちゃったんでしょ。それで慌てて出てきた」
「そ、そうだ」
「いきなり誘ったのは私だし。来てくれただけでラッキーって感じ」
本当に嬉しそうな顔だ。
この女は女神なのか?
いやいや、なにをほだされているんだ。
数学だ。こんな時こそ、美しい数式を思い浮かべるんだ。
恐れることなく、前進せよ。真理は俺の味方だ。
思い出せ、オイラーの等式を。
思い出せ、ガウス積分を。
思い出せ、リーマンのゼータ関数を。
「動画見てみたんだけど」
「お、おう」
「動画で説明していた、あれも、ただの仮説なわけでしょ」
「まあ、そうだが」
「なんの証明もされていないって点では同じよね」
「いや、そんなことはない。『運命の赤い糸』説の論拠は配偶者や交際関係にある男女の間で結びついている、という事象だけだ。それも完全一致というわけじゃない。もちろん、配偶者ないし交際相手が運命の相手ではなかったといえばそれまでだが。対して、関係を頻繁にもった相手と結びつくという『肉体関係を示す糸』であった場合は……」
「でも、赤い糸は常に1対1よね。動画の仮説だと多対多ってこともありえるんじゃないの? それとも最多回数か、直近を見てるの?」
うっ、古野見有紗が論理を展開してきた。これも予想外だ。感覚的で直感的な古野見有紗ならいけると思ったんだが。
俺も動画の説をうのみにしたわけじゃない。古野見有紗の展開してきた反論は当然、織り込み済みだ。
「変数のようなものだと考えたらいい。常に入るのは1つのデータだけだ。性交渉を持った相手の遺伝子の一部を複写し、互いに持ち続けるというものだったら問題ないだろう」
「でも、夫婦でつながっていない場合も結構あったって話よ。不倫してたってこと?」
「まあ、そうだな」
「ロマンティックじゃないわね」
「配偶者が運命の相手じゃないと現しているというのも、どうかと思うがな」
もともと、『運命の赤い糸』説に対するアンチテーゼが立ったのも、現在交際中や配偶者に疑念を持ちたくないという人々の想いからだろうし。
だが、『肉体関係を示す糸』説は不貞を示すことになり、いっそうたちが悪いわけだ。最終的には赤い糸の話自体がうやむやになって消えていくだろうな。
「私は信じることにするわ。『運命の赤い糸』」
文句ある? といような目で俺を見る。
「そうか」
妙な息苦しさを感じた。
「それより。野山野についてからのこと考えた方がいいんじゃない。まず映画でしょ」
「観る映画は決まっているのか」
なんとか態勢を立て直さなければ。主導権を握るんだ。
「私はどれでもいいわよ。特に観たい映画ないし」
言いながら古野見有紗はスマホを操作し、野山野駅前の『スカイ座』のホームぺージを表示した。
「うん、どれでもいいけど。時間的には『あの丘に』か『ウィッチ2』かな。夕方からの上映だと『ナイトモンスター』があるけど」
『あの丘に』は日本のアニメ映画で大ヒットしているみたいだが、テレビアニメの続編だ。そもそもテレビアニメの方を観ていないから、話についていけないだろうな。
『ウィッチ2』は洋画のホラー。こちらも1作目を観ていないが、ホラーだし、続編ということはないだろう。
『ナイトモンスター』は海外の某有名アニメ会社のCGアニメだな。こちらも大ヒットしている。
選択としたら、『ナイトモンスター』1択だろうが、夕方からの上映となれば必然的に解散が遅くなる。それは避けたい。
「『あの丘に』だな。前から興味はあったんだ」
完全に嘘とは言えない。世間を騒がせる大ヒット作といわれれば興味くらいは引かれる。まあ、特にテレビアニメや漫画を観ようという気にもならない程度だったが。
「へえ、意外。数学にしか興味がないと思ってたけど」
間違ってはいないな。基本的に俺は数学にしか興味がない。
「じゃあ、『あの丘に』にしようか。少年漫画原作のやつでしょ。テレビでやってたのの続きってことよね」
「そうだ。ちなみに俺は漫画もテレビのアニメもまったく観ていない上に、設定もストーリーもなにひとつ知らない」
「私も観てないわよ」
つまり2人とも予備知識ゼロどころか世界観などの前提条件さえ知らないわけだな。これは思いのほか楽しめ無さそうだ。
あまりのわけのわからなさに映画を見終わった後の感想すら出てこないに違いない。
うん、実に適切な選択だな。気まずい空気に凝りて交際終了が加速するに違いない。
「映画が終わったら、喫茶店でお茶を飲んで。それから……」
「解散でいいだろう。18時前には帰宅したいからな」
古野見有紗の言葉を遮り、主張する。
「オッケー。じゃあ、そんな感じで」
気を悪くした様子もなく言った。
短気かと思ったが、そうでもないのか? よくわからないやつだ。
「ねっ、トオルってさ、映画とか結構見るの?」
唐突にファーストネームで呼んできたな。
別にかまわないが。
「特に観ないな。それよりも、数学者の配信を見てる方が有意義だからな」
「ブレないわね」
「数学の美しさを知れば当たり前のことだ」
「それがわかんないのよね。数学って理屈の塊って感じじゃない。数字と記号だけで面白くないし」
「なにを言う。文明の進歩とは計算を労せずに実行できる操作の数を拡張することによってなされる」
「はあ?」
「アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの言葉だ。彼はバートランド・ラッセルとの共著『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』で、すべての数学的真理を少数の論理的な公理から厳密に導出することを目指し……」
「そういうのいいから」
くっ、この女、偉大なる『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』を、そういうのでまとめやがった。蛮族なのか。
「もっと数学の楽しさがわかるような話、できないわけ?」
目を閉じて、自分が数学の虜になった理由を考える。パズル的な面白さも確かにある。答えの存在する明快さが好ましいということもある。だが、いざ言葉にしようとすると難しいな。
しばらくの沈黙の後、俺は口を開いた。
「そうだな。世界は曖昧で、人の感情も、天気も、全部がコロコロ変わる。だが、数学の世界だけは違う。絶対に変わらない、永遠の真実がある。例えば、だ。夕焼けの色の比率。貝殻のらせん状の渦。それらを作っている『法則』は、何十億年も前から決まっていて、俺が生きている間も、俺が死んだ後も、宇宙の果てでも絶対に破れない。数学は、そのルールを1本の線や1つの式で見つけ出す作業だ。誰にも見つかっていなかった秘密の宝物を、論理という地図を使って見つけ出すようなものだ」
ところどころ、たどたどしくなりながらも数学の楽しさを言葉に込めたつもりだ。
反応がない。目を開けると古野見有紗の顔が間近にあった。
目が合うと、彼女は慌てて顔を引き、下を向いた。
「よ、よく聞こうと顔を近づけただけだから」
それはいいから感想を言え。盛大に滑った気がして落ち着かないじゃないか。
「ま、まあ、あんたが心の底から数学を愛していることだけはわかったわよ」
なんとも微妙な感想だな。俺なりに思いのたけをぶつけたつもりだが。
「そ、そういえばさ。昨日の体育、頑張ってたじゃん」
「なんだ藪から棒に」
「すごい一生懸命走ってたじゃん」
「見てたのか?」
妙な気恥ずかしさに囚われる。
しかし、本当に見てたとは驚きだ。
「べ、別にたまたま外見たら、見えただけだから」
「よく俺だと分かったな」
「そ、それは、なんとなくよ」
その割には確信したような言い方だったが。




