002:イオンさんは無感情
俺は言葉を失い、息を呑んでいた。
やはりここは俺の知っている世界ではないのだ。
(タイム・スリップの可能性もあるが、シーナの東歴二二四〇年という言葉を信じるなら、異世界と捉えるほうが自然か)
異世界モノといえば中世ヨーロッパ風の世界がお決まりだが、俺の場合は少し未来の並行世界に飛ばされたようだ。
考えてみれば、パラレルワールドやタイムスリップはSFの十八番のようなものだし、こういう事例があってもおかしくはない気もする。
「ハルト、大丈夫?」
突然フリーズした俺を見て、シーナが不安そうに声をかけてきた。
俺は窓ガラスの向こうに広がる地下都市をながめながら、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
「すまん。あんな街が地下にあるなんて思わなかったら、ビックリしてな」
「ハルトの生きてた時代とはちがうもんね。最初はとまどうと思うけどじょじょに慣れてけばいけばいいよ」
シーナは俺を、異世界からやってきた転生者ではなく、旧時代のアンドロイドだと思いこんでいるようだった。
ここで正直に話したら正気を疑われるかもしれないし、いまはその誤解を利用させてもらうことにする。
「……これからよろしく頼むぞ、シーナ」
「もちろんだよ、ハルト」
シーナはニッコリと微笑むと、俺の手を引いてリフトに乗りこんだ。
ガコンという音がして、古びたリフトが動きはじめる。
「下へ向かってるみたいだが、地上には行かないのか?」
「うん。いま見えてるのがわたしの住んでる街だからね」
俺は自分でも気づかないうちに、シーナの手を強く握りしめていた。
シーナは俺を見あげて微笑むと、その手をぎゅっと握りかえしてくれた。
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「ふぅ……」
俺はシーナが淹れてくれたお茶を飲みながら、ホッと一息ついた。
いったいどんなところに住んでいるのだろうと思ったが、シーナの家はごくふつうのアパートの一室だった。
「ごめんね、ちょっとちらかってて」
「構わんさ。ゴミ捨て場に比べりゃよっぽどマシだ」
「いまご飯を用意するから、待っててね」
しばらくすると香ばしいにおいが立ちこめてきて、シーナが熱々のアップル・パイを持ってきてくれた。
俺はその好意に感謝しながら、ハフハフとアップル・パイを頬張る。
「うぅん、美味いな。ひと様の手料理を食べるなんて何年ぶりだろう……」
「ふふっ。喜んでくれて嬉しいけど、わたしが作ったわけじゃないよ?」
「既製品か?」
「ううん。それはイオンちゃんが作ってくれたの」
「イオンちゃん?」
てっきりシーナは一人暮らしだとばかり思いこんでいた俺は、意表を衝かれたように顔をあげた。
(参ったな。シーナだけならともかく、友だちの友だち的なやつとうまくやれる気がしないし、邪魔になりそうだったら、早いうちに退散するか)
などと思いながら周囲を見渡していると、まるで幽霊のように白いエプロンを着た女が部屋の隅に立っていることに気づいて、俺は驚きの声をあげた。
「うわぁっ?!」
思わず腰を抜かしてしまったが、その女は眉ひとつ動かさないまま、無表情で突っ立っている。
顔立ちはよくできた西洋人形のようだが、目にはハイライトがなく生きている感じがしない。
「イオンちゃんはハルトとちがって、ただのお手伝いロボットだから、そんなに気を遣わなくても大丈夫だよ」
「……? コイツはアンドロイドじゃないのか?」
「うん。ハルトみたいに人間そっくりなアンドロイドは、一九八四年に法律で製造が禁止されちゃったの」
「法整備がされた現代より、規制が緩かった昔のほうが賢いアンドロイドが作れたってわけか」
「そーゆーこと」
俺はなるほどなと思いながら、イオンの体をジロジロとながめた。
改めて見ると、イオンはサイズの小さい子供用のエプロンを胸の前に垂らしただけという、破廉恥極まりない格好をしていた。
まともな羞恥心があれば、こんなバカみたいな格好のまま無表情でいることはできないだろう。
「シーナはどうやってコイツを手に入れたんだ? 家電量販店かどっかで買ってきたのか」
「多少性能が落ちてるとはいえ、まだまだロボットは高級品だから、とてもじゃないけどわたしなんかが買えるものじゃないよ。イオンちゃんもハルトみたいにあのゴミ捨て場に落ちてたところを拾ってきたの」
「ふーん、そうか」
どうやらシーナは、定期的にあのゴミ捨て場に行って使えそうなものを拾ってきているみたいだ。
だから俺が目覚めたときも、一人であそこをうろうろしていたのだろう。
(この年でゴミ漁りをして生計を立てているとなると、やはり親はいないのかもしれないな)
俺は少し暗い気持ちになったが、それをシーナに悟られないように話を続けることにした。
「そのお手伝いロボットとは意思疎通できないのか?」
「ハルトみたいに自然な会話はできないけど、わたしの言うことは理解して動いてくれるよ。ほら。イオンちゃん、ハルトにお茶をついであげてくれる?」
「カシコマリマシタ」
シーナに命令されると、イオンはいかにもカタコトな返事をして、ぎこちない動作で俺の湯呑みにお茶を注いだ。
横からだとイオンの巨乳が丸見えになっていたので、眼福だと思って鑑賞していると、チッと舌打ちが聞こえたような気がしたが、たぶん気のせいだろう。
「しかし、ただの家政婦ロボにしちゃあやけに胸がでかいな。肌の質感といい、人間そっくりじゃないか」
「だよねー。わたしもビックリしたの。アンドロイドならともかく、現代でここまで外見が精巧なロボットは珍しいから」
「よし、イオン。ためしにスクワットをしてみろ」
俺が命令すると、イオンはその場で股を広げながら、スクワットをはじめた。
裸エプロンという恰好も相まって、まるで武田弘光の尊厳破壊シーンのように見える。
(どことなく顔が赤くなってるような気がするが、これも目の錯覚か?)
