閑話2 ルシファー様の朝ごはん
「おはようございます」
「え? ああ、はい。おはよう……」
七月二十二日、火曜日。
裕翔が地獄においてアスタロトの温もりと膨らみに心を乱されているころ、多くの教会では朝の祈祷が行われている時間帯の地球の佐久間家における出来事である。
家族の中で最も早く起床した佐久間家妻、麻利亜は反抗期以降まともに朝の挨拶などしたことがなかった息子――の姿をした悪魔の声を耳にしてぎこちなく反応した。
それは、神の国へ入ることを許されなかったものの魂が永遠の責苦を味わう世界、その深淵のさらに奥深くより顕現した悪魔の王、ルシファーによる渾身の挨拶であった。
(ふむ……息子の挨拶を聞いた母親の反応とは思えんな)
一説によると「おはよう」と「おはようございます」は意味合いが異なる。おはようございますとは、朝早くからご苦労様ですという労いの意味を含むという。
たしかに早朝から家長裕一や長男裕翔、麻衣子の朝食および弁当の準備を行い、家族四人分の洗濯物を全自動とはいえ洗濯機に放り込み、家長にはコーヒー、自身と麻衣子には紅茶を用意し、裕翔が愛飲している炭酸飲料を切らしていることを知ってコンビニエンスストアまで一走りしてきた母の愛情と行動力は驚嘆に値する。
長女麻衣子同様、悪魔になんとなく警戒心を抱かせる名を持つ女の行動を千里眼にて観察していたルシファーは、三日に亘る人間観察で得た知識を総動員して朝の挨拶に挑んだのだが、麻利亜の反応が期待していたものと大きく異なったことについて次のように考察した。
(佐久間裕翔……彼は三日間の間、親に挨拶などしていなかったな。これが日常のことであったのならば、突然おはようございますなどと言われて驚いたのかもしれん)
「お母さん、おはよう! え、お兄ちゃん!?」
ルシファーと麻利亜がお互いの様子を伺っているところへ、と弾むような足取りで現れたのは裕翔の妹麻衣子であった。
麻衣子の日常は母親が起床して階下へと降りて行く足音を耳にするところから始まる。家族の誰よりも早起きし、栄養バランスにも気を配りつつ手抜きをしない朝食を準備してくれる母に感謝の念を抱きながらベッドから足を降ろしたあとは、一度階下へ降りて洗面所で顔を洗い、自室に戻って制服に着替えて髪を整える。そして再び階下へと降りて母と語らいながら紅茶をゆっくりと飲んで身体を温める。その頃になると裕一も起床してくるので、彼がコーヒーを飲んでいる間に兄を起こしに行くというのが朝のルーチンであった。
「私より早起きなんて……。それになんだか、いつもと雰囲気も違うみたい」
朝のペースを乱された麻衣子は訝しげに目を細め、ルシファーの周りをゆっくりと歩き回って観察を始めた。
麻衣子がそのような行動に出たのも無理はない。
癖の強い髪質を持つ裕翔の髪は、熱帯夜を過ごした翌日は大変な状態になっている。しかし地獄からやってきたルシファーの髪は、寝癖どころかたった今美容院から戻ってきたかのように整えられ、毛の一本一本が艶やかであり、緩やかにウェーブがかかったそれの毛先には一本の枝毛も認められなかった。
皺だらけだったはずのスラックスはクリーニング店から戻ったばかりどころか新調したかのように折り目正しくなっており、ワイシャツには皺もなければボタンの掛け違えもなく、ネクタイは完璧なセミウィンザーノットで結ばれていた。
「ま、こういう日もあるか。今日は何かイイことあるかもね!」
「…………」
麻衣子は何度か首を傾げた後、兄の姿をした悪魔を黄色い新幹線のような存在に認定し、杉材のダイニングテーブルに用意された紅茶へ手を伸ばした。
(……目立たぬようにと模範的に過ごすよう努めたのだが、裏目に出たということか)
ルシファーは、内心で歯噛みしていた。
人間よりもはるか昔から存在し、病に倒れることも傷つき死することもない彼は、神に対する畏れすらも忘れた最強の堕天使だった。だが、現在のルシファーには一つだけ恐れていることがある。
(可能な限り、人間から注目されることは避けなければならんというのに……出足から躓いてしまったか)
それは、彼が悪魔であると発覚してしまうことであった。
朝から妹の手を借りねば寝所から出ることもままならず、乱れた頭と着衣を引っ掻き回しながら着替え、マンホール下の悪魔たちの日常からは想像もつかない豪勢な朝食を供され、味わいもせずに貪り学校へ駆けて行く裕翔を観察していたルシファーは、それについて父母から小言を言われ、学友たちから揶揄される彼を見て対策を考えていた。
その対策とはできるだけ人間から注目されない存在になるというものだった。人間の心を乱し、誘惑し、神の道を踏み外させて地獄に引きずり込むという悪魔の長たるルシファーが、風紀委員のように暮らそうとしているのだ。
ダンタリオンの耳に入れば「皮肉ですねぇ」などと言われただろうなとルシファーは口中で呟き、紅茶を片手に母と談笑を始めた麻衣子から逃げるようにしてソファーへと移動した。
ルシファーはそれに座る前に、食卓を挟んで対面している親子を注視した。
麻利亜は四十二歳にしては肌の色艶は良く、頬や白い綿製の半袖シャツから覗く腕にはいささかのたるみも見られない。七分丈のストレッチジーンズを着ているが、それは彼女のスレンダーな肢体にピッタリとフィットしていた。
彼女は麻衣子が兄の変容をあっさりと受け入れたことで安心し、ルシファーに対してわずかに抱いていた警戒を解いていた。それを確認したルシファーは、母とよく似た容姿をもつ麻衣子を観察した。
彼女は十六歳にしては、大人びた造形をしているといえた。それ故に、テーブルを挟んで座る二人は、親子というよりは少し歳の離れた姉妹のように見えた。
麻利亜は娘に学校の様子やボランティア活動について質問しながら、内心ではわずかに息子の変化について思案していた。元来おおらかな性格ではあるが、格闘技の経験がある彼女の観察眼というか、第六感とでも言うべき直観力にルシファーは一目置いていた。
(杞憂であるとは分かっていても、あの少女……)
ルシファーは、かなりデフォルメされたライオンの柄がプリントされたマグカップを両手で包むように持ち、母親以上に慈愛に満ちた表情で話す少女の顔をしばし眺めてから、気付かれないように嘆息してソファーへと身を沈めた。
彼は、相変わらず心が読めない人間の少女を一応は警戒していた。
これまでも悪魔祓いを専門にする司祭など、悪魔の力に抗する人間はいくらか存在していたので、それ自体は大した問題ではなかった。
そもそも、天使が地上に降りて奇跡を行うことなど滅多にあるものではない。ましてやそれが熾天使ミカエルの降臨とあれば、長年天使と戦ってきた自分にわからないはずがないと、原始の人間に知恵の木の実を食わせた蛇のように頭をもたげて来ようとする不安を押さえつけていた。
「……おはよう……んん?」
ルシファーがソファーに座り、朝の情報番組――彼にとって正しく情報の宝庫――を真剣なまなざしで見ていると、佐久間家の家長裕一がリビングに現れた。
先の快活な印象を与える女性二人とは対照的に、全身から気だるい空気を発する四十九歳の裕一は、平時において朝七時台のリビングには存在し得ないものを認めてしょぼついていた目を見開いた。
「裕翔か……?」
声をかけたというよりは独り言のように呟いて、裕一は大きなあくびと共に全身を伸ばしてリビングを去って行った。口には出さなかったが、珍しいこともあるものだと思い、続いて会社を休もうかなどという考えが浮かんだ後にゴールドマン社長のヒキガエルに似た顔を思い浮かべ、彼は向かった先の洗面所で思い切りシンクに唾を吐いた。
(……父親の心は荒廃しているな)
ルシファーは振り返ることなく裕一の思考を読み、嘆息した。
テレビでは朝の占いコーナーが放映されており、さそり座が最も運勢が悪く、幸運を呼ぶ食事がかつ丼であった。
裕翔はこの頃三好庵で朝カレーを注文しており、彼はさそり座であるのだが、それを気にする者はこの場に居なかった。
「裕君? 朝ごはんできてるけど、食べる?」
天気予報後に展開される「おはようじゃんけん」というコーナーの存在意義について思案しているルシファーに、麻利亜が声をかけた。反抗期を終えて、突然激昂する様なことはなくなったものの、その後家族との良好な関係を築けないでいた裕翔であったならば、黙って食卓に着くか、舌打ちくらいはしたかもしれない。
「うむ。馳走になろう」
しかしルシファーは、嬉々とした表情で、しかし悪魔の王たる威厳は保ちながら答えた。
「お兄ちゃん……やっぱりなんか変じゃない?」
「そうね……学校で何かあったのかしら」
「うーん。先輩たちにそれとなく訊いてみるね」
「お願いね」
さながら戦国武将のように応じ、焼き立てのトーストにハチミツをこれでもかと塗りたくり、ハムエッグは二度のお替りを要求し、「パンの可食部分は耳だけではないのだな」と言って深くため息をついて遠い目になり、「これが……これが至福というものか……パイモン……すまぬ」などと言って涙ぐむ姿を呆然と眺めていた母娘は、意気揚々と投稿していくルシファーを見送ったのち、顔を見合わせて頷いたのだった。




