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第八話:熾天使ミカエル

 天使は神の国を守り、悪魔と戦う兵隊の役割を担う。それはいつの日か来る、来ると言いながら一向にやってこない最終戦争の舞台ではもちろんだが、平時――神にとってはたとえ地球が割れても平時だが――においても神の尖兵として地獄にやってくる。


 奴らの主な目的は嫌がらせだとルシファーは常々説いていたが、天使には天使の言い分がある。


「おのれ、このミカエルの邪魔立てをするか! 悪魔が!!」


 太陽のごとき光を放ち、その輝きによって自らの影を打ち消している存在――輝く翼をもつ熾天使ミカエルが声を荒らげた。彼女は右手にその怒りが顕現したかのような炎を纏わせ、左手には地獄に落ちて久しいものの右手がしかりと握られていた。


「嫌なこった」


 光の存在とは逆に、漆黒としか表現できない暗い影を地に落とし、それを纏っているかのごとく身体から黒煙を噴出させた悪魔――ベルゼブブは、強烈な光に対し目を細めることもなく対峙し、またミカエルの炎を一瞥すると、ふっと鼻で笑った。そして、大罪を犯して地獄に幽閉されていた魂の左手をしっかりと握って口角を吊り上げた。


「地獄にあるもんを勝手に連れて行くこと、はこのオレ様が許さねえぜ?」

「この者は罪を償い、天の国へ迎えることが決まったのだ! 地獄にとどめ置くことは許されん!」

「あのぅ……ミカエル様……少々痛いです」

 光の存在――天使と対局をなす悪魔との壮絶な綱引きの綱となってしまった憐れな魂は、両肩にかかる尋常ならざる牽引力を感じて顔を青ざめさせていた。それを目ざとく捉えたベルゼブブが愉快そうに笑った。


「ははは! 見ろ! こいつだって迷惑そうにしてるじゃねーか!」

「何を言うか! 貴様が強く引っ張るからだ! さっさとそのうす汚い手を離――ああっ!?」


 唐突にベルゼブブが手を離したおかげで、天使は空中で大きくバランスを崩した。その勢いで憐れな魂は後方へ吹っ飛んだが、彼の背後に控えていた数十体の天使によってしっかりとキャッチされていた。

 魂が無事であったことを確認し、ほっと胸を撫で下ろしたミカエルだったが、彼と対面する悪魔はその様子を嬉々とした様子で観察していた。


「おいおい、離せというから言う通りにしてやったのによ、あぶねえじゃねーか。大事に扱ってやれよな。そいつは、天国に連れて行くんだろ?」

「貴様……」


 器である肉体を失っている魂は非常に脆弱だ。悪魔や天使の力で吹き飛ばされ、地獄の底に激突でもすればその衝撃によって二度目の死――消滅を迎えてもおかしくない。

 罪が許された魂を迎えに来て、みすみす消し飛ばしてしまったとあれば、天使たちの任務は失敗に終わってしまう。それが分かっていて、絶妙なタイミングで手を離したベルゼブブの目論見を看破した天使の顔が怒りに歪んだ。


「くっくっく。そぉんなにその魂が欲しけりゃ、くれてやってもいいんだぜ?」

「……なんだと?」


 眉間に深い皺を寄せたまま応じた天使に対し、ベルゼブブはふわりと宙に浮かんで目線が同じ高さになるように空中を移動した。彼の背中には何もないように見えるが、足元で小さくなっていく影には、巨大な羽虫のごとき両翼が形を成していた。


「くれてやってもいいと言ったんだ。ただし、そいつが望めば、だがな」

「貴様、何を言って――」

「おい! そこの魂! お前だよ! 名前はなんだ!?」


 天使の言葉を遮って、ベルゼブブはミカエルの後方に控える天使たち――力天使(パワー)の集団に守られている魂へ向かって声を張り上げた。


「答える必要はない!」


 問われた魂は口を開きかけたのだが、その怯えきった視線とベルゼブブの間に割って入ったミカエルが一喝した。


「邪魔をするなよ、熾天使(セラフィム)

「ぬ……」


 口角泡を飛ばす天使に対し、耳まで裂けるかと思わせるほどに持ち上がった口の端から牙を覗かせて、ベルゼブブは凄んで見せた。それを見たミカエルがわずかに怯んだ隙に、彼は背後の魂に向かって口を開いた。