イオンはその滑稽さを自覚しているのか、それともスクワットがキツくなってきたのか、下唇を噛みしめて恥辱に耐えるような表情をしていた。
腰を上下させるたびにたゆんたゆんと乳が動き回っていて、思わずブラボーと手を叩きたくなるほどだ。
(お手伝いロボットにしておくにはもったいない乳だな……)
などと思いながらお茶をすすっていると、
「そんなにイオンちゃんのおっぱいが気になるなら、いっそ揉んでみれば?」
とシーナが声をかけてきて、俺は口にふくんでいたお茶を噴きそうになった。
「お……おまっ、それはいくらなんでも……」
「だってイオンちゃんはお人形さんみたいなものだよ? ハルトが嫌なら無理にとは言わないけど」
「い……嫌じゃないが。まあ、そんなに言うなら記念に触っておくか? こんな機会二度とないだろうしな」
俺はさもどうでもいいことのように肩をすくめつつ、胸をドキドキさせながらイオンの胸に手を伸ばした。
内心では下心満載だったが、シーナが見ている手前あまりガッツくとみっともない気がしたので、まずは遠慮がちに手を伸ばしてみる。
「おぉ……」
むにゅっと柔らかな弾力が伝わってきて、それだけで俺は天にも昇る気持ちになった。
一度味を占めると、今度はもっと大胆に胸を揉んでみたくなり、俺は手のひらをイオンの胸に近づけてみた。
「――触ったら承知しないわよ」
するとそのとき、俺の耳元で殺気のこもった女の声が聞こえた。
ぎょっとして顔を上げると、般若のような顔で俺をにらみつけているイオンと目が合った。
「うわぁっ?!」
「どうしたの、ハルト?」
「コ、コイツがいま、俺に話しかけてきたんだ……!」
だが、イオンの声はシーナには届いていなかったらしい。
シーナはビビり腰になっている俺を見て、くすくすと笑いはじめた。
「もー、ハルトったら、気にしすぎだってば。イオンちゃんは現代のロボットだから、ハルトみたいな感情はないんだってば」
「いや、しかしいまたしかに……」
イオンはもう、さっきまでの真顔にもどっていた。
しかしここまできたら、どうにかしてシーナの前でコイツの本性を暴いてやらねば気がおさまらない。
「なぁシーナ。悪いんだが、ちょっとばかしイオンのやつをくすぐってみてくれないか」
「え? べつにいいけど、なんで?」
「頼むよ、一生のお願いだ」
シーナは俺の熱意に困惑している様子だったが、ちらりと横目でイオンの反応をうかがうと、目尻のあたりがピクッと痙攣しているのがわかる。
「なあ、いいだろ?」
俺が頭を下げて頼みこむと、シーナはついに根負けしたようだった。
「しょうがないなぁ。それじゃあイオンちゃん。いまから変態アンドロイドさんのご所望でくすぐらせてもらうけど、いつもどおり無反応でいてくれればいいからね」
「……カシコマリマシタ」
イオンはごくっと生唾を飲みこんで、諦めたように両手を挙げた。
するとシーナは、まるでハープでも奏でるような手つきで、イオンの脇の下をくすぐりはじめた。
「んッ……! ぁっ♡ フーッ、フーッ……」
イオンはなんとか声をださないように唇を固く結んでいたが、かわりに鼻の穴は広がっており、だいぶ滑稽な表情になっていた。
しかし、くすぐるのに夢中になっているシーナは、まだ変化に気づいていないようだ。
「こんな感じでいい?」
「もっと激しくやってみてくれ」
俺が指示すると、シーナは腕まくりをして全力でイオンをくすぐりはじめた。
シーナの指さばきはまるで、ナイト・オブ・ナイツをピアノで奏でているかのようだ。
「あひッ! ちょ、ちょっと待ってッ……♡ 降参しますから……ん゛お”っ”♡」
イオンは体に電撃が走ったように、みっともない嬌声をあげた。
するとさすがにシーナもその声に気づいたようで、ドン引きしたような顔でイオンを見あげている。
「えっ? イオンちゃん、なにいまの声……?」
呆然としているシーナと顔を見合わせると、イオンはカーッと顔を赤くして、バッと勢いよく立ちあがり、
「ごめんなさい!」
と叫んで、一目散に家を飛びだして行った。
「い、イオンちゃん!?」
「やっぱり、アイツはわざと感情のない機械のフリをしていたみたいだな」
「ってことは、イオンちゃんはアンドロイドだったのかな? でも、あんな格好で外に出たら、どのみち襲われちゃうよ……」
「しかたない。俺が追いかけてこようか?」
「わたしも行く!」
「いや……これは俺のせいみたいなもんだし、シーナにはここで待ってもらったほうがいいだろう。ちょっと様子を見てくるだけだから、すぐ戻ってくるよ」
そうして俺が外に出ようとすると、シーナが急いで部屋の奥から厚手のコートを取ってきた。
「どういう事情があったのか知らないけど、わたしはまたイオンちゃんの手料理が食べたいからもどってきて、って伝えてくれる?」
俺はうなずき、シーナからもらったコートを羽織って玄関を開けた。
灰色の天蓋で空を覆われた地下都市には、生ぬるい風が吹いていた。