第七話:天使の襲来
「パイモンよう……‘蝿騎士団’の朝練をサボって三好庵とは、ずいぶん偉くなったじゃねえか?」
パイモンと裕翔の間に陣取り、三好庵にて朝から供されるセットメニューの中でも、天玉ソバと朝カレーセットに次ぐ人気を誇る「かけソバとかつ丼のセット」を注文し、瞬く間にかつ丼を胃袋に納めたベルゼブブが、右側で縮こまりつつソバを啜っていたパイモンに話しかけた。
蝿騎士団とは、ベルゼブブが率いる悪魔の騎士団であり、アスタロトなど悪魔の実力派が名を連ねる戦闘集団である。非常に好戦的かつ残虐な性格のベルゼブブが率いる悪魔の軍勢は、まさに邪悪としか言いようがない手法でもって天使の軍勢と戦ってきた。
その悪逆ぶりは筆舌に尽くしがたいものであり、熾天使ガブリエルなどは蝿騎士団との直接対決直後、天界から姿をくらましてしまうほどだった。
ベルゼブブの行動原理には、かつて「高き館の主」として崇められていた彼が、神の名のもとに「蝿の王」などという蔑称を与えられ貶められたことへの意趣返しの意味が多分に含まれていた。
「べ、別に偉そうにしているわけじゃないもん。今日は、ルシファー様に連れて来てもらったんだから……」
悪魔たちが天使との戦いに参加しなくなって久しい。当然蝿騎士団は人員不足に悩まされており、天使に抗するべく地下活動を続けるパイモンやエリゴスが、半ば無理やりメンバーに引き込まれる形となったのだ。
蝿騎士団は戦い方こそ卑劣なものだが、戦闘集団としての練度は非常に高い。
個々の能力は熾天使に引けを取らない地獄の王侯たちではあるが、数に物を言わせる天使の軍勢に抗するために日々鍛錬を絶やしてはならないというのが団長ベルゼブブの方針だ。したがって蝿騎士団の朝練には、ごく一部の非常事態を除いて絶対参加が義務付けられている。
この「ごく一部の非常事態」という枠組みの中には、「ルシファーの命令だった」以外が含まれることは滅多にない。
「ほほお~、ルシファーが、だと?」
湯気とともに出汁が香り立つかけソバの温度をまったく感じさせない勢いで啜り、これまたあっという間にどんぶりを空にしたベルゼブブは、横目で裕翔を見ながら言葉を続けた。
「このところ姿を見かけなかったが、お前が‘地下’の連中を外食に連れ出すなんて、どういう風の吹き回しだ」
「…………」
「それによ、蝿騎士団は地獄に取っちゃ大事な戦力だ。どいつもこいつも腑抜けちまった今、天使どもと戦うのに蝿騎士団は鍛錬を欠かしちゃならねえ。そこは、お前だってわかってくれるよな? そうだろ?」
ベルゼブブは声に怒気こそ込めてはいなかったものの、かつ丼とソバが飲み込まれた臓腑は悪魔らしい黒い感情で満たされていた。
「…………」
‘地獄で二番目に凶悪’である悪魔を無視して、裕翔は無言でソバを啜っていた。彼の親友――石森の姿をしたベルゼブブが三好庵の暖簾をくぐった際、確かに裕翔は親友の名を呼んだのだ。
老舗のソバ屋に現れた存在は、見かけ上は裕翔が知る石森少年そのものだ。しかし中身が悪魔であるが故に、裕翔の呼びかけに何の反応も示さなかった。
(本当にどうなってるんだ……石森まで俺をルシファーって……)
苛立たしげに、箸まで噛み砕こうかという勢いで添え物の沢庵――不自然な黄色に着色されたもの――を、音を立てて咀嚼するベルゼブブの方を見ようともせず、裕翔は声に出さずに呟いた。
(おかしいぞ。絶対におかしい)
親友の登場によって、麻痺していた思考能力を取り戻したまではよかったのだが、期待を完全に裏切られて地獄の王扱いされた裕翔は内心頭を抱えていた。
アスタロトによって地獄に連れてこられた裕翔は、努めてゆっくりとカレーを口に運んだ。片栗粉でトロミを付けたのど越しのよいそれを、普段なら飲み物のごとく流し込むところを懸命に咀嚼しながら、彼は六時間ほどの間に体験したことを反芻した。
コンビニの前でナターシャもといアスタロトが、三人の男子を倒したことはあり得ないことではないと裕翔は考え、護身だとか言って格闘技を習得している可能性だってあるのだからと結論付けた。