「まあ、この際名前なんざ、どうでもいい。重要なことは、今この状況をお前がどう判断するか……だ」


 ベルゼブブはゆっくりと空中を移動し、表情を引きつらせながらもどうにかその場に踏みとどまっている力天使たちの正面へ回った。彼の身体から発散する黒い煙――魔力の奔流とでも呼称するのが相応しいのだろう――が形を成し、昆虫の足のようにわさわさと蠢いていた。それらが放つ異様な威圧感は、熾天使ミカエルをして、彼女の横を通り過ぎる悪魔を制止できないほど凶悪な気配を放つものだった。


「俺は地獄の支配者の一角を担う悪魔として、天使どもの勝手を許すわけにはいかねえ」


 今や鉤爪のように先端を尖らせた魔力の塊が、つつつ、と魂の表面をなぞった。いつの間にか力天使たちは空中で三歩ほど後退し、魂はぶるぶると震え、人型を保つのが精いっぱいの様だった。


「お前の後ろにいる天使(あほ)どもは使命を果たしたい。当然、俺たちはお前を奪い合うことになるよなぁ。そしてこれも当たり前だが、俺は力天使たち(パワーズ)ごときに負けることはねえし、そこの金髪ねーちゃんにしても同じだ」ベルゼブブは背後で下唇を噛みしめているミカエルを振り返りもせずに、「俺はこいつをボロ雑巾になるまで痛めつける。これから起こる戦いの結果、てめえは地獄に残ることになるわけだ――」と言って言葉を切った。


「ベルゼブブ……」


 闘ってもいないうちから敗北を予言された熾天使は肩を怒らせ、右手の炎を剣へと変えた。その気配を感じ取ったベルゼブブは一度言葉を切って振り返り、嘲笑を浮かべたまま言葉を繋いだ。


「――なあ、俺は無理やり(・ ・ ・ ・)連れて行かれそうになった魂を救ってやると言ってるんだぜ? お前、本当は天国になんか行きたくないんだろ?」


 再び魂に向き直り、ベルゼブブは「だが――」と言ってから数秒沈黙し、表情を消した。


「この地獄には天国行きの天使バスに乗りてえ奴なんざ、存在しねえ。もしそんな奴がいたら……」


 やや俯いたベルゼブブは、拳を握りしめてバキバキと音を鳴らした。悪魔である彼の皮膚の下に、人間と同じような関節構造が存在するかは不明だが、彼の背後で巨大な蝿の足の形を成した魔力の塊が大きく広がり、力天使たちはさらに魂との距離を広げた。

 魂はもはや人型を保つこともままならず、微かに震える光球となってベルゼブブの前に浮遊していた。


「で、お前は天国に行きたいのか? もし、そうなら……」


 ベルゼブブが握りしめていた拳を開き、それを魂へかざすと、それは「滅相もございません……」とまさに消え入るような声を発し、まるで地獄の業火に誘われる羽虫のようにフラフラと飛び、悪魔の手の平へ落ちていった。


「待てぃ!!」


 魂とベルゼブブのわずかな隙間に、ミカエルが飛び込んでいって両翼を広げたのは、悪魔が満足そうに頷いて魂へと手を伸ばした瞬間だった。


「愚かなことを! その者が御国に入ることは、神がお決めになった決定事項なのだ。悪魔の問答など無意味だ!」

「てめえ、今……なんつった?」


 再び言い争う構えのミカエルに対し、ベルゼブブの声は急速に冷えていた。


「……は?」

「言うに事欠いて、このオレ様が愚かだと……? 神の小間使いごときが」


 地獄の支配者としてルシファーと肩を並べるベルゼブブだが、彼は堕天使ではない。かつてペリシテの民に信仰されていた嵐と慈雨の神だった彼は、ルシファーが仕えていた神によって「蝿の王」などと称され、存在を貶められたのだ。


 それ故にベルゼブブは、神の国に住まうものが彼の行いを諌めるような発言をすることを特に嫌う。


「み、ミカエル様……」

「ちょ、まずくないですか。今日は戦いに来たわけじゃないのですよ」


 強大な熾天使の背後では、大天使(アークエンジェル)よりも高位の天使たちが色めき立って――と言うより、にわかに膨れ上がったベルゼブブの殺気に怯えているようで、全員が口々に不安の声を上げ、じりじりと後退を再開した。中には翼を震わせているものもあった。


