蜜月
少し、日をさかのぼる――。
幻を見たと、思ったのだ。
だから本当に、窓の下に友祐がいたのか、確かめたくて真希子は建物を出た。
冷たい外気にさらされぬよう、友祐は真希子の肩を、彼の外套で覆う。
レストランの敷地を囲う煉瓦の壁を半周巡り、裏手に待たせたタクシーに、共に乗り込んだ。
もう、戻れない。
「何故」
窓の上から友祐を見いだしたときに胸に湧いた言葉。
「思いの外、調子が悪かったので、予定より二日繰り上げて横須賀に戻りました」
何々が、と真希子の知らぬ船の部品の名前を、友祐が言った。
違う。そんなことを訊いていない。
真希子は化粧をしている。コテを当てて巻いた髪を肩に揺らし、服と同じ色のリボンで頭の後ろに髪を半分束ねていた。
見合いだった。
真希子の意志と無関係に、生家の都合で決められた縁談。
全てを捨てて、真希子は友祐と車に乗っている。
友祐の襟章には桜のしるしが二つ。中尉である。
「諦めたつもりでいました。明後日に上陸しても、間に合わない。……だが、着いてしまった」
静かに前を見ながら友祐が語った。
膝の上に握られた拳に真希子の掌が重なった。
声が、止まる。
破風の屋根に趣のある古い旅館に着いた。
海が近い。
宿帳に、友祐は堂々と名を書き、同行者を「妻」と記した。
真希子を引き寄せた友祐の胸元に、潮の香りが残っている。
襟章の上に腕を巻き付ける。日に焼けた首筋に、真希子の腕が白く浮き立つ。
(悔いなど、ない)
今、命を落としたとしても真希子は何一つ後悔はしない。
朝。
良く晴れた。
宿の庭から海が見える。
日の光を水面が映す。目に痛いほど眩しい。
真希子は、鏡台の前で乾きかけの髪を梳る。
朝湯から上がったところだ。
宿の浴衣の上に丹前を羽織り、膝をそろえて座っている。
鏡の中に、同じ浴衣姿の友祐がいた。
不意に羞恥を覚えて、真希子は目を背けた。頬が、熱い。
腕を組んで少し首をかしげ、くすぐられたような顔で、鏡に映る真希子を友祐が見ている。
蜜月。
という言葉を、真希子も知っている。
女学校の友人と、憧れを込めてその言葉を口にしたことが、懐かしい。
「散歩をしませんか?」
真希子は友祐の誘いに、笑顔でうなずいた。
宿の浴衣のほかには、着てきた服しか持っていない。
浴衣と丹前のままで出かけられる場所など、宿の敷地と、付近の海岸ぐらいのものだ。
海を見下ろす松林を、手をつないで歩いた。
静かで、人の気配もない。
波の音ばかり近い。
(ここがいい)
同じことを、友祐も真希子も考えたのだろう。目を見交わして、互いに微笑む。
「帰ろうか」
「はい」
「休暇は、明日までです」
「はい」
光を反射する海に背を向けて、また来た道を戻る。
「お訊きしても?」
真希子は友祐の返事を待たずに言葉を継いだ。
「お持ちの短剣は、恩賜の……?」
「別のものです」
「安心いたしました」
微笑んだ真希子を、足を止めた友祐が抱きしめた。
不意の力に戦いた真希子の唇をふさぐ。唇を重ねていれば、言葉は要らない。
必要なものは、今は、互いの温度だけだ。
日暮れに遠い時刻。
障子越しの光が部屋の中を明瞭に照らす。
薄紅色に艶を帯びた真希子の肌を、友祐の掌がなぞる。
なだらかな白い隆起が、未だ、波を残していた。
紅い蕾に彩られた双丘の狭間に、唇を触れる。
生命の脈動を感じる。