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 部屋にあった卓上カレンダーを十二月に替えた。

 仕事に出かける祐二君を見送った私は、彼のマフラーを借りてアパートを出る。

 鍵を掛けて空を見上げると、薄曇りの隙間から淡い半月が覗いていた。自分の名前に月の字が入っているからか、大切なイベントがある時には空を見上げて月の姿を探すことが多かった。いつどこに月があるのかなんて今はアプリ一つで簡単に分かるのだろうが、それでも偶然見上げた時に月が見えるというのが何だか良い。

 駅に向かって歩き出す。

 狭い路地から大通りに出ると、すぐにスーツ姿の人たちで(あふ)れた。


 自宅マンションの玄関ホールまでやってくると、少しだけ足が重くなる。

 誰にもすれ違わずにエレベータに乗り、四階まで上がった。

 通路を歩きながらバッグの中に鍵の存在を確かめて、私は緊張気味に自宅ドアの前に立つ。それから手にした鍵を差し込もうとした時だった。

 中から掃除機の音がする。

 頭の中には灯里の姿がすぐに浮かんだけれど、家であの子が一度だって掃除機を掛けたことがあっただろうかと自問した。

 ドアノブを回して鍵が掛かっていないことを確認し、私は中に入る。

 ただいま。

 と言おうとしたけれど、(のど)から声が出ていかなかった。

 脱ぎ揃えられていた黒いヒールには見覚えがあった。先端に人工ダイヤが光っていたからだ。

 私は慌ててリビングに向かった。


「友理恵?」

「あら、早かったのね」


 彼女はエプロンに腕まくりをして、まるで自宅のようにスティックタイプの掃除機を動かしていた。私に向けた顔は特に怒ったりはしておらず、いつものお茶をする時と何も変わらない。ただ目線が合ったと思ったらすぐに彼女の方から逸してしまっただけだ。


「あの、料理教室の方はごめんなさい。色々あって……」

「そりゃ色々もあるわよ。いいのよ別に。気にしてないから」


 サイクロン式の掃除機の音は大きくて、その中で聞き取るのがやっとの声を友理恵は発する。


「けど保広も保広よね。妻がいなくなったと思ったらすぐに助けてくれですって。あいつ学生時代から女がいないと何もできない駄目男だったのよ。男って大きくなっても何も変わらないんだから、ほんと手間が掛かるわ。海月もそう思うでしょ?」

「それって、保広があなたを呼んだってこと?」

「聞こえなかった? ごめんなさい」


 彼女は一旦掃除機を止めると、


「そこまで汚れてないから、もういっか」


 それを充電器に戻してから、エプロンを脱いだ。


「座ってて。お茶、淹れるわね」


 私は何か言おうとしたが、


「ね?」


 彼女の有無を言わせない態度に屈して、ソファに腰を下ろした。

 暫くして持ってきた湯呑みの一つはお客様用のものだったが、もう一つは私の知らないやや小ぶりな湯呑み茶碗だった。淡いピンクで、持ち上げて私に向けた面には桜の花が舞っていた。


「それで?」

「色々と悪かったことは謝るけど、でも友理恵。その前に一つだけ聞かせて欲しいの」

「どうぞ」


 友理恵は湯呑みを口元に持っていくと、ゆっくりと吹き冷ましながら笑みを返す。


「なんで、食堂のテーブルクロスが変わってるの?」


 奥を覗き込むと白を基調としたものだったはずなのに、それが今は赤とピンクのチェック柄へと変貌(へんぼう)していた。


「ああ、あれね。汚れてたから捨てたのよ」

「じゃあ、このクッションは?」


 ソファには二つの円形のハート柄をしたものが置かれている。


「保広が腰が痛いって言うから」

「それにその湯呑み」

「可愛いでしょ? 保広の分もあるのよ」


 満足げな顔を見せる彼女の喉を、特別な客人用にとっておいた玉露のお茶が流れていく。


「どういう、こと……?」

「どうもこうもないわよ。あなたと同じ。好きな人と一緒に暮らしているというだけじゃない。何をそんな恐い顔してるの?」

「だからどういうことなのよ!」


 珍しいくらいの大きな声が、私から出た。


「そういうことは亭主も娘も放っておいたあんたが言えた筋合いじゃないのよ! 分かってるのよ。海月が鳥井祐二と不倫してるってことは。その子供を身籠って中絶手術したってこともね」

「それ……なんで」


 誰にも言っていない話のはずだった。

 私の頭では祐二君が直接話したとか思えず、視界が定まらないくらいにくらくらとする。


「いいのよ別に。何も(とが)めてないから。ただ、いつもみたく私のことを浮気女とかって見下さなければそれでいいわよ。知ってたのよ。友達の話だって言って自分の体験談を話している時に、海月がどんな目で私を見てたのか」

「それは……」

「そうなんでしょ? 学生時代からの付き合いだよ。分かってる。分かってるから、大丈夫よ」


 口にしたお茶は熱いのに体が小刻みに震えて、私は湯呑みを落としそうになった。


「保広はあんなだから何も知らないわよ。灯里ちゃんは気づいてるかも知れないけど、私の口からは何も言ってない。あなたと私が黙っていれば、どこにもバレないわ。いいから楽しんできなさいよ。実家に帰ってるフリをして、もっと女としての人生を楽しみなさい。その間に私はあんたの旦那と楽しむから」


 嬉しそうに目を細める。

 それは大学生の頃、自分から男を奪っていった同級生への復讐を果たした時に目にした、彼女の本性の笑みだった。

 私は(おもむろ)に立ち上がる。


「どうしたの?」


 それには答えず、自分の部屋に向かうと、中に入った。

 キャリーバッグを引っ張り出して、それに一つ一つ服や下着を詰めていく。化粧品も、とりあえず二週間分で良いかな、なんて考えたけれど構わずに全てを入れた。


「ねえ、海月。怒ったの? そんなに機嫌損ねないでよ。私たち友達でしょ? だったらたまには保広貸してくれても良いじゃない。ほんとは知ってるんでしょ? 私が大学の時からずっと彼を好きだってこと。ねえ、海月ちゃん」


 海月ちゃん。

 その呼び方を最初にしたのが友理恵だったことを思い出す。

 私はドアを開けると、


「保広と灯里をお願いします」


 それだけ言って、家を出た。


 夕方に帰ってくると思っていた祐二君は、その日、九時前になるまで戻ってこなかった。

 作っておいたオムライスを先に食べてしまって、私は編み物の続きをする。

 今頃あの赤とピンクの趣味の悪いテーブルクロスの上で、保広は大好きな晩酌(ばんしゃく)をしてもらっていることだろう。それとも外に食べに出ているだろうか。昔から保広も友理恵も外食をするのが好きだった。お洒落な店や珍しい食べ物を雑誌で見つけてきては、私を誘って三人で出かけたものだ。


 ――いつから?


 とは()けなかった。

 あの頃からそういう関係があったのだと突きつけられてしまったら、もうあの場所に戻れない気がしたからだ。

 外で雨が降り始めた音がする。

 テレビのない、パソコンのない、音のない部屋で、私は孤独を感じていた。

 と、スマートフォンが音を鳴らす。祐二君だ。


「え?」


 見るとLINEの画面には、


> 仕事を増やしました。解体現場の手伝いで、週に三日ほど入ります。


 それに続けて、


> 今日から早速現場なんで、帰れなくてごめんなさい。


 と入った。


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