だが、差し出されるままに彼女の手を取った直後に起こったことはどうだ。
視界が暗転し、次の瞬間には見知らぬ場所に移動していた。当初は気絶させられたまま運ばれた留置所か何かと勘違いし、ドタバタと騒ぎまわる大人と子供のような同窓生を前にして、止めにアスタロトの添い寝という思考破壊が発生したことによって、彼は急襲を仕掛けてきた睡魔に白旗を揚げたのだった。
短い眠りから覚めてはみたものの、柔肌の感触は消えることなく裕翔の思考を鈍らせるのに一役も二役も買っていた。
学校に行きさえすれば解放されると楽観的に考えた裕翔が、灼熱の太陽の下で目撃したのは、まるでそこだけ切り取ったかのように忽然と姿を消し、フェンスで囲まれた工事現場に取って代わられた実家の敷地だった。
不安を膨らませつつも無理やり蓋をして、どうにか三好庵までたどり着いてもルシファー呼ばわりされた裕翔は再び思考停止に陥ったのだが、
「おい、アスタロト。ルシファーが変だぞ? なんで何も話さねえ」
「……俺は、ルシファーじゃない。お前は誰なんだ?」
「はああ?」
石森少年の姿をしたベルゼブブとの邂逅を果たしたことによって、裕翔はついに、はっきりとした疑念を抱いた。
(こんなことが現実に起こるとは思えないが……こいつらはナターシャや石森じゃない。三好庵の親父さんも、見た目はそっくりな別人だ。もしかすると、周りの人間全部がそうかもしれない)
裕翔は、三好庵の先客の顔を順番に見渡して眉を潜めた。誰一人として裕翔と目を合わせようとせず、険しい表情になった後は露骨に背を向けるどころか食事を中断して店を出るものもいた。その中には明らかに裕翔より年上で、背広姿の男性も含まれていた。
裕翔を裕翔であると認識している人間であればそんなことは絶対にしないだろうし、個人として彼を知らなかったとしても、高校生に睨まれたぐらいで逃げ出す大人がいるだろうか。実際にはいるのかもしれないが、裕翔は少々睨んだくらいで他人を追い払えるほど凶悪そうな顔つきはしていない。むしろ無表情でも柔和に見える。
三好庵にいる一般客のそうした反応を確認した裕翔は、親友の姿をしたベルゼブブに思い切り不信感を込めた視線を送った。
「……んだよ。やろうってのか?」
裕翔の視線を受けて静かに言った彼の左手には、店の隅に立て掛けてあったはずの竹刀が握られていた。
「そういうつもりじゃない。お前は誰だと聞いてるだけだろ」
「てめえ、オレ様が誰だかわかんねえのか!?」
つい先刻まで忘我の世界を彷徨っていた裕翔は、竹刀がいかようにしてベルゼブブの手に握られたのかを見ていない。裕翔のおかしな様子を警戒した悪魔の手に、床を統べるようにして移動してきた竹刀の柄がするりと納められた現場を目撃していたなら、彼は今の様な強気な姿勢ではいられなかっただろう。
「石森……お前こそ、俺が誰だかわからないのかよ」裕翔は一転して悲しげに表情を曇らせ、視線を丼に張られた黒いツユに落として言った。
「イシモリってなんだコラァ! オレ様はベルゼブブでてめえはルシファーだ! ふざけたこと言ってんじゃねえ!」対するベルゼブブは額に青筋を浮かび上がらせ、竹刀の先で床をドン! と突いた。剣道家にはあるまじき行為だが、彼は悪魔なので武道に関することでなくとも、礼儀作法など気にすることはない上に持っている竹刀も地球のそれとは別物だ。
その証拠に、突かれた床には市内の先端が五センチほども突き刺さっていた。地球の法に照らし合わせれば、器物損壊と言ったところか。そもそも地球では、コンクリートに裏打ちされた床材に竹刀で穴を開けるなどという現象は起こり得ないので関係ない話だが。
「俺は、佐久間裕翔だ。お前の親友だった」
幸い、ベルゼブブの竹刀――どう考えても竹で出来てはいないそれが床を打ち抜いたシーンは、裕翔の目に入らなかった。
「ベルゼブブ様。ルシファー様は、ご病気なのです」
「アスタロト!?」
それは、瞬間移動によって一触即発の二人の間に割り込んだ、序列二十九位、地獄の公爵にして四十の軍団を率いた地獄の大侯爵の背に隠されたからであった。
「ルシファーが病気って、どういうことだ!?」
アスタロトの出現に目を剥いたベルゼブブは、床に突き刺さった竹刀を引き抜いた。
「ダンタリオンによれば、ルシファー様はご記憶に障害が出ているとか……」
その先端――切っ先を頤に突き付けられたアスタロトは、眉ひとつ動かすことなく、しかし声には悲哀を滲ませて応じた。
「記憶に障害だと?」
「ええ。強いストレスが原因だと聞いております。それ故、ご自身を別の存在だと誤認してしまっているとか」
「んな、馬鹿なことがあるかよ。俺たちは悪魔だぞ?」カッと見開いていた目を訝しげに細め、ベルゼブブはアスタロトの肩越しに裕翔を見やった。
「胸を張ってそう自称できるものは、ずいぶんと少なくなってしまいましたわ。ルシファー様は、お口には出されませんでしたけど、とても嘆いておいででしたから……」
肩を落としたアスタロトに呼応するかのように、ベルゼブブが竹刀の切っ先を床に落とした。
(……また、記憶障害がどうとか言いだしたな)
殺気を霧散させ、唇を噛んでうつむくベルゼブブに向かって、アスタロトが裕翔の病状を詳しく説明し始めた。それを聞いたベルゼブブが、「それで、おかしなことばかり言いやがるのか……」と言ったところで、裕翔は口を開いた。
「石森、おかしいのは俺じゃなくてお前たちの方だ。さっきから悪魔だとか騎士団がどうとか、今更中二病かよ!?」
「ルシファーお前、そんなになるまで悩んでたのかよ……」
「だから俺はルシファーじゃない――むぐをっ!?」
ベルゼブブは竹刀を取り落とし、アスタロトを押しのけて裕翔を思い切り抱き寄せた。
「大丈夫だ、ルシファー。ゆっくり、時間をかけて治そうぜ……」
「……ぐすっ。やさしさなんて欠片も持ち合わせていないベルゼブブ様が……これぞ友情ってやつだな。ルシファー様、泣かせるじゃねえか!」
「ぶはー!! だから! ルシファーじゃないって――なんだ!?」
およそ悪魔とは思えない感想を述べたソバ屋の店主に、悪魔の抱擁から逃れた裕翔が抗議の声を上げた直後、耳をつんざく爆発音が響き渡った。
「…………ちっ、来たか」
「き、来たっていったい何が――うをっ!?」
一拍遅れて、けして軽くはない振動が床を伝わり、ベルゼブブはビリビリと震えたガラス戸を睨んだ。
裕翔はベルゼブブの発言を受けて質問したが、それはガラス戸の向こうから発せられた強烈な光に驚いた自身の悲鳴で中断された。
「パイモン様」
「アスタロトは、ルシファー様のお傍にいなよ。……ベルゼブブ様? いいよね?」
店内に残っていた客数人は、店主と共にカウンターの裏へ引っ込んでしまった。強烈な光からルシファーを守るように立ったアスタロトの足元から、不思議な風が吹き上がるのを見て、パイモンはそれを制し、ベルゼブブの横に並んだ。
「ああ。それで構わねえよ」ベルゼブブが左手を床にかざすと、転がっていた竹刀の柄がそこに吸い込まれるように持ち上がった。
「――!!」
「ルシファー、よ~く、見ておきやがれ」
突然起きた複数の不可思議な現象に裕翔は目を白黒させていた。それを振り返ったベルゼブブは、ニヒルな笑みを浮かべてガラス戸に向き直り竹刀を握りしめた。彼は一跳びでガラス戸の前までたどり着き、それを蹴り破って光の中へ走り去った。
「ルシファー様、すぐ終わるからね!」
パイモンが駆け寄り、裕翔の頬に軽くキスをした。思わずそこに手をやった頃には、彼女はローファーのつま先を軽く鳴らしてベルゼブブに続いて走り去っていた。
「い、いったい何が――」
「……天使です」
頬に手をやったまま呆然と立ち尽くす裕翔を振り返りはせず、屋外の光を睨みつけたまま、アスタロトが口許を強く引き結んだ。
大変ご無沙汰しております。スローペースですが更新していきますので、今後ともよろしくお願いいたします。