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スマートフォンを右耳に当てながら、金森に言われた通りの路地に入る。
彼の住むマンションはドロシーズから徒歩で三十分くらいのところに立ち並んでいるものの一棟だった。
インタフォンで確認すると入り口の電子ロックが解除され、四階まで上がってきて下さいと言われる。
エレベータでは誰とも顔を合わさなかった。
四階の通路から太陽が見えた。まだ空の色を変えるほどは落ちていなかったが、それでも自宅までの道のりを考えると暗くなるまでに帰れるだろうか、と思った。
「どうぞ。お待ちしてました」
四〇三号室のドアを開けてくれた金森は、素肌の上に緩くシャツを着ているだけという随分ラフな姿で私を出迎えた。
一瞬、中に入ることを躊躇したが、写真のことが過って私は金森の背中を追いかける。
彼は私が上がるとドアチェーンを掛け、それから「奥にどうぞ」と案内した。
間取りは2LDKだった。一つは寝室に使い、もう一つは作業部屋にしていると言っていたが、リビングのテーブルの上にもキャンドル用の材料がばら撒いてあった。その中の一つに炎が灯されている。その香りだろうか。ミルクを思わせるものだった。
「もっとリラックスして座って下さいよ。何か入れましょう。ああ、お酒じゃないですよ。ハーブティーにしよう。オレンジブロッサムとかどうです? 柑橘系。いいでしょう」
「何でもいいです」
「素っ気ないですね。今日は安心して下さいよ。少しゆっくり話しておきたいことがあってね……鳥井について」
緊張してソファに座った私は、唐突に取り出された彼の名前に思わず金森を見た。
「知りたいでしょう、あいつのこと」
いいえ、とは答えられなかった。
「少しお疲れのようだ。まずは体を温めて下さい」
「大丈夫です」
そうは言ったものの、昼間のパートでの疲れは私のアラフィフな体にどっかりと伸し掛かっていた。彼の淹れた紅茶は濃い夕焼け色で、確かに香りを吸い込むとすっきりとする。それを口に入れる。入れてしまってから、
「変なものとか、混ぜてないですよね?」
私は訊いた。
「もちろんですよ。そういうこと、私は全然しないんです。だって面白くないでしょう、自分の思い通りになるものなんて」
「私はそうじゃないんですか?」
丁寧な言葉遣いをしておきながら写真を見せつけたり、明らかに思い通りに動かされている。
彼は紅茶に口をつけてから、ゆっくりと首を横に振った。「ええ、違います」
「じゃあ、あの写真全てを、今ここで削除して下さい。出来るでしょう?」
「何か勘違いしているみたいだ。今日は写真の話じゃなくて、鳥井の話をしましょう、と言ったでしょう?」
「そのお話の前に、削除して下さい」
強く言えた。これ以上はもう、言いなりにならない。
「それじゃあ話をしながら、一つ一つ消していきましょう。それならいいですね?」
「ええ、まあ……」
金森は私の返答に笑顔で頷いて、早速今日送った写真を見せてからそれを削除する。
「鳥井からどこまで聞いているか分かりませんけど」
そう前置きをしてから私の隣に腰を下ろし、彼はスマートフォンを見たまま、話し始めた。
「あいつ、母親が水商売をやってて、実の父親はヤクザの端くれみたいな男だったんですよ」
想像していたものと随分かけ離れていて、私はすぐにそれが鳥井祐二の過去の話だと頭で理解出来なかった。
「父親って言っても籍は入れてないし家には殆ど寄り付かなかったから、実質母子家庭で育ったようなもんです。まあ、そんな話はいくらでもそこらに転がっているから、あいつから聞かされた時に特別驚いたりはしませんでしたけど」
私は返事も忘れて、左側で一枚一枚ホテルの写真を消していく金森の横顔を見ていた。
「その父親ってやつは小学校に上がる前によそに別の女作って、それきりだったそうです。だから父親の顔なんて全然覚えてなくて。雑魚寝部屋みたいなアパートを複数の同じような境遇の人間で借りて、化粧と酒の臭いを漂わせた妙な言葉を喋る女たちとその子供らに囲まれて大きくなったんだそうです」
鳥井の顔を思い出す。苦笑したり、照れ笑いしたり、女性不信を告白した時の真面目な顔。その奥にそんな事情が隠されていたなんて、全然知らなかった。
「こんなこと言うとあれですけど、その、性的な虐待ってのも受けてたみたいです。ほら、あいつ女性苦手とか言ってたでしょ? その一因なんじゃないかって、あいつ自身も言ってました」
「男の子を、虐待……ですか」
「詳しい話は聞いてません。ただ、水商売系の知人にはいましたよ。小さい頃からペニスを弄ばれたとか、女性器を舐めさせられたとか。子供なんて何も分かりませんからね。母親とか大人の女に言われるがままですよ。お菓子の一つでもくれるなら何でもした、なんて話もあります」
全然、私が生きてきた世界とは違う、まるで外国のどこかの話を耳にしているのかと思った。
「ともかく、そんな幼少期を生きたそうです」
と、スマートフォンをテーブルに放り出し、彼は私の肩に腕を回してくる。
それでも私は鳥井祐二の話がショック過ぎて、動けないまま、彼の右手を許していた。
「知ってますか? あいつ、中卒なんですよ、本当は」
「え? けど高校の時に」
「あいつも嘘をついていたんですよ。海月さんと同じだ。自分を偽って、ネット上に理想の自分を作っていたんですよ」
金森の手が、服の上から私の右の乳房を鷲掴みにした。強く握る。痛いくらいに指が立てられたけれど、それ以上に祐二の話が私の頭を混乱させていた。




