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願わくは  作者: 桜木春緒
3/7

蜜月


 少し、日をさかのぼる――。


 幻を見たと、思ったのだ。

 だから本当に、窓の下に友祐がいたのか、確かめたくて真希子は建物を出た。


 冷たい外気にさらされぬよう、友祐は真希子の肩を、彼の外套で覆う。

 レストランの敷地を囲う煉瓦の壁を半周巡り、裏手に待たせたタクシーに、共に乗り込んだ。

 もう、戻れない。


「何故」

 窓の上から友祐を見いだしたときに胸に湧いた言葉。

「思いの外、調子が悪かったので、予定より二日繰り上げて横須賀に戻りました」

 何々が、と真希子の知らぬ船の部品の名前を、友祐が言った。

 違う。そんなことを訊いていない。


 真希子は化粧をしている。コテを当てて巻いた髪を肩に揺らし、服と同じ色のリボンで頭の後ろに髪を半分束ねていた。

 見合いだった。

 真希子の意志と無関係に、生家の都合で決められた縁談。


 全てを捨てて、真希子は友祐と車に乗っている。

 友祐の襟章には桜のしるしが二つ。中尉である。

「諦めたつもりでいました。明後日に上陸しても、間に合わない。……だが、着いてしまった」

 静かに前を見ながら友祐が語った。

 膝の上に握られた拳に真希子の掌が重なった。

 声が、止まる。



 破風の屋根に趣のある古い旅館に着いた。

 海が近い。

 宿帳に、友祐は堂々と名を書き、同行者を「妻」と記した。


 真希子を引き寄せた友祐の胸元に、潮の香りが残っている。

 襟章の上に腕を巻き付ける。日に焼けた首筋に、真希子の腕が白く浮き立つ。

(悔いなど、ない)

 今、命を落としたとしても真希子は何一つ後悔はしない。 



 朝。

 良く晴れた。

 宿の庭から海が見える。

 日の光を水面が映す。目に痛いほど眩しい。


 真希子は、鏡台の前で乾きかけの髪を梳る。

 朝湯から上がったところだ。

 宿の浴衣の上に丹前を羽織り、膝をそろえて座っている。

 鏡の中に、同じ浴衣姿の友祐がいた。

 不意に羞恥を覚えて、真希子は目を背けた。頬が、熱い。

 腕を組んで少し首をかしげ、くすぐられたような顔で、鏡に映る真希子を友祐が見ている。

 蜜月。

 という言葉を、真希子も知っている。

 女学校の友人と、憧れを込めてその言葉を口にしたことが、懐かしい。

「散歩をしませんか?」

 真希子は友祐の誘いに、笑顔でうなずいた。


 宿の浴衣のほかには、着てきた服しか持っていない。

 浴衣と丹前のままで出かけられる場所など、宿の敷地と、付近の海岸ぐらいのものだ。

 海を見下ろす松林を、手をつないで歩いた。

 静かで、人の気配もない。

 波の音ばかり近い。

(ここがいい)

 同じことを、友祐も真希子も考えたのだろう。目を見交わして、互いに微笑む。

「帰ろうか」

「はい」

「休暇は、明日までです」

「はい」

 光を反射する海に背を向けて、また来た道を戻る。

「お訊きしても?」

 真希子は友祐の返事を待たずに言葉を継いだ。

「お持ちの短剣は、恩賜の……?」

「別のものです」

「安心いたしました」

 微笑んだ真希子を、足を止めた友祐が抱きしめた。

 不意の力に戦いた真希子の唇をふさぐ。唇を重ねていれば、言葉は要らない。

 必要なものは、今は、互いの温度だけだ。


 日暮れに遠い時刻。

 障子越しの光が部屋の中を明瞭に照らす。


 薄紅色に艶を帯びた真希子の肌を、友祐の掌がなぞる。

 なだらかな白い隆起が、未だ、波を残していた。

 紅い蕾に彩られた双丘の狭間に、唇を触れる。

 生命の脈動を感じる。



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