「落ち着けベルゼブブ……力天使たち(パワーズ)の言う通り、今日は戦いに来たわけではないのだ」


 ミカエルは僅かに赤味を帯びた翼を威嚇するように広げ、そっと引き寄せた魂を守りながらベルゼブブの様子を伺った。

 蝿騎士団を率いる地獄の支配者であり、その影響力はルシファーに次ぐが、邪悪さと狡猾さにおいては時に地獄の王に勝ると謳われた悪魔は、再び口角を吊り上げた――




♢ ♦ ♢ ♦




 三好庵は、地獄高校正門から延びる全長百五十メートルの坂を下ると突き当たるT字路を右に曲がり、駅へと続く幹線道路沿いに三十メートルほど歩いた地点に店を構えている。

 片側二車線の広い幹線道路を挟んだ敷地は、地球では小学校があるのだが地獄においては巨大な多目的広場が建設されていた。

 幼くして亡くなり、地獄に落ちる子供の魂の数などたかが知れている。いくら人間のように暮らせと命じられても、小学校を運営できるほど子供の悪魔を確保できないため、バエル他高位の地獄の王侯たちによって造られたそれは、現在では天使と悪魔の戦いの場として定着している。

 天使の側にしても、毎度悪魔と小競り合いを行うために地獄へと降臨しているわけではない。今回のように、天界で罪を犯して地獄に幽閉され、赦された魂を救いにやって来ることもあるのだ。

 その際、悪魔知られることなく地獄の門を通ることなどできはしない。何しろ光り輝く存在として創られてしまったのだ。光とは最も縁遠い地獄において、彼らは目立ちすぎる。できもしない隠密行動をとるのも馬鹿らしくなってきた天使たちは、わかりやすい広場に堂々と降臨し、天使と見れば襲い掛かってくる悪魔と死闘を繰り広げていた――のは数世紀前の話だ。

 人間暮らしに慣れ親しんだ悪魔の兵隊たちは、広場で繰り広げられる戦闘の余波を受けないように身を潜める。ところが、広場の真向かいに位置する三好庵に住む悪魔たちは、それを対岸の火だなどと言ってはいられない。


「やれやれ……また始まった」


 三好庵の店主はため息をつき、「おい、お前」と言ってカウンターの奥に引っ込んでいた悪魔を呼ばわった。


「はいはい」


 長年連れ添った夫婦のように、阿吽の呼吸で悪魔の要求を理解したらしく、彼女は店の勝手口から裏手へと出ると、姿を消した。天使の襲来と戦闘が始まってしまったことを、序列一位で市長を務める悪魔へと伝えるためである。


「ベルゼブブ様が出て来るといつも喧嘩になっちまう……魂なんて毎日腐るほど地獄に落ちてくるんだから、一個や二個くれてやっても問題ねえって、あっしは思うんですけどね」

「…………」

 そう思いやせんかと視線を送ってくる店主の方に、裕翔が顔を向けることはなかった。彼は無言のまま、三好庵の引き戸をわずかに開き、その隙間から広場の惨状を食い入るように見つめていた。


「ルシファー様、いかがですか?」

 

 膝立ちになっている裕翔の頭上から、アスタロトが声をかけた。彼女はベルゼブブが目にも留まらぬ速さで空中を疾駆し、どこから取り出したのか、何で出来ているかもわからない竹刀でもって繰り出す斬撃を、四車線離れていても熱を感じるほどの業火を纏った剣で受けては打ち返す光輝く天使の姿には、ルシファーの記憶の琴線に触れる何かがあるのではないかと期待していた。


「…………」


 しかし、裕翔は二十メートルほど離れた場所で展開される光景――まばゆい光と空中で打ち合う親友の姿をした何か別のものと、少女が獣のごとき咆哮で力天使の群れをなぎ倒し、どうにか避けた連中に嬉々として打ちかかって行く姿を、目を皿のようにして見つめるのみだった。


「はあ……ルシファー様……」


 聞えよがしに嘆息したアスタロトは、その豊満な胸を裕翔の脳天に押し付けてみた。戦闘シーンを見ても特別な反応を示さないことに僅かながらいら立ちを覚えた彼女は、裕翔と朝を迎えた際の反応を思い返してこのような行動に出た。パイモンからは側仕えをするように命じられていたし、これぐらいはよかろうと思ってもいた。


「…………」

「ダメですわね……」


 柔らかな双丘の上で頬杖を突くなどして、より密着させてみたが効果はなく、アスタロトは裕翔の背中から身を離した。


「アスタロト様……何してらっしゃるんで?」

「う、うるさい! なんでもありませんわ!!」


 背後から店主が生温かい視線で訊ねたのを一蹴し、アスタロトは仁王立ちになって広場へと視線を戻した時であった。


「嘘だろ!? 麻衣子か!?」

「ルシファー様!? ――いけません!」

 

 裕翔が突然立ち上がり、店の外へ飛び出した。